「海が見たいんだ」
辰也くんは窓を見つめてぽつりと言った。私たちの住んでいる街からは海は見えない。最寄の海は車で一時間もかからない距離にあるのだから、週末にドライブにでも行けば良いのに。彼が計画してくれるならば私は腕によりをかけて美味しいサンドイッチを作るだろう。辰也くんの好きなピクルス、たくさん入れてあげる。
けれど私が「いつでも見に行けるじゃない」と言うと、辰也くんはすごく悲しそうな表情をするのだった。私が訳を聞いても、彼は「なんでもないよ」と言うだけで答えを教えてはくれなかった。
辰也くんの部屋は、せっかく広いのに物が雑多に散らばっている。私が片付けなかったら彼はいつまでも床に本を積み上げておくし、取り込んだ洗濯物を気が向くまで畳まないだろう。普段のしっかりとした振る舞いからは想像できない彼の散らかっている部屋が、私は好きだった。
その話をしてから何週間も経ったけれど、窓の外の風景はいつもと変わらない。どれだけ目を凝らしてみても、海は見えなかった。
「辰也くん」
私の声は上ずって、彼の様子を伺うように恐る恐る顔を上げた。
「ん、どうしたの」
「…こっから出して」
辰也くんは優しく笑うけれど、「いいよ」とは言ってくれない。
信じられないことだけれど、私は、彼の部屋から出られなくなってしまったのだ。海が見たいという話を聞いた日から、私は彼の部屋から一歩も出ることができなくなった。
縛られているだとか、鍵を掛けられているなんてことはないのに、彼の部屋は頑なに私を外に出そうとしない。窓の鍵は開いているし、ドアだって辰也くんは出入りできているのに、引いても押しても動かないのだ。
外に出られない私のために辰也くんが用意してくれる食事は、いつも美味しくない。せっかく作ってくれてるのに、文句をつけるだなんてあまり良い彼女ではない。けれど美味しくないものは美味しくないのだ。出てくるものは形は違えど、毎度毎度どろどろしたスープで、味がほとんどしない。その上生臭いのだから食べれたものじゃない。食べないと死んでしまうのだから無理やり口内に押し込むのは苦痛でしかない。
私、ハンバーガーとか食べたいなぁ。そう言っても辰也くんは譲らない。食事に関しては絶対に彼は譲らない。私が吐こうが泣こうがなにをしようが、絶対に茶碗一杯分のそのスープを食べるように強要してくるのだ。
そろそろ彼の部屋から出られなくなって、正確な日にちを思い出せなくなってきた。 辰也くんがお腹を抱えて笑ったのを見たのはいつだっただろう。なんだか最近見ていない。一緒にいるときにそうやって笑ってくれるのが、一番好きだった。
「…ごちそう、さま」
何杯目かのスープを嫌々平らげて、私は茶碗を辰也くんに渡す。辰也くんは茶碗を受け取って、毎回笑って私を褒める。口元をあげて綺麗に笑って、私の頭を撫でる。毎回毎回それは決まりごとのように行われる。そうしなければならなかったみたいに。
けれども今回は違った。辰也くんは私と同じ目線に立って言う。
「もっと美味しいものが出せたら良かったんだけどな」
「いいよ。そのうち上達するよ」
「甘かったら良かったな。七詩は甘い物が好きだから」
「なに、言ってるの」
何のことを言っているのか私にはわからない。置いていかれるような気がして、私は彼の手を握った。彼の手は酷く冷たい。
「ごめんね。オレはずっと、七詩を守ってあげたかったんだけど」
辰也くんは綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑った。
大きな手が頬を撫でて、それから触れるだけのキスが落ちてきた。
「たつや、くん」
私の声は、なぜだか酷く掠れて、乾いている。
突然。夢から醒まさせるかのように、がしゃん、と金属の音が大きく鳴った。
瞬きを何度かすれば、私の目の前から辰也くんはいなくなっていた。辰也くんだけじゃない。ずっと居たはずの彼の部屋も、家具も、全部無くなっていた。私は砂まみれになったワンピースを着て、裸足で砂漠に立っていた。皮膚が焼けて赤い。焼けた砂を踏みつけている足の裏に、現実的な痛みが走った。どういうことだろう。どういうこと、なんだろう。頭が痛い。訳がわからない。ずっと、私は夢を見ていたのだろうか。
目下、音の発生源を見る。そこには重たそうな金属の手錠と、白骨が転がっていた。瞬間、私は全てを理解した。
ーーああ、最後に辰也くんの声を聞いたの、いつだっけ?
照りつける太陽が不愉快なほど眩しく、暑い。
白骨の右手には手錠がついていて、そのもう片方はーー、どうやら日焼けと鬱血の跡から、私の左手に付いていたようだった。本当に自分の身体かと疑いたくなるほど重たい身体を動かして、握り締められている右手を開けば、小さな鍵があった。手錠の鍵だろう。
思い出して、吐きそうになる。辰也くんは、私の手と自分の手を手錠で繋いで、鍵を飲み込んだのだ。どうしてそんなことをしたんだろう。その理由を今となっては全然思い出せないのに、私は鮮明に彼の身体から鍵を取り出す自分を覚えている。酷く客観的な視点からそれは映し出されている。
仕方がない。なぜなら私はその時辰也くんの部屋にいたのだから。彼が差し出してくれる美味しくないスープを無理して飲み込んでいたのだから。ああ、それは――
途端、胃の奥から胃液が逆流してきて私は噎せ返る。けれども出てくるのは胃液だけで、指を喉の置くに押し込んでみても、私が食べたはずの辰也くんのカケラは出てこなかった。
「どうせなら、逆が良かった。わたしのこと、食べてくれればよかったのに、な」
ざくり、と暑い砂の上に膝を付いた。何日もこの太陽の下で歩いていたというのに、慣れる事もなく皮膚は悲鳴を上げる。私はそんなこともお構い無しに膝から腰、肩とゆっくりと身体を砂に預けていって、最後にはごろりと横になった。吐きそうなほどに熱い。
遠くに灰色の廃墟が沢山見えた。目を閉じて、考える。私は彼の家のキッチンに立っていて、包丁で新鮮な野菜を挟んだパンを切っている。辰也くんは散らかった自分の部屋を嫌々掃除して、簡単な荷造りを始める。そう、海に行くのだ。
朦朧とする意識の中。最後に唇を重ねた時の味を思い出すと、彼の唇は塩の味がしたような気がした。けれどもそれが涙の味だったのか、それとも彼の血液の味だったのか、それは思い出せなかった。
<蜃気楼に楽園を見る>
(氷 室 辰 也)
2013
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