俺の一つ上に、七詩さんという先輩が居た。
彼女はとてもピアノが上手で、高校を卒業したら外国に留学してプロを目指すのだという。
けれども天才だ天才だと持て囃されていた七詩さんは会ってみたら結構普通の人で、ピアノが上手い以外は甘い物が好きなだけの人だった。
俺は音楽とか興味が無かったから、よくコンビニで会ってカゴにチョコレートが一杯入っているのを見たことがあるだけだ。まあ、その量を一人で平らげていたのはなかなか凄いと思った。
そんな七詩さんの指がもげたらしい。
もげた、というのはあまり正しい表現ではない。七詩さんのクラスメイトで俺の部活の先輩であるリュウちんから聞いたのだけど、彼は中国からの留学生だからイマイチ日本語の細かなニュアンスというものを理解していないところがある。いや、言っておくけど俺、賢いんだからね。
本人に会いに行くほど仲は良く無かったから、室ちんに聞いた。室ちんは音楽にも詳しかったから、七詩さんがどれだけ凄い人なのかは殆ど室ちんの情報だった。
「エレベーターの故障らしいね。右手の小指が根元から切断されてしまったそうだよ」
「うわお、痛そう」
「…それよりも、ピアノが弾けなくなるのが可哀想だね」
「ピアノ、弾けなくなるの?」
「訓練すればなんとか弾けるだろうけど…。普通は十本の指で弾くものだろう?」
そうだよねえ、と相槌を打って、俺は室ちんと別れた。
帰り道にコンビニに寄ったら、噂の七詩さんがいた。目元を真っ赤にして、カゴに山ほどチョコレートを入れていた。流石の俺も引いた。そんなに一気に食べたら身体に悪い。チョコレート自殺ってなんか格好良いけど俺の大事な甘いものを容疑者にするのはやめてもらいたかった。
「ねえ、七詩さん」
「うぉお…。なに?えーと、紫原くん」
「流石にチョコレート買占められると俺困るんだけど」
「あ、ごめん」
恥ずかしそうに二藍さんはチョコレートを一つ一つ棚に戻していく。その間に俺は会計を済ませて、カゴの中身をすっかり棚に戻し終わった七詩さんの手を引いて外に出た。
「あんたの指、もげたんだってね」
間違えた。なんでリュウちんから聞いた言葉をそのまま言ってしまったのかわからない。
七詩さんは別にショックでも無い様にコンビニの前の縁石に座ると空を見上げた。夕焼けが眩しい。七詩さんの泣き腫らした赤い目元と、目の中に映った夕日が綺麗だ。
「劉から聞いた?…そう。もげちゃった。小指が、根元からぼろーん」
隣に腰掛けた俺の目の前で、包帯の巻かれた右手が差し出される。確かに、本来小指のあるべき場所には不思議な空間があるばかりだ。
「痛かった?」
「それよりびっくりした。エレベーターの扉に挟まって、開いてくれなくて。しばらくして開いたときには、小指、無かったの」
「へえー。大変だ」
「…君さあ、わたしにとってどれだけ大変かわかってる?君の身長が四分の一になったより大変だよ」
「まじかよ…」
その例えも全然良くわからない。やっぱりこの人はピアノ以外はあんまり得意じゃないのかもしれないと思った。それでも顔をくしゃくしゃにして自分の指を眺めている様がなんだか可哀想だったから俺はコンビニの袋を漁って板チョコを差し出した。
七詩さんはちょっと笑うと受け取った矢先に銀紙を破いてチョコレートにかぶり付きだした。なかなか豪快な食べ方だった。
「でもさあ、小指がないと指切りができないんだね」
「…え?」七詩さんは怪訝そうな顔で俺を見つめる。口の横にチョコレートがついていた。
「ゆびきりげんまん、ってやるあれ。あれができなくなったんだね。あんたは」
そんなこと考えもしなかった、と七詩さんは自分の無くなった小指を見つめる。
けれど指切りの有無など彼女にとってはあまり重要な事ではないみたいだった。溜息をついた七詩さんを覗き込むように問いかけた。
「ピアノ、続けるの?」
「…わかんない。一本足りないの、どうしたらいいかなあ」
「続けたら良いんじゃない。別に好きじゃなくても、良いし。動機なんかなんでも。弾きたいなら指が十本でも五本でも弾けば良いじゃん」
七詩さんは涙を堪えているようでもあった。
ただ俺の話に耳を傾けながらチョコレートを齧っていた。
「俺、音楽には興味無いけど。九本指で弾くピアノなら面白そうだから聴きに行っても良いよ」
「ほんと?…その時は、死ぬほどチョコレート差し入れしてね」
「いいよ。約束しよっか」
俺は自分の小指と、七詩さんの曲げられた四本指の横の不自然な空間を絡めたフリをする。さっき指切りが出来なくなったと言ったけど、まあこれもこれで指切りだと思えば成立してない事もない。
ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーん、のーます。
小指の無い指切りも、九本指のピアニストも、なかなか良いものだと思った。
<無くした小指>
(紫 原 敦)
2015
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