月の光が窓から差し込んで、光のない部屋を照らした。淡く照らされた部屋の中では吐息だけが静寂を遮る唯一の音だ。
慈しむ様に二藍の手が氷室の脚を撫でた。氷室は反応を返さない。
まるで氷のようだ、と冷たい足首に唇を落として二藍は思う。
氷室の脚は動かない。膝から下は完全に。脚の腱が切れてしまっているから、立ち上がることはできても、歩くことはできない。
二藍は魔法使いでもなんでもないから、自分の口付けで氷室の脚が治るなどとは考えていない。けれども何もせずにはいられないのだ。寂しそうに笑う主人に何ができるだろうかと考えて、考えて、結局何もできないとわかって、ただ氷室を慰めるために舌を這わせた。
爪先を舐めあげるように口付けて、ゆっくりと上へと辿っていく。膝の下から緩い感覚が上がってきて、氷室は少しだけ腰を浮かせた。
「…たつや、さん」
熱を孕むものを手にとって、啄ばむように唇を押し付ける。二藍が氷室の名前を呼んだ。ただ名前を呼ぶだけなのに、まるで聖書の一節を読んでいるかのように、二藍は大事に氷室を呼ぶ。
「っ…、七詩、」
ゆっくりと唇によって愛撫されていくうちに、氷室の頬も上気してきて、それを見られないように二藍の頭を撫でた。
性欲解消でしかないのに、この行為に意味を見出そうとしたり、名前をつけようとする女はたくさんいた。そのたびに氷室は冷たく言い放ちたくなるのだ。意味なんてない、愛なんかじゃない。勘違いしないでくれ、と。その度に動かない自分の脚が目に付いて、女たちの反論が向かってくる。脚の悪いかわいそうな御曹司は哀れで、滑稽で、付け入りやすかったからだと。
哀れなほどに聡い氷室はみんなわかっている。自分こそが人のぬくもりに餓えて身体を求めて、愛を欲しがっているのだと。
それが一番知られたくないから、氷室は取り繕って隠そうとする。
わからないままでいて欲しい。自分のことなんて見ないで欲しい。――けれど、愛されたいのだ。
誰もが盲目のまま神を信じ続ける羊で在れば良いと願って、また自分の傲慢さに嫌気が指すのに。
「ん、う」
「七詩、飲み込まなくても良いよ」
「あ、ごめんなさい」
塗れた唇の隙間から赤い舌を出して、二藍は笑った。唾液を飲み込んだ喉がこくりと鳴って、扇情的に写る。
もう一度爪先にキスを落とした二藍の手を引いて、氷室は自分の腕の中に押し込んだ。
二藍が自ら口付けるのは、氷室の脚だけだ。頬や、額、唇などには絶対に自分から触れない。
その理由はお互いが口に出さずともわかっている。二人は対等ではないのだ。
氷室がキスをして腕に抱いても、二藍がいくら愛の言葉を囁いても、朝日が昇れば二藍の姿はベットから消えているし、氷室は甘い言葉をかけたりはしない。
氷室との関係は、シンデレラの魔法みたいだ、と二藍は思う。
朝になれば魔法は解けてしまうから、氷室は二藍のことを見てくれなくなる。ガラスの靴を落としていくようなあざとい真似は二藍にはできなかった。だってきっと、ガラスの靴が似合う女性はほかにもっとたくさんいるから。踵を切って、爪先を潰してでも氷室の隣にいたい女など、履いて捨てるほどいるのだ。
魔法の呪文のように、二藍は氷室の名前を呼ぶ。明日も、明後日も、氷室が自分を必要としてくれるように。
***
「物騒な時代だよね」
同僚がモップをかけながら言った。光沢のある大理石の床は塵ひとつなく磨き上げられていて、大きな窓から差し込む日の光に反射して輝いている。
その仕事ぶりに感心しながらも廊下の花瓶を磨いている二藍は相槌を打った。
「そうだねえ。まあ、夜一人で出歩かない限り大丈夫じゃない?」
「あんたの心配なんかしてないよ。あたしが心配してるのは氷室様のこと」
二藍の肩が少しだけびくついた。同僚は気にかけてもいないようで黙々とワックスを塗っていく。
「ただでさえ薄幸の美青年でさあ、脚も悪いじゃない。悪漢に狙われたらどうしよーって思うよね」
「いやいや、わたしが身を挺して守るよね。悪人をこう…なんとか倒して、それで感謝されちゃって…ね!」
二藍の力のない右フックは姿の見えない悪人をふっとばし、華麗なターンを決めたところで先ほど磨き終えた花瓶を払い落とした。磨き上げた床には水と破片が散らばり、同僚と二藍は悲鳴を上げた。
「あんたみたいなドンくさいメイドでも氷室様を守れるなら、ボディーガードなんていらないでしょうがっ!」
「ごめんってばー!」
同僚に追いかけられながら、二藍は思いを馳せる。
――本当に、身を挺して守るのに。あの人の邪魔をするもの、あの人を傷つけるもの、あの人を不安にさせるもの。全て無くして差し上げたい。
――けれどあの人が幸せに笑える世界になったとして、あの人が私を見ないことを知っているから。
――そんな未来は実現しなきゃ良いとも思う。
***
部屋中に所狭しと置かれているパソコンのせいで酷く狭く見える部屋に、二藍はいた。面と向かうのは巨大なスーパーコンピューターであり、二藍の身体の回りを取り囲むようにして三台の機材が置かれている。流れるように打ち込まれていくプログラムを目で追いながらも、ふとした瞬間には右のコンピューターのキーを叩いている。
二藍の仕事はここのコンピューターの管理だ。情報処理からハッキングまで、恐ろしいほど正確で悪質なプログラムを組み上げるプロだ。昼間は氷室の身の回りの世話をするメイドとして行動しているが、本職はこちら、ハッカーである。しかし、彼女が氷室の管理する企業の技術屋であることは、彼女と氷室、それに上層部の数人しか知らないことだ。
今彼女が行っているのはハッキング。犯罪であり、彼女の得意分野である。侵入した先は大企業だ。足がつけば二藍だけじゃなく、氷室家もただでは済まない。それらのリスクを背負ってでも、やらなければならない仕事なのだ。
「…ずいぶん、ちょろ甘なガードですこと」
忙しなくキーボードを叩いていた手が止まり、エンターキーを力強く叩いた。その瞬間部屋中のモニターにプログラムが一斉に表示され、それぞれが完了までのゲージを表示していく。相手方の抵抗があるのか、なかなか動かないゲージを見つけては追加の攻撃を打ち込んでいく。
―今回のわたしの仕事は、完膚なきまでにこの企業を叩き潰すこと。悪徳企業だもの。
送り込んだウイルスが相手方のデータを食っていく。社員の個人情報、文書、開発途中のプログラム、あっという間に二藍の作ったウイルスに蝕まれていく。相手方のホワイトハックが抵抗しているのだが、侵食のスピードが速すぎる。
部屋の隅にあるモニターが、映像を写した。それはパソコンの画面ではなく、二藍の襲う企業を取ったカメラだ。
多く映されているのは通路や部屋ではなく、地下倉庫のような場所ばかり。薄暗く、しかも映るのは機械だ。
―パソコンの中身は回線通してズタボロ。今頃相手側は悲鳴を上げているはず。残りは…
傍にあったペットボトルを飲み干して、二藍は再びキーボードに向かう。画面一面のプログラムを書き換えていく。これはセキュリティのプログラムだった。廊下が映されている画面に動きがあった。ひとりでに消化扉が降り始めたのだ。残っていた社員たちが慌てて飛び出してくるが、なすすべも無い。そこらかしこで火災報知機が鳴り出して、スプリンクラーが動き出す。緊急停止のスイッチは役に立たなくなり、エレベーターは停止した。
「…よし!」
目を何度かこすって、二藍は立ち上がる。ウィルスは一から作ったオリジナルだし、足跡も完全に消した。抜かりは無い。これで氷室も満足するだろう。彼の部下では、誰一人として達成でき無かったことだ。偉業だ。そう考えると達成感が込み上げてくる。誰も味方がいなくとも、それでもいい。
疲労と寝不足でふらつく足のまま、仕事の報告に行こうと氷室の部屋へ向かうと、途中の廊下で車椅子の氷室に会った。ちょうど良かったと、車椅子を押しながら仕事の報告をする。
「氷室様、無事に完了しましたよ。明日にはニュースになっているんじゃないですかねえ」
「流石。ねえ七詩。疲れているところ悪いんだけど、コーヒーを淹れてくれないか」
たわいも無い話をして、部屋に着いたところで、氷室がコーヒーを頼んだ。厨房は少し遠いけれど、と付け足される前に二藍は返事を返す。
「はい、かしこまりました」
「二人分作っておいで」
行儀が悪いと思ったけれど、二藍は駆け出した。
氷室の役に立ちたかったのだ。彼に信頼されて、仕事を任されて、自分の存在が彼の中で大きくなることばかりを望んだ。そのための仕事だ。
けれども氷室が求めていたものはこんなものではなかったのだ。淡々とした賞賛には感情が見えなかった。
暗闇では氷室を追えない。求められていることもわからない。だから、手探りで探す。氷室の声のしたほうへと、ただただ二藍は歩き続けるしかできない。
五分も経たずにトレイにカップを二つ乗せて、二藍が厨房から戻ってきた。疲労のせいか足取りがおぼつかず、氷室がカップを受け取ってソファーに座るように促すと崩れ落ちるようにソファーに沈む。
氷室は出来立てのコーヒーを一口飲んで、横たわる二藍にキスをした。
「君の入れたコーヒーが一番美味しいんだ」
思わず涙を浮かべた二藍はただ頷いた。それしかできることはなかったから。
盲目のまま、あなたを求めて彷徨う、哀れな羊だ
< 夜盲の羊 >
(氷 室 辰 也)
2015
・・・
一時期友人とブームだったどじっこパソコン得意メイドと御曹司氷室くん
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