僕の幼い頃に、空が飛べる少女がいた。
ひとつ年上の彼女は七詩と言う名前で、まっすぐの黒い髪と屈託の無い笑顔を浮かべる少女だった。
その日も七詩は僕の手を引いて河原へ行った。七詩は近所の子供達と遊ぶ事を禁じられていた僕の唯一の遊び相手で、たくさんの遊びを知っていた。
流れの遅い川の飛び石の上を手を繋いで越えていく七詩を見て、僕は言う。
「七詩、飛んでいるところを見せて」
「いいよ、よく見てて」
七詩は飛び石から右足を水面に伸ばして、そのままもう片方の足も離した。
飛ぶと言うより水面に浮いていたように思える。けれどももっと高いところからでも彼女は何度も僕の前で飛んでくれたのだった。
誰も見ていないことを確認すると七詩はそのまま水面をスキップした。水面に波紋ができるだけで、彼女の足は水面を歩いていない。
まるで羽根があるみたいだと僕は思っていた。七詩と遊んでいる時間だけが僕にとって現実だった。
「キリストみたいだ」
「キリスト?アタシはティンカーベルみたいだと思ってたのに。ここにね、薄い透明な羽根があるの」
「……キリストだったら、七詩を信じていればぼくも海の上を歩けるんだ」
背中を指差していた七詩は首を傾げて笑って僕の手をとった。そのまま引かれて、足が水面に触れる。
―落ちる!
思わず七詩にしがみ付くと僕の身体も浮いていた。信じられない、という顔で見つめれば七詩は白い歯を見せて笑う。
「もしかして、アタシってキリスト?」
「……かもしれない!」
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十年も昔の事だ。あれから彼女が飛んでいるのを見たことはない。小学校に入りたての僕らはどこまでも無邪気であった。小学校の高学年にもなれば僕と七詩が一緒に遊ぶ事も少なくなった。彼女には彼女の友達がいたし、気恥ずかしさもあって廊下ですれ違うときに目を合わせるだけの関係になった。
中学生になると七詩は陸上部に入った。何度か彼女の走っている姿を見たが、彼女は風のようだった。ハードルの選手であった彼女が表彰状を受け取っている姿を見るたびに、不公平だと思ったものだ。
ただの人間が勝てるわけが無い。彼女には羽根が生えているのだから。その秘密を知っているのは僕だけだった。それを自慢に思いながらも、七詩が飛べるのだということを他の人間が知らないのが不服だった。彼女は特別な人間なのに。
高校に上がったある日、七詩は死体で発見された。
連れ去られて、乱暴されて、殺された彼女の身体にはいくつもの切り傷があった。特に背中を何度も何度も刺した痕があった。犯人には彼女の翼が見えていたのだろうか。
大粒の雨が頬を濡らした。それをきっかけにコンクリートに水玉がいくつも落ちていく。二十階建てのマンションの屋上はこの街の遠くまで見渡す事ができる。
手に持っていた大振りのナイフを落とした。乾いた音がして、足元の水溜りが赤く染まった。雨が服を濡らしていき、白いワイシャツに血が解けて色が変わっていく。
七詩を殺した奴を許すわけにはいかなかった。中年の男で、妻と子供がいた。どうして彼が七詩を殺したのだろう。理由を聞く前に、僕はナイフで男の心臓を突き刺していた。
雨の音だけが聴こえる。まるで世界に自分しかいないみたいだと、下らないことを思った。七詩はどうして、二度と僕の前で飛んでくれなかったのだろう。
考えても分かる筈が無い。ドアの向こうが少しだけ騒がしくなった。
灰色の空をしばらく眺めて、僕はポールを乗り越える。
「七詩、僕はね、いつまでも君を信じているんだ」
手を離して、身体を前に倒した。ざぁざぁと雨の音だけが聴こえる。目を瞑った。落ちているのか、それとも浮かんでいるのかも解らない。
僕の手を掴んで笑っている彼女のことを思い浮かべて、意識を手放した。
アラン・トラジコメディー
(召しませ、ご覧あそばせ、人は空を飛べない)
(赤 司 征十郎)
2014
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