ゆびきりをしようか、と辰也くんが言った。
彼が手を差し出してきたのは、私がぽつりとベッドの中で「水族館に行きたい」と漏らしたからだった。彼のまっすぐに伸ばされた小指は爪の先までが綺麗だった。まるで彫刻のように整った辰也くんの身体とは対照的に、わたしの貧相な身体には点々と痣が浮き出ている。それこそカラフルなスポットライトが当たったかのように、藍色や桃色、出来立ての薄い青色のまあるい枠が皮膚の上にできている。これがカンバスであれば、とても綺麗な色なのに。浮き出ているのが皮膚の上では感嘆の声も上がらない。
辰也くんがわたしの頼みを聞いてくれるのは珍しい事だった。わたしと辰也くんは一応、世間一般で言われるこいびと、という関係ではあったけれど、それはあくまで表面上だけの関係であって、実際はわたしはただの彼のストレスのはけ口であった。辰也くんはわたしのことなどこれっぽっちも好きではなかったのだ。
辰也くんが泣きながらわたしに謝るたびに、わたしは幸せな気分になった。抱きしめて、頭を撫でて、愛してると囁かれるためなら、何度殴られたって良かった。彼が求めているのは都合の良いお人形であることも知っていた。わたしは愚かな女だけれど、それくらいはわかっていた。それでも良いと自分で決めたのだから仕方が無い。人形だって夢を見るのだ。いつか辰也くんがわたしのことを好きになってくれるかもしれないと夢見ていた。そうなったら、わたしが一番の彼の理解者である自信があった。わたしたち、素敵な恋人同士になれるはずだ。
わたしは辰也くんの指に自分の指を絡めることに少し躊躇いを覚えた。ゆっくりと小指を重ねて、彼の方から優しく指が絡んだ。あぁ、まるで本当の、恋人同士みたいだ。口元が我慢できずに緩んで、そんなわたしを見て辰也くんが笑った。
「七詩は魚が好きなの?」
そう、わたしは水族館が好きだった。いつか彼と一緒に行きたいと思っていた。一緒にキラキラ光る水の中で泳ぐ魚を眺めて、手を繋いで館内を回るのが夢だった。けれどそんなことは言えなかった。わたしたちの言うこいびと、とはそういうことをする関係ではなかったから。
言葉が出てこなくて、馬鹿のように頷いた。辰也くんは「そう」と優しい低い声で相槌を打って繋いだままの小指を揺らした。
「水族館か。オレも随分行ってないな。なんの魚が好き?」
「…ナポレオンフィッシュが好き」
「どんな魚?」
「大きくて、きれいな水色なの。水中を泳いでるときの、間抜けな顔がすごくかわいい」
「今度見に行こう。どれがナポレオンフィッシュか教えてくれる?」
「うん」
嘘をついたら針千本を飲ますとは言わなかった。約束だけで十分だと思った。彼との間に約束が結べることだけで、この関係から抜け出せたような気がしたのだ。
――確かに、この関係からは抜け出せた。それからしばらくして、辰也くんは私に別れを告げた。浮かれて握り締めていた水族館のパンフレットが水溜りに落ちた。理由を聞けば、大事にしたい人ができたんだ、と彼は申し訳なさそうに笑った。
「わたしと、水族館に行ってはくれない?」
なぜだか、その言葉がはじめに出てきた。そりゃあそうだ。だって、約束したのだから。指切りだってした。針だって飲めるくらい嬉しかったのに。
辰也くんは顔を歪めて「ごめん」とだけ言った。しつこく食い下がる事もできたかも知れないけれど、彼の目線の先にいた可愛らしい少女を見つけてしまったから、わたしはすごすごと退散する事にした。水溜りから拾い上げた水族館のパンフレットのイルカは色が変わり、ぐにゃぐにゃになってしまった。
辰也くんはあの子に暴力を振るわない。嘘もつかない。キスだってするし、優しく壊れ物を扱うように抱きしめて、好きだと囁く。あの子は辰也くんの腕の中で、綺麗な顔に微笑みを浮かべて、辰也くんの名前を呼ぶ。そうして、二人して目線を合わせて笑いあうのだ。全部、わかってしまった。
なんて理想の二人だろう。
わたしは、そんな関係にずっと憧れていた筈なのに、どうしてだろう。どうして辰也くんの隣で彼を微笑ませているのはわたしじゃない女の子なのだろう。
彼の小指と約束したのは、わたしの小指のはずなのに。約束はまるで夢幻みたいに消えてなくなってしまったみたいだ。
***
辰也くんとわたしがただの他人になってしまってから一週間後。わたしはバスに乗って、一人で寂れた水族館にやってきた。くしゃくしゃになったパンフレットの水族館は、一人で行くには広すぎた。ネットで調べた水族館にはイルカもアザラシもいなかったけれど、お目当てのナポレオンフィッシュが大きな水槽の中でわたしを待っていた。
この巨大な青い魚は小さい頃に見た記憶と同じまま、間抜けな顔で水槽の向こうのわたしを見つめていた。私が手を伸ばすと、シルエットに驚いたのか大きな身体を揺らして避けていってしまった。ナポレオンフィッシュが唇を突き出したまま酸素を取り入れようとしている様は、まるでキスを求めているみたいだと思った。キスしたいなら、わたしがしてあげるのに。ねえ、こっち向いて。誰も、わたしのこと見てくれないの。
わたしは拳を丸めて乱暴に水槽を叩いた。私の周りから魚が逃げていって、隣のガラスのほうへと移ってしまった。
わたしは、逃げなかったのに。いつかは愛してくれるって信じて、ずっと傍にいたのに。必要とされたのはわたしじゃなかった。
頬が冷たい。わたしは水槽を殴りつけながら泣いていた。平日の水族館は閑散としていて、わたしがいくら拳を打ちつけようと怯えているのは魚だけだった。
そのうち打ち付けられた小指の感覚が無くなって、掌から血が出てきたけれど、わたしは水槽を叩くのをやめなかった。水槽に拳の痕が赤く残った。ナポレオンフィッシュは怯えるように水槽の底で岩陰に隠れている。大きな身体は全然隠れていないのに。
皮膚の皮が剥けて、それでも打ちつけ続けると、終にぱき、と音がして、小指が砕けたのがわかった。役立たず。約束ひとつ守らせられない小指なんて必要ない。もう一度強く水槽を叩くと、そこで水槽に亀裂が入った。割れてしまえ。何度も何度も繰り返すと、亀裂は大きくなって、ガラスは砕けて大量の水があふれ出てきた。
水槽の水はあっと言う間に通路を埋め尽くし、頭のてっぺんまで水の中に沈んだ。たくさんの魚がふらふらと通路に出てきた。狭かっただろう。だって本当の海はもっと広いものね。わたしは満足して、その様をのんびりと見つめる。水槽を殴り続けた右手からは血が滲んで、わたしが水中を移動するたびに赤いリボンが付いてきてその後を魚が追いかけた。それが楽しくて水没した水族館を散歩していると、あのナポレオンフィッシュがわたしの目の前に現れた。
間抜けな顔をしたナポレオンフィッシュは無用心にわたしに近づいてくると握り締めた右手に口付けを落とした。わたしは驚いて彼に問いかけた。言葉は泡になってしまったけれど、魚には伝わるのかもしれない。伝わらなくたって良いのだ。
「……おいしい?」
不思議そうにわたしを見つめる彼は、どうやら指を食べる気はないようだった。柔らかい感触がなんども拳に当たる。まるで慰めるみたいに。痛くなんか無いのに、心配なんてしなくていいのに。わたしが好きでやったんだから、気にしなくたって、いいのに。今までだって、ずっとそうだったんだもの。
手を伸ばして、水色の鱗を撫でた。青色も、水色も、藍色も、全部が綺麗だった。触れられるのを嫌がらないナポレオンフィッシュに少し意地悪をしたくて、左手で鱗を一枚はがしてやった。彼はびくりと水中で身体を震わせて、わたしを睨んだ。それからくるりと後ろを向いて、尻尾でわたしの頬を打った。
「………ごめんな、さい」
力は全然無かったけれど、わたしは驚いて頬を押さえて謝った。それを聞いて、またこっちを向いたナポレオンフィッシュはわたしの唇に口をくっつけた。
酷く不器用だった。けれども暖かくて、わたしはずっとこうして、慰めて唇を押し付けてもらいたかったのだ。けれど、それは叶わなかった。これからも、叶う事はないのだ。
触れるだけのキスを終えて離れたナポレオンフィッシュを抱きしめた。喜んでいるのか、ぱたぱたと尻尾を左右に振る姿が酷く優しい。不細工に出っ張った額を撫でて、キスを落とした。されるがままの魚は何を考えているのだろう。
「ずっと、こうしたかったの。一番になりたかった。大事にされて、優しい言葉をかけられて、キスしてもらいたかった……」
わたしの涙はこぽこぽと泡になって、どこか空気のある場所へと向かってゆく。それを追いかければわたしの居場所も見つかるのだろうか。けれど、きっと、酸素があったってわたしは息苦しい。辰也くんと幸せそうに手を繋いで水族館を巡っている可愛い彼女を見るたびに、わたしはこうして涙の海に溺れてしまうのだから。
<溺藍>
2015
prev next
back