真太郎が家に帰ると、リビングにいた恋人の二藍七詩が電灯に自分の手を透かして眺めていた。手の平を何度も裏返して、自分の血管を確認するように電灯の下で彼女はしかめ面をしていた。
「……七詩。ただいま。何をしているのだよ」
「おかえりなさい、真ちゃん。あのね、信じてくれる?」
夢中になっていた七詩は真太郎の帰宅に声をかけられるまで気づかなかったようで、恥ずかしそうに顔を綻ばせた。ぱたぱたと急ぎ足でキッチンへと向かった七詩はガラスの花瓶に入れられた赤い薔薇を一輪持ってきた。
「この薔薇ね、私の右手から生えてきたの」
ここから、と七詩は真太郎の目の前に右手の手首を刺し出した。俄かには信じられない。確かに彼女の手首には薔薇の茎と同じような大きさの瘡蓋はあったが、それが彼女の身体から花が生えてきたと言う証明にはならない。
七詩は冗談の好きな女だった。真太郎は首を傾げて、薔薇の花を見つめた。つい先刻花屋から買ってきたような生き生きとした薔薇であった。
「綺麗な薔薇だ」
「…真ちゃん、信じていないでしょう」
「実際に見てみないことには、信じられないのだよ。人間の体内から花が生えるなど、非科学的だからな」
「お医者さんの卵の真ちゃんが言うなら、そうなのかしら?明日も薔薇が咲いたら、見せてあげる。今度は切らないわね」
七詩は自分の手首を擦ると口笛を吹きながらキッチンへと戻っていった。リビングのテーブルの上には赤い薔薇が一輪飾られていた。
その夜、七詩の鈴の鳴るような声に起こされた。真太郎より七詩が早く起きるのは珍しいことだった。真太郎は小さな胸騒ぎを感じながら七詩を見た。七詩は興奮した様子で寝巻きのワンピースのまま真太郎を揺する。
眼鏡をかけて、差し出された右腕を見れば手首から蔓が延びている。螺旋を描いて七詩の腕を伝う蔓は肩まで延びて、丁度七詩の首の辺りでチョーカーのように大輪の花を咲かせていた。見ればいくつも蕾を拵えて、白い肌にアクセントのように強烈な赤い色が咲いていた。
「ね、嘘じゃなかったでしょ」
「身体は、平気なのか。異常はないのか…。どこか痛んだり、倦怠感はないか」
「やだ、真ちゃん。私、元気でしょう?花に生気を吸い取られたりはしてないわ」
動揺する真太郎の唇に人差し指を当てて、七詩は微笑む。一拍あけて、首を傾げた。彼女の身体に起こったことだというのに、七詩は気に病む様子も見せずに首もとの花を撫でた。
「……それにしても不思議ね。どうして手首から花が咲くのかしら。この下は血管でしょう」
真太郎が触れると確かに柔らかい手首には血液が流れている。脈も常人と代わらない。ただ、長い蔓がそこから飛び出しているだけだ。薔薇の茎には棘が並んでいたが、美沙の皮膚に触れている部分には棘は存在しなかった。七詩とその薔薇は一つのものであった。好き好んで自分を傷つけることなどしないのだ。
薔薇の蔓をペンチで身体から剥がしても、また時間が経てば手首からは蔓が延びてきた。七詩を大学病院に連れて行ったが、教授も医師も首を傾げるばかりで身体から花が生える人間など見たことが無いと匙を投げた。何週間かの検査入院を言い渡されたが、七詩は笑ってそれを断った。
「…俺はまだ免許も持っていない。お前にもし何かがあった時に対処はできないんだぞ」
「いいのよ。どうせ何ヶ月入院したってわからないんだから。それなら真ちゃんが私のこと調べて頂戴。新しい発見があったら、学会に発表して良いわ。それでも、解決できなかったのならそれは仕方ないわ。私、花咲き女としてサーカスにでも行こうかしら。人気出ると思わない?」
すれ違う人は皆七詩の首もとの薔薇に目を向ける。余りにも精巧なそれが流行のアクセサリーであるかのように、七詩は自然に笑う。
笑ってこそいるが、繋いだ七詩の手は震えていた。このような訳のわからない状態になって、真太郎と離れたくは無いのだということが彼にもわかってしまったから、それ以上何も言わなかった。ただ帰りに書店で植物図鑑を買った。
七詩の身体の花は右手だけではなく、日に日に増えていった。左手首、両足首からも蔓が延びて、花を咲かせる。それは豪奢な牡丹であったり、素朴な朝顔であったりした。日替わりで枯れては芽吹く花たちは多様であれど、真っ赤な薔薇だけはいつも彼女の身体から離れることなく咲いていた。
「部屋に花がある生活って中々良いものね、真ちゃん」
七詩は日当たりの良い窓際に置いてある揺り椅子に座ってペンチで自分の脚にまとわりつく躑躅の枝を切っていた。深い桃色の花をテーブルに置くと真太郎がそれを受け取って大きな花瓶に活けた。
真太郎の家は今では花だらけだ。七詩の身体に咲かせておけば一日で枯れてしまう花も、切り落として水につけておけば一週間は咲き誇る。すっかり花を活けるのが趣味になってしまった七詩が切った花を水につけるのは真太郎の仕事であった。凝り性の彼は態々栄養剤を買ってみたり、枝の植物が咲けば土に植えてみたりと、彼のほうでも新たな趣味を開拓したようであった。
「七詩、夕食はどうするのだよ」
「私は要らないわ。真ちゃんの分だけ作っておいたから」
「食べないと身体に悪いぞ。最近は水ばかりじゃないか」
「最近ね、すぐ眠たくなってしまうの。転寝しているから、食べ終わったら起こして。ピアノを弾いて」
「……わかった」
日当たりの良い窓際は美七詩の指定席だ。仕事を休み、日中家にいる七詩は真太郎が大学に行っている間に家事を終わらせるとずっと揺り椅子に座って眠っている。
その間口に入れているものは水だけだ。流石に真太郎も心配になったが、体重の変化は見られないし、女性らしい整った身体も変化が無い。身体に花が生えているのが原因で、日光浴と水分を欲するのだろうか。
七詩が眠っている間に真太郎は医学書を読みふけり、過去にこのような事例が無かったかを毎晩調べている。調べているのにもかかわらず、そのような事例は存在しなかった。花が咲く人間だなんて、あり得ないのだ。
赤ワインから作られたビーフシチューを食べ終わると、七詩が真太郎を呼んだ。
「……美味しかった?」
「あぁ。旨かったよ。料理の腕が随分上達したな。……本当にお前は食べないのか?」
「いらない。全部食べちゃって良いのよ」
こうなった七詩は頑固だ。体調に変化が見られたら縄で縛ってでも点滴を打ってやると決意を固めて、食器を洗った後に真太郎はアップライトピアノに楽譜を立てた。
「私のピアニスト。今日のリサイタルの曲目は何ですか?」
「そんなに大仰な物ではないのだよ。リストの『愛の夢』とチャイコスフキー<四季>から『松雪草』を」
「素敵な選曲だわ」
真太郎の指が鍵盤を滑る。鍵盤を撫でる指が酷く色っぽいと七詩は演奏を聴きながら思う。優しく、一音一音を大切そうに弾き切る真太郎の演奏が七詩は好きだった。真太郎は何事に対してもストイックで、一途だ。それが音から伝わってくる。
最後の一音が空気に溶けて消えるまで。真太郎の脚がペダルから離れるまで、七詩は集中を切らさない。振り返った真太郎がただ一人の観客の為に頭を下げるまで。彼のリサイタルは終わりではない。割れるばかりの拍手を送るのは七詩だけの特権だ。今回はさらに、薔薇の花まで用意してあるのだ。
「私、生まれ変わったら花になりたいと思ったことがあるの」
ベッドの中で、棘に触れないように真太郎が七詩の頭を撫でた。髪を梳いて、滑らかな背中に指を這わせる。蔓に覆われていない背中は、真太郎が唇を落とせる数少ない場所だ。
「花に?どうして」
「日当たりの良い場所で、真ちゃんのピアノを聴きながら眠るの。喉が乾いたら真ちゃんが如雨露で水をかけてくれる。大好きな貴方の傍に枯れて朽ちるまでずっと居たいって。真ちゃんが私より先に死ぬのは嫌だけど、それならもし真ちゃんが死んでしまっても私もすぐに後を追えるでしょう?」
「下らないのだよ。お前は現状に満足できていないとでも?」
「ううん。勿論こうして真ちゃんに抱きしめてもらって、温もりを感じられる今が一番幸せよ。でも、そう思ったことがあったの。それだけ」
その言葉は意味深であった。
まるで七詩が一度望んだから、今の状態があるかのようだった。七詩の首筋に唇を這わすと、桜の仄かな香りがした。
「花になんてならないでくれ。七詩」
真太郎は恐怖を感じていた。七詩は返事を返さなかった。ただ薄く微笑むと真太郎の頭を撫でて額にキスを落としただけだった。
それが肯定なのか否定なのか、賢い彼にもわからなかった。ただ永遠の別れの合図のような気がして、鼻の奥が年甲斐も無くツンと痛んだ。
ある日真太郎が家に戻ると、七詩がいつも座っていた揺り椅子のあった場所には美しい薔薇の木が立っていた。光を浴びて輝く赤い蕾は七詩の唇の色と同じであった。
「七詩」
真太郎は彼女の名前を呼んで、薔薇の枝を撫でた。傷一つ無い指先に棘が刺さって血が滲んだが、彼は気にすることなくピアノに向かった。
七詩の好きだったトロイメライ。真太郎の指が鍵盤の上を駆け回るたびに、赤い痕が白鍵の上に残されていく。窓際の薔薇は風もないのに身体を揺らした。
「お前はこの曲が好きだろう、七詩」
――そうね、真ちゃん。あなたのピアノが私、好きなの。
返事を返すように、さわさわと薔薇の木は音を立てた。その音を聞いて、真太郎は満足そうに笑った。
<わたしの身体が花になれば>
(緑 間 真太郎)
2014
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