額に冷たいものが触れた。それが人の手の平なのだと理解した時にはその手の持ち主はゆっくりと真太郎の髪を撫でていた。その感触はどこか懐かしいものであった。けれどもそれをどこで感じたのかは思い出せなかった。耳の奥でさらさらと砂の落ちる音が聴こえる。
軽い頭痛と共に重たい瞼を持ち上げれば、そこは真太郎にとって見覚えの無い場所だった。
そこは変哲も無い一軒家の中で、真太郎はベッドの上に腰掛けていた。ダイニングテーブルとキッチンが視界に入った。
アップライトピアノを見つけて、人の気配は無いのか確認しようと立ち上がってみる。立ち上がれば、その部屋には屋根が存在しない事に気づいた。この部屋は地下にあるらしく、ぽっかりと四角く青空が切り取られて上空に飾られている。さらさらと耳の奥で響いていた砂の音は、この天井から砂が部屋の中に落ちてきている音であった。足元のフローリングには透明感のある砂が積もっている。
簡素なキッチンとダイニングテーブル、手入れの行き届いたピアノと、柔らかそうなソファ。洋書の詰まった本棚とラック、それに、真太郎が腰掛けていたベッド。テレビも、パソコンも無い。必要なものしか用意されていないような部屋に、彼は取り残されていた。
必要最小限の物しか置かれていない部屋の中で、隅に置かれている巨大な砂時計が目に入った。中には色とりどりのガラスの砂が入っているようで、逆さにしたばかりの砂が天井から差し込む光に反射して煌いている。
「その砂時計には触らないでね」
唐突にかけられた声に、真太郎は驚いて振り向く。いつの間に部屋に居たのか、真太郎の背後に女が立っていた。濡れ羽色の髪を長く伸ばした女はどこか憂いの表情を浮かべてこちらを見ている。簡素なブラウスと紺色のプリーツスカートは清潔感を醸し出しているが、その格好をしていても女が常人離れした美しさを持っているのがわかった。
「……ここは、どこだ。俺は、どうしてここにいる?」
「それは、いずれわかることだから。私は何も答えられない」
それだけを言うと女は本棚から本を取り出してソファに腰掛けた。
真太郎の問いに、女は答える気が無いらしく、何を聞いても彼女ははぐらかすような返事を返すだけで、真太郎の望む答えは得られなかった。
砂の中に埋められた部屋には時計が無かった。巨大な砂時計は一体何を測っているものなのかそれすらも解らず、時間を見るにはぽっかりと天井に空いた穴から空を眺めるほか無かった。
そのうち空が暗くなり、部屋の壁につるされたライトが着いた。女は何も言わずにキッチンに立ち、料理を作り始めた。
真太郎はピアノの椅子に座って、キッチンに居る女に問いかける。
「いつまでここにいたら良いんだ」
「いつまでも」
素っ気無い言葉に、溜息しか出てこない。
ダイニングテーブルに料理が出てきた。綺麗に形の整ったオムレツが二人分出てきて、真太郎は初めて自分が空腹である事に気づいた。それを余裕の表情を浮かべる女に悟られたくなくて、吐き捨てるように言った。
「誰かもわからない他人の作ったものなど、危なくて食えたものでは無い」
「わからないのは貴方だけよ。真ちゃん」
突然自分の愛称で呼ばれて、真太郎は目を見開いた。自分のことをそう呼ぶのは、誰だったか――
靄のかかったような記憶を探っていると、目の前に皿を持った女が近づいていて、真太郎の口にスプーンを押し付けた。
「何を……」
「美味しいでしょ?オムレツ」
女があまりに素直に笑うものだから、真太郎は言葉を失う。そのまま皿を手渡されて、彼は大人しくダイニングテーブルに向かった。見ず知らずの女と向かい合って夕食を食べるというのは酷く気まずいものであった。
食事を終えて、食器を片付けた。会話も無いまま時間が経ち、いつの間にか眠気が襲ってきて、真太郎はソファに横になった。眠りに落ちる直前に、布団をかけられた。
何もわからないまま、奇妙な共同生活は始まった。
***
「七詩」
部屋の砂時計が、残り半分になった頃だった。朝食の準備をしていた女の名前が、ふと真太郎の頭に浮かんだのだ。もしかして、と思ったときにはもう口にしていた。
七詩。
口に出したその音は、これ以上ないほど女の名前としてふさわしいものに聴こえた。
名前を呼ばれた七詩は、満面の笑みを浮かべて嬉しそうに返事をした。
「なぁに、真ちゃん」
――どうして、俺はこの女の名前を知っているのだろう。
「いや、何でも無いのだよ」
「あらそう?今日はお昼にお汁粉作ってあげるわね。真ちゃん、好きでしょ?」
確かに、自分は汁粉が好物であった。しかし真太郎はそのことに今まで気づかなかった。女――七詩が作る料理はどれも自分の好みに合うものであったこと。それどころか、自分の好物が何であるのかも今、彼女の発言によって気づいたのだ。
「あぁ、お前の作る汁粉は甘みが丁度良いのだよ」
「良かった」
言った後に、真太郎は思わず自分の口元に手をあてた。
――俺は、七詩の作った汁粉を食べた事があるのか?そもそも『七詩』とはどこの誰で、俺はどうして、ここにいるんだ……
七詩のことを考え、記憶を思い出そうとすると酷い頭痛が彼を襲った。待つしかない。海の底から泡が浮び上がるように、記憶が断片的に浮かんでくるのを待つしか真太郎には術が無かった。
ソファの上で朝日を感じるのにも慣れてきた。朝日が昇るのと同時にソファから起き上がり、長身を伸ばす。七詩はまだベッドの中に居た。どうやら彼女は朝が弱いらしい。真太郎が眠りに付いてもまだベッドで本を読んでいる癖に、太陽が真上に来た頃にようやく目を覚ますことも珍しくない。
七詩が眠っている間に、部屋の中を見て回るのが朝の真太郎の日課になっていた。
そうして、真太郎は一つ気づいたことがある。この部屋の巨大な砂時計。この砂時計が溜まっていくたびに、どうやら自分の記憶は埋まっていくようなのだ。
半分を切った砂時計は真太郎の視線を意に介した様子も無く、ただ規則正しく砂を落とし続けている。
この空間は不思議である。毎日真太郎と七詩が食べている食事の材料が、どこから運ばれてくるのか真太郎は知らない。料理をするのは七詩の仕事だった。一度手伝いを提案したがやんわりと断られた。
七詩が弾かないのに手入れの行き届いたピアノは、いつからあるのか、しっかりと調律がされている。本棚に入っている多くの蔵書は、自分が知識としては知っている古い本ばかりだ。
そして、七詩との関係。
二藍七詩が自分の幼馴染である事を、真太郎は先日思い出した。どうやら自分は記憶喪失であるらしかった。小中高と七詩と過ごしてきたはずの時間が、ようやく断片的に思い出されていく。自分達は、酷く親密な関係だったはずだ。
かもしれない。そのはずだ。ぼんやりとした記憶の中では確かな事は何一つ断言できない。そんな状態に苛立ちを覚える。
長い、長い夢でも見ているのかもしれない。それが思考の逃げである事は明白であったが、そう思うことで少しだけ気が楽になった。
***
突然、酷い頭痛に襲われた。
割れるような痛みと共に、頭の中で大きな音が鳴り響く。喧騒、叫び声、何かが近づいてくる大きな音。記憶のフラッシュバックに近いそれが頭の中で凄まじい速さで繰り広げられる。
七詩が差し出した薬を飲んで、真太郎は倒れるようにベッドに横になった。
意識を失いかける前に、七詩が「もう時間なのね」と呟いたのが聴こえた。
意識を取り戻して、また頭痛に襲われる。何度か繰り返すたびに七詩は献身的に介抱した。
その夜、初めて同じベッドで眠った。飲み込まれるような睡魔に襲われて、意識を失った。
真太郎が目を覚ますと、痛みは少し収まったようだった。
腕の中に納まる七詩の存在は真太郎を安心させた。穴だらけの記憶と不可思議な空間で、七詩の存在はいつの間にか真太郎を癒してくれる唯一のものと変わっていた。
清潔のシーツに広がる黒髪も、血行の良い紅い唇も、白い肌に影を落とす長く黒々とした睫毛も、彼女を構成する全てのものは危うげで、ほんの少しの綻びによって壊れてしまいそうであった。
ふと、視線の先にはあの砂時計があった。
砂時計の中身はあとほんの少ししか残っていなかった。あの砂が落ちきったら、自分達はどうなるのだろう。真太郎が思案していると、七詩が目を覚ました。
「お早う、真ちゃん」
「……七詩、全部話してくれ」
「ええ。もう、時間が無いものね」
微笑む七詩は全てわかっているようだった。彼女はいつだってそうだ。自分の記憶の中の七詩が、いつも真太郎の手をひいて先に行く様が今では容易に思い出せる。徐々に取り戻されていく記憶の中で、一つ上の七詩はいつだって真太郎を気にかけていた。記憶を失った真太郎に何も告げなかったのも、彼女なりの考えがあるのだろうと真太郎は七詩の言葉を待った。
「ある日、隕石が降って来たの。星が夜空一杯輝いていた日だったのだけれど、一瞬で昼間みたいに明るくなって……。どこに落ちたのかしら。ずっと手を繋いでいた筈だったのに、気づけば私達は離れ離れで、何も無い場所に倒れていたわ」
七詩は懐かしむように微笑む。真太郎にその記憶はない。隕石が落ちた?そんなことがあっただろうか。酷く記憶が曖昧なのだ。目の前に居る七詩が、幼馴染であることはわかる。小中高とずっと同じ学校に通って、そして、高校の時に恋人同士になった。覚えているはずなのに、周りの背景が何も思い出せない。高校の時の友人、入っていた部活。両親の顔。
「それで、俺は記憶を失ったのか」
真太郎は背中に汗が滲むのがわかった。
「記憶を失ったって言うよりね、隕石が降って来たときに真ちゃんは怪我をしたの。頭を強く打ってしまって、貴方の脳は長期の記憶を溜めていられなくなった」
思わず自分の頭に触れた。確かに傷があった。微笑む七詩の言葉によって、謎が解けていく。身震いが止まらなかった。
「あの、砂時計は……」
「ただの砂時計じゃないの。医療器具なんですって。あれで貴方の記憶は管理されてるの。砂が全部落ちきったら、逆さにしなきゃいけない」
砂時計の砂が落ちきったその先に、真太郎の深い記憶があるのかもしれないと真太郎は考えていた。けれども、その先は無いのだろう。七詩は悲しそうに続けた。
「そのままにしておいたら、脳がパンクして、死んでしまうんですって」
「それじゃあ、この場所はどこなんだ」
「ここはね、病院に繋がってるの。世界の終わりとでも思った?」
遠くで、鐘の音が聴こえる。七詩の言うとおりに、確かに時間が無いのだろう。真実を知ったショックとともに、頭痛が激しくなってきた。
体を曲げた真太郎を心配して、七詩は彼の頭を抱き寄せた。冷たい七詩の手は心地よい。真太郎は呻くように呟いた。
「え?」
「すまない……、すまない。七詩」
「どうして謝るの」
「…一度や二度じゃないんだろう。俺がお前のことを忘れたのは」
「良いの。真ちゃん、絶対最後には私のことを思い出してくれるんだから……」
整った顔をくしゃくしゃにして、七詩は泣きだした。
真太郎と美七詩は先に進む事ができない。真太郎が七詩の事を思い出し、全てを知った時点で時間切れになってしまうのだ。
もし、記憶を失いたての時に真実を告げたらどうなるか、七詩は何度か試してみた事がある。真太郎は七詩の言分を信じなかった。それなら、と彼女はこの閉じられた空間で真太郎と過ごす事を選んだ。何度忘れられても、傍にいることを望んだ。
「ありがとう」
「真ちゃんっ……真ちゃん、本当は、忘れないで欲しいの。私、……っ、我侭ね…」
色々な事を試した。記憶を失う前に手記を残したり、昔の記憶を話したこともあった。それでも、結局は砂が落ちきれば記憶はゼロになってしまうのだ。
泣きじゃくる七詩を抱きしめた。腕の中に簡単に納まる身体は華奢で小さく思えた。
息をついて、七詩が顔を上げる。口角を無理に上げて笑った。強い女性だった。いくら弱くても、真太郎の目の前では気丈に振舞いたかった。
「真ちゃん。愛してるわ」
「俺もだ。俺も、愛している」
「何度忘れられたって、変わらないから。安心してね」
「思い出すのだよ。時間がかかるかもしれない。それでも、絶対にお前のことを思い出す」
「知ってるわ」
七詩の方から唇を押し付けた。ゆっくりと離れたそれは、少し塩辛い。
砂時計の砂はもう殆ど残ってはいない。真太郎からか、七詩からか、どちらとも解らないうちに自然と二人して指を絡めていた。ひやりと冷たい七詩の手は握っていると酷く真太郎を安心させた。
「それじゃあ、真ちゃん」
「あぁ」
「またね」
黒曜石のような七詩の瞳は涙で潤んでいる。七詩は、これからずっと真太郎と出会いと別れを続けるのだ。初めからやりなおして、やっと自分のことを思い出してくれたと思ったら、また別れがやってくる。それを永遠と繰り返す。
最愛の彼女を一人置き去りにすることしかできない自分を不甲斐なく思っても、どうすることもできない。真太郎は彼女のことを忘れなければ生きていけないのだ。
それを解っているからか、七詩は何も言わずに握っていた手を解いた。
七詩の手が砂時計に伸びる。
真太郎はゆっくりと目を瞑った。七詩は泣いているのだろうか。彼女はこの問答を真太郎と何度繰り返したのだろう。もし、真太郎が七詩の立場でも、お互いが傍にいることを望んだだろう。それがお互いを傷つける事になろうとも。
お互いが世界の全てなのだと言い切れるくらいには、真太郎も七詩も、お互いを解りすぎていた。
さらさらと砂が落ちる音が聴こえて、彼の思考は砂に飲み込まれていく。額に冷たいものが触れた。深緑色の髪を撫でる細い指の感触を味わいながら、真太郎は意識を手放した。
< 最期、世界は微笑みますか >
(緑 間 真太郎)
2014
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