七詩は、音楽のかみさまに愛されている。
 それに気づいたのは、彼女が歌を口ずさんでいる時でもなく、どんな楽器でも自由に弾きこなす才能を見たときでも、最年少でコンクールで優勝を飾った時でもなかった。

「辰也くん、わたし、耳が、聞こえなくなってしまったの」

 病院に駆けつけた俺が彼女の呆然とした顔を目にした瞬間に、そう、感じたのだった。途切れ途切れに確かめるように発された彼女の言葉は揺れて、今にもバラけてしまいそうだった。
 何度名前を呼んでも七詩は「聴こえない」と零すばかりで、俺のことを見ようとしない。手を強く握って、手の平に文字をゆっくりと書いた。それでようやく、七詩は俺を見ると震える声で泣き出した。
 医師の説明を七詩の代わりに受けた彼女の両親によれば、原因はわからないらしい。外傷も無ければ先天的な障害も無い。突然、彼女の耳は音楽を受け取れなくなってしまったのだ。

 話すことが好きだった七詩はそれからあまり口を開かなくなってしまった。二人で過ごしていても俺の背中を撫でたり腕を絡めるだけで何かを伝えてこようとはしない。それでも七詩はよく笑ったし、音の聴こえない分綺麗なものを見せてあげたくて、暇があれば俺は彼女を連れ出した。それから俺たちは二人で手話を学んだ。

 七詩が聴力を失って一ヶ月もしたころ、俺の肩をつついて七詩は言った。

「ピアノ、弾いて?」

 俺は一瞬呆気にとられたが、彼女が自分自身のことを知らないわけがない。なにか訳があってのことだろう。しばらくホコリを被っていたピアノの蓋を開けて、椅子に腰掛けた。

「これがいいな」

 楽譜を差し出して笑う彼女が選んだのはショパンのエチュード第十番だった。俺の弾いたことのない曲だったが、言い訳は聞き入れて貰えない様だ。初見は苦手じゃない。彼女の頼みごとを断るわけにもいかないし、装飾音符を確認してから、鍵盤に手を置いた。華やかなリズムが特徴的で七詩の好きそうな曲であった。
 七詩は俺の演奏を聴きながら身体を揺らしている。ピアノの上に手を置いて振動を感じているのか、少し開いた口からは曲のメロディが流れてくる。まるで音が聴こえているみたいだ。
 短いエチュードが終わると七詩は興奮した様子で新しい曲をリクエストしてきた。今度はピアノに触れず、演奏している俺の肩に手を置いて音を感じている。バイエルのような簡単なものから苦戦するような難易度のものまで、俺が根をあげるまで七詩はリクエストを続けた。

「ありがとう」

 それでも彼女が満面の笑みを浮かべて俺の指先にキスするものだから、俺は明日も彼女のリクエストに答えてあげられる様に、七詩が眠った後に楽譜を読み込むことにした。
 次の日、楽譜を差し出してきた七詩が言ったのは俺の予想とは違ったものだった。

「ねえ、一緒に弾かない?」
 
 小学生向けの連弾曲を選んで椅子の隣に座った七詩を見つめて、俺は笑顔で承諾する。七詩はどうやってピアノを弾くのだろう。純粋な興味を抱いたまま、七詩は鍵盤を打った。
 彼女の音に合わせてやるつもりでの連弾だったのだが、俺の予想は外れっぱなしだ。俺の手を見ている素振りも無いのに、七詩は俺の演奏にぴったりと、合わせてきたのだ。

『七詩は、どうやってピアノを弾いてるんだい?』
「見えるの」

 疑問をぶつけると、言葉の意味を読み取った瞬間に七詩が言った。俺が首を傾げるとすぐに七詩は口を開く。

「見えるの。音が。信じてくれないかもしれないけれど、ふわふわって浮いてるの。色とりどりの音符が浮いて、流れていくの。だから解るようになったの」

 そう言うと椅子から俺を降ろして、七詩は一人でピアノに向かった。
 彼女が弾いたのは昨日俺が弾いたエチュード。強弱も、リズムも、緩急も、俺の演奏そのままに弾ききった。

「これが、辰也くんのエチュード。素敵だなあ」

 ピアノから踊るように降りた七詩は空中で指をふわふわと動かす。俺は彼女がどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと言いようの無い不安に襲われて、捕まえるように手を伸ばした。

「音楽の神様がいるのなら、君は間違いなく愛されているね」

 俺の声は、七詩には届いていない。一度身体を離して、彼女を指差した。それから自分を指して、握った左手を右手で撫でる。
 七詩は俺の動きを見て、笑みを浮かべて口を開く。

「わたしも」


♪♪♪

 七詩の叫び声で目が覚めた。言葉にならない声を絞り出して、七詩は両手を振り回している。彼女の手を掴んで、自分の胸に押し込んだ。シャツが濡れて、彼女が泣いていたことがわかった。

「……たつやくん…?」

 電灯をつけた。時計を見れば午前三時を指していた。

「七詩?どうしたんだ。怖い夢でも見たの」
「見えないの、見えないの。目が、…見えない…」

 電灯をつけたのに、七詩の焦点は俺に合わない。細い指先が俺の顔の輪郭をなぞって、頬をぺたぺたと触れる。それから自分の頬に触れて、涙で塗れた指先で俺の唇に触れた。

「こわい」

 泣き出した七詩を抱きしめて、俺も少しだけ泣いた。



 病院から帰ってくると、七詩は俺の服の袖を握って、強請るように言った。

「ねえ、辰也くん」

 折角覚えた手話も、意味をなさなくなってしまった。彼女の手の平に指を当てて、「ピアノ?」と書いた。

「うん。弾いて」

 ピアノの横に椅子を置いて、そこに彼女を座らせる。特にリクエストは無かったから、

「おんがくって、味がするのね」

 ぽつりと言った七詩の言葉に、俺は手を止める。

「あ、やめないで。甘くて素敵な曲だったのに」

 音楽に、味があるのだろうか。演奏の横目で七詩を見れば、確かに何かを口に含んでいる。飴玉を舐めるように頬を膨らませているかと思えば、アイスクリームを舐めるように舌を出していた。
 俺は耐えられなくなって、彼女に伝える。

『俺の演奏は、どんな味がするの』
「ユモレスクは、さっぱりしてる。レモン味のシャーベットみたいな味がしたよ」
『わかるの?』
「わかっちゃうの。不思議だね」


 神様は、いる。
 俺はその瞬間に確信した。
 視力を奪って、聴力を奪って、これ以上七詩から何を奪うのだろう。
 七詩は神様に愛されている。
 愛されすぎて、神様のいる場所へと連れ去られようとしているのだ。
 
 おんがくのかみさま、冗談はやめてくれよ。



 突然、聴力も視力も失った七詩は俺がいないと一人では何もできない。ゆっくりと家の間取りを覚えていかなければならないのに、彼女はピアノの前から動こうとしなかった。



「おんがく、って、溢れているのね」

 俺の心臓に頬をくっつけて、七詩は言った。
 俺は情けなく彼女を抱きしめて泣く事しかできなかった。彼女から音楽を奪うことはできない。神様、どうか俺から彼女を奪うのはやめて。

<神様どうか殺しておくれよ>
(氷 室 辰 也)
2014
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