父は年老いた狼であった。博識で自分の山のこと以外に人間の社会についても能く知っていた、と鳴は言った。山に捨てられた幼子の彼を拾い、物心つくまで育ててくれたらしい。
私は彼の言葉を自分の部屋にあるテレビの外側から聞いていた。
映像の中の鳴は私が知っている彼よりも随分尖った印象であった。映っている施設は見覚えのない場所で、その中は普通の日常生活を送っていれば見ることは無いであろう機械が山ほど設置してあった。
気になることは山程あった。それでも私が気を惹かれて仕方ないのは磨かれた黒曜石の様に光る彼の瞳だった。荒い画面に映る彼の見開かれた瞳は真っ直ぐこちらを見つめている。
「おじさん達さぁ、こんなん聞いて楽しい?」
映像の中の鳴は突然鋭い眼光で画面を睨む。鳴の瞳はギラギラと熱を持つようで、画面の向こうの録画だというのに、私は一瞬たじろいでしまった。
「……ハイハイ、そうですよ。俺は狼に育てられた狼男です。生肉も食えるし、ちょっと頑張れば今でも四つ這いで走れる。骨格だって他のやつとは違うかもしれない。………だから?」
画面の向こう、独りきりで質問に答える鳴は苛立っているようだった。向こう側の声は殆ど聞こえてこなかったが、「試験体」という言葉が聞こえた。鳴の事を指す言葉だろうか。嫌な言葉だと思った。鳴の嫌う「誰か」を指す言葉。
「別に俺は、危害なんか与えねぇよ。てか与えたこと、ある?……あんた達の記録に全部残ってるんだろ。それなのに態々呼びつけてまで俺に聞きたいことって一体なんなのさ」
鳴の瞳は挑発的で、彼も随分苛立っていることがわかった。どうやら録音されているのは鳴の音声だけで、鳴との会話の相手の音声は私の処へは届かないようになっているらしい。
「……好意、ねえ。はぁ、ふぅん。そっか、俺が、人間様に好意を持ってるって?それが気になるわけかよ。何、気にすることないよ。サーカスのトラだってサカるんだ、狼男が発情したところで何ら問題はないじゃん」
その言葉を耳にした瞬間、私の心臓が跳ねた。
どうして鳴がこんな目に逢っているのだろう。わからないことだらけなのに、ただ一つ、私が確信を持って言えることがあった。それは、鳴に対して私が好意を抱いていたということ。それが、私の感情が鳴をあの場に送ってしまったのだろうか。
「あぁ、成る程。そいつは最高に馬鹿臭い話だ。つまりはあんた達、俺のことを本当のオオカミオトコだと思ってるわけだ。狼に育てられた少年でなく、狼と人間の間の子だって。そりゃあ世紀の大発見だもんなあ」
画面の向こうで、鳴が高笑いをする。私は何故このビデオが私の手元にあるのか、それについて考えることにした。
***
鳴は、私の友人だった。
高校一年の時に同じクラスになった。それだけの関係だったのだけれど、私達に共通することはどちらも両親がいないということだった。
私は中学卒業と共に孤児院を出て、古びた安いアパートで一人暮らしをしていたのだけれど、偶然その隣の部屋に鳴が引っ越してきたのだ。その前は病院にいたのだ、と鳴は言った。
当時の私は重い病気か何かを抱えている男の子だと思い込み、孤児院で培った料理を振舞ったり、彼の部屋にまで行き掃除を手伝ったりと何かと世話を焼いていた。
鳴の部屋は驚くほど何もなかった。ベッドと、机と、冷蔵庫、生活に必要な最小限のものだけを揃えた部屋はこんな風になるのかと思ったものだった。
それでも男の子の一人暮らしは物が増えて行くようで、散乱したプリントや溜まった食器が溢れかえる度に私の部屋のチャイムが鳴ったものだった。すっかり世話を焼きすぎた私が悪いのか、元々か。鳴は生活能力の無い男であった。
時々お互いの家を行き来する関係から、私と鳴は親しくなっていった。お互い友達の多い方ではなかったし、独りの時間も嫌いじゃなかった。そんな所も気があって、私は鳴の側にいるのが好きだった。
鳴の誕生日に、私は思い切って鳴が好きだと伝えてみた。
彼は告白を聞いて、すぐに「ありがとね」と優しい声で言った。けれども、告白の返事は返ってこなかった。
その時彼は酷く大人びた表情をしていた。月が綺麗な夜で、告白を先延ばしにされて落ち込んでいた私の手を引いて外に出た。外は人が少なく、月を見上げながら鳴は訥々と自分のことを話し出した。
「七詩、俺ね、狼の息子なんだ」
私は彼の冗談だと思って微笑んだが、月を背にした鳴の瞳が余りに輝くから、言葉を飲み込んだ。
「小さい頃は山の中で育ってさ、親父が死んでから人里に離された。父親は狼だったんだけど、人の言葉もわかってたんだ。頭のいいひとだった。母親は、きっと人だったんだろうけど、そこはわからない。そんで、ちょっとしたニュースとかにもなってさ、狼少年あらわる!なんつって」
私は返す言葉を持たなかった。それがみんな本当だとして、鳴のどこが狼なのだろう。この人は立派な人間じゃないか、私の好きな、成宮鳴は人間だ。私はそう信じようとしていた。
「こんなこと言ったらさ、七詩は信じる?」
鳴は楽しそうに、それでいて悲しそうにも聞こえる声で言った。月が綺麗、と私は彼の後ろから覗く月を見て思った。
「鳴は、人間だよ」
ありきたりな人間の私にとって、その言葉は彼を肯定する言葉であると思っていた。
なにか不安を抱えているのか、自身の出生について悩みがあるのだろうか。大丈夫だよ、と肩を叩いて安心させてあげたかった。けれども、その言葉は彼の望む言葉では無かったようで、鳴は次の言葉を返す前に、少しだけ時間を使った。
「俺はね、七詩。人でありたいわけじゃないんだよ」
鳴は笑ったけれど、鼻をぐしぐしと啜っていた。
そしてその話をした一月後、鳴は私の前から消えた。
手紙も何も残さず、学校にも来なくなってしまった。またしばらく経ってから、私のところに鳴の関係者を名乗る人が訪ねて来てこのビデオを渡してきたのだ。
***
「でも、お前らの研究に協力してやる気なんて毛頭無いね。恥じたらいいよ、自分たちには才能がない。俺の化けの皮一枚剥げないんだもん」
ビデオの中の鳴は手首や喉元についていた鉄の機械のようなものを素手で外して行く。床に当たった時の音から金属の重量感がわかる。普通の人間が簡単に外せるものではないだろう。
「最後に言わせてよ。きっとどこかにいる、俺の理解者へ。狼は人間になれないし、人間も狼になれない。どんなになりたくてもなれない。俺はそれをわかってたんだ。ごめんな。……それだけ」
バイバイ、と画面に向かって手を振って鳴は笑った。歯を剥いて笑った瞬間に目がまた爛々と光る。その目に気を取られている間に鳴の身体は人間のそれとは異なる物へと変容し、録画していたカメラに向かって爪が振るわれた。
銀に近い灰色の毛並みだけが壊れたカメラが捉えられた姿だった。
私は残されたビデオを全て見終わってからしばらく呆然と真っ暗になった画面を見つめていた。
成宮鳴について、考える。
ビデオを持ってきた研究員は彼の行方を探していた。私は知らないと答えたが、鳴の事だ、意外と近い山の中にでもいて私達のことを笑っているのだろう。
蛻の殻になってしまった隣の部屋の鍵は、まだ私が持っていた。
何か彼を知る手がかりになれば、と久々に鳴の部屋に入れば見覚えのある家具と、机の上に一冊の本が置いてあった。
それは私が彼にプレゼントした星座の写真集で、ページを開く度に一面の星空が載っていた。鳴はえらくこの本を気に入って「こんな星空の下で寝たい」と言っていたのだった。
私は星空を見下ろしながら独り泣いた。ぱたぱたと涙が落ちて、星が幾つか水没してしまった。
鳴、狼にも人間になれない中途半端な貴方はどこへ行くの、何になるの
貴方が見たいと望んだ星空の下、私は貴方の唯一の理解者で在りたいとそれだけを望んでいる
< 貴方に似た獣を見ている >
(成 宮 鳴)
2016
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