ある日、泥酔した父は釣り道具を持って帰ってきた。どこからこんなものを盗んできたのか。俺は仕方なしに親父の不始末をつけるために彼が飲んでいたという居酒屋から、胸ポケットの草臥れた名刺に記されたスナックまで電話を掛けてこの釣り道具の持ち主を捜したが、どの店も違うの一点張りであった。
クソ親父!息子にまで迷惑をかけるんじゃねえ。
俺は悪態をつきながらいびきをかいて幸せそうに眠る親父を揺さぶり起こそうとしたが、寝汚い男だ。彼は次の日の昼まで目覚めなかったそうだ。
「ああ?んだそりゃ。え?これ?……全然記憶にねえわ。ラッキー」
学校から帰った後に釣竿の話をすれば、親父は全く記憶が無いという顔でその釣竿を持ち上げ勢いをつけて振った。狭い部屋で振り回された釣り竿は俺の尻を強かに打ち、俺と親父は惨めに殴り合いを繰り広げることになった。
それから幾日かして俺も親父も忙しない毎日に振り回されていた。
どこかから持ち出されてきた釣り道具達はその本来の在りかを忘れ去られ、すっかり親父の私物になっていた。たまの休日に親父が近くの河川敷に釣り糸を垂らしに行っているが、釣果はすこぶる悪かった。大体あんな川に食える魚なんて棲んでいるのだろうか。
「おーい、雷市。バケツ持って来いバケツ!いやバケツじゃ入らねーか!ガハハ」
俺の体内時計から判断するに深夜二時頃だろう。御馴染の親父の声に叩き起こされ、ぼろぼろのつっかけを履いて声のするまま玄関の前に歩いていく。立て付けの悪い扉を開けば、髭面の父がにぃ、と白い歯を見せた。
「大漁だ大漁!!こりゃ雇われ監督より漁師のが向いてっかな!」
「えっ」
思わず声が出た。親父の手に掴まれたバケツの中には魚がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、更に驚いたのは親父が俵のように担いでいる巨大な魚だった。俺に尾を向けるように担がれている魚は見たところ二メートルはありそうなサイズだった。紺色の尾は普通の魚とは違い、鱗がキラキラと輝いている。それに、どうも、人間のようなパーツが見える。
「お、親父……?」
「おお、こっちは入らなかったんで担いできちまった。風呂釜に入れとけば日持ちすっかな?」
夜中だというのに元気の良い親父はずかずかと濡れた足で廊下を進む。
ばちり。目が合った。父の背から見える巨大魚には、なんと腕が生えていた。それに、長い髪と白い肌。先輩たちが読んでいる雑誌でしか見たことのない、たわわな、白い胸。女の子の上半身が魚の尾の上についていて、しかも親父に担がれているまま、俺に手を振ってくるではないか。
「ニンギョ…??? か、カハ、カハハハハハ……」
もしかして、俺、疲れているのかもしれない。
朝、太陽も上る前だというのに、俺の目は覚めていた。顔を洗う前に、昨日の夢が真実かどうかを確かめなくてはならない。
勢いよく戸を開ける。お湯が出ないため使われていない我が家の風呂場には、女の子が水に浸かって、紺色の尻尾でもって水をはねあげていた。
女の子はにこりと笑うと俺に向かって水をかけてきた。俺は返す言葉も持たない。ただ彼女の白い胸に視線が釘漬けになってしまって、ああ、これはダメだと扉を閉めた。
親父にはあの女の子は見えていないのだろうか?ただの魚に見えているだとか。そんなわけ。いやしかし、俺が練習で家を空けている間に捌かれてしまってはとんでもないことになる。
俺はもう一度扉を開ける。女の子は不思議そうに俺を見つめている。か、かわいい…。
「あの、えっと、君は……。えーと」
浴槽の端に屈んで話しかけるも、女の子は首を傾げる。言葉が話せないのだろうか。
「に、逃がして、…やるよ」
部屋中をひっくり返して巨大な風呂敷を引っ張りだして、彼女を背負った。思ったよりも全然軽い。背中がずぶ濡れになったが仕方ない。玄関を開ければ川は目と鼻の先だ。こんな浅い川に人魚が棲んでいたなんて知らなかった。今日の練習でミッシーマに教えてやらなきゃ。
ぼしゃん。
音を立てて水に落ちた人魚はすぐに水面から顔を出して、川岸に屈んでいた俺の手を握った。
「貴方もいらっしゃいよ」
「えっ」
話せたのか。
じゃなくて。
掴まれた手をぐいと引かれた。強い力だった。俺は頭から冷たい川の中に落ちた。
川の中は俺が思っていたよりも広く、そして綺麗だった。宝石のような水草、差し込む光が泡に当たって輝いている。赤、青、色取り取りの魚が舞い踊る。
俺の目の前の人魚は黒い髪を水の流れに任せてなびかせる。俺の頬に手を当てて、そっと、その赤い唇を俺のくちに押し付けた。紺色の下半身は艶めかしく水を蹴る。目が閉じられない。呼吸ができない。
女の子の唇は、やわらかい。
「……雷市?」
目を覚ませば、俺の顔を覗き込んでいたのは人魚ではなく、大学の野球部のマネージャーだった。紺色のドレスを身に纏った彼女は俺の頬に冷たい手を当てていて、心配そうにもう一度名を呼んだ。
俺の周りには見覚えのある顔をした人たちがわらわらと集まっていて、一つ年上の先輩達の胸元に花がついているのを見てようやく、この場が大学の祝賀会の会場であったことを思い出した。
「大丈夫?雷市、お酒飲みすぎて倒れたんだよ」
「え…?でも、俺、川に落ちて……」
「監督が水掛けたから変な夢見てる!!」
親父。そう、親父が持ってきた釣竿で釣り上げられた人魚はこの人に似ていた。紺色の丈の長いドレスはとてもよく似あっていて、俺はスカートによって隠されている下半身がどうなっているのか気になってしまう。
勢いよく半身を起こして、彼女のスカートをめくり上げた。驚いた声をあげた彼女の足は二本。しっかりとつま先から伸びて真ん中で繋がっている。
額に拳を食らった俺はもう一度昏倒し、次に目覚めた時には家の布団の上にいた。
「なあ、親父」
二日酔いで痛む頭を押さえて、居間で胡坐をかく親父に声をかけた。
「うちに、釣竿って、ある?」
「あるぜ。一度大物を釣ったきり、最近はすっかり釣れねえ釣竿が」
親父は歯を見せてと笑った。俺はそうかと言って頭を掻いた。
< いつかドレスが尾ひれだったころ >
(轟 雷 市)
2015
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