僕らの控室に来た二藍さんは名の知れた菓子店のケーキを差し入れです、と差し出した。控室には生憎僕が一人だけだったから、視線が合うと彼女は微笑んで「お元気でしたか」と言った。
「まあね、体調管理も仕事のうちだから」
「流石です。インフルエンザも流行ってますし、うちも見習わなくちゃいけませんね」
「君のところの虚弱なセンターに、くれぐれも喉を冷やさないように、って言ってやって」
「ふふふ、間違いなく伝えておきます」
きっと、僕の言葉は彼女の唇を介して柔らかく優しい言葉となって陸の耳へと届けられるのだろう。陸の嬉しそうに喜ぶ顔と、それを見てまた表情を和らげる二藍さんのことを想像して少し気分が良くなった。本番までは十分時間があったから、気まぐれで声を掛けた。
「まだ時間があるの?」
「あ、はい!」
「ケーキ、食べていきなよ。折角の心遣いだけど、楽は上のイチゴしか食べないし、龍は甘いものよりも酒の方が好きなんだ」
「スタッフさんとか、マネージャーさんにでも……」
「好きなんでしょ? この前もがつがつ食べてた」
「が、がつがつなんて食べてません! 控えめに食べました。トリガーさんの前でケーキ食べるのすっごく緊張したんですよ!?」
遠慮していた二藍さんは顔を真っ赤にして声をあげる。「ふうん」だなんて気のない返事をしたけれど、ここにいたのが僕で良かった。
話題にした通り以前も彼女はここでケーキを食べていた。細い肩を縮めて一口ずつスポンジを口に運ぶ姿が眼に浮かぶ。見るからに緊張しているのに、一口食べると「おいしい…」と幸せそうな声を漏らしていた。
箱の入った袋の中に紙皿とフォークまで用意されていたことに用意の良さを感じながら、ショートケーキを彼女に差し出した。
「うう……ごちそうさまです……」
「お茶もあるよ。ペットボトルで悪いけど」
「すいません……九条さんも宜しかったら食べてください。和泉兄弟のご実家のケーキなんですよ。すごく美味しいので一度食べて貰いたくて」
「ありがとう」
申し訳なさそうにケーキを受け取る彼女は、素早く移動して僕にもケーキをとってくれた。美しい飴細工がクリームの上に乗せられた艶やかなチョコレートケーキ。フォークを指して口に運ぶと丁度よい甘さが口に広がった。ほどけるチョコレートクリームも、間のラズベリージャムもうまく噛み合っていて、眼があった二藍さんはまるで自分が作ったかのように誇らしげな顔をしていた。
「何その顔」
「美味しいですよ、ね?」
「……美味しいです」
「喜んでもらって良かったです。もうおひとつ食べてもらっても大丈夫ですからね! 」
ケーキを口に運んでいる間の沈黙がいたたまれたなかったのか、二藍さんはそわそわ周りを見て、渡したペットボトルから紅茶を一口飲むと切り出した。
「あ、九条さんは、お好きな童話とかありますか?」
「は?」
「この間陸さんと好きな絵本の話をした時に、九条さんが沢山本を読んでくれたと伺ったので……。本、お好きなのかなあと思いまして」
小首を傾げてこちらの反応を伺う二藍さんの瞳は水面のように揺らいでいる。探り探りに言葉を選んでいるのが見て取れて思わず笑みを零してしまう。気遣いのできる人だと思う。きちんと社会人としての振る舞いを勉強して、それを身に着けてこの場に立っているのだろう。年齢も合わさり、初々しさが表に露出しているのが逆に好印象を与える。付け入られなきゃいいね、なんて余計なことを考えた。
自分の振った世間話に良い返答がなかったことに少しだけ残念な顔を浮かべた彼女は不思議な人で、やめておけばいいのにそわそわ身体を動かして次の話題を考えている。
「え、えーと……」
「もう少し社会人として相応しい話題を選びなよ。好きな作家はどなたですか? とかならまだわかるけどさ。僕に桃太郎だの瘤取り爺さんだの、そんな回答をさせたい訳?」
「わあ! わたしはシンデレラが好きです」
「君さあ……」
ぺろりと赤い舌が桃色の唇を舐めた。無邪気な瞳でこちらを見つめてくる様に毒気を抜かれて、僕は仕方なく口を開く。唇を眼で追ってしまう自分に呆れて、少し意地の悪い返答をした。
「無償で愛される薄幸の女性に感情移入できるの?」
二藍さんは眼をまあるくさせた。
「王子様とは沢山話したんじゃないですか? 舞踏会の間に」
「語られていないところを想像するのは自由だね」
「それに、硝子の靴っていうのが素敵です」
「自分のことを特別視する手段の具現化としてはわかりやすいと思う」
「もう! 九条さんったらリアリストですね」
もっと純粋な気持ちで読んでください。と頬を膨らませる彼女が面白くて、もう少しだけ話を続けようという気持ちになる。時計を見ればまだまだ時間は残されていた。
「運命の人にいつか出会えるだなんて都合の良い妄想だと思わない? 二藍さん」
「そうですか? 王子様を信じることは素敵だと思いますけど」
「僕らは平凡な石ころだから、特別な誰かとしか結ばれない童話が馬鹿馬鹿しく思えるのかも」
「みんなの王子様では、ないんですか」
「そう思ってもらえるなら光栄だね」
王子様でいられる時間なんて一瞬だよ。僕はそう思ったけれども口に出すのはやめた。目の前の彼女は仕事相手ではあるが、自分たちを目標に一段ずつ階段を上っている最中なのだ。自分たちの価値など一過性のものに過ぎない。大勢のうちの一人で終わるつもりはないが、厳しい世界を知っているからこそ特別を妄信するお伽噺が馬鹿馬鹿しく映るのだ。
もしも僕が王子で、君が王子様に見初められる特別な女の子だとしたら、僕らは二人で何を話すのだろう。ダンスホールでかけられた音楽に耳を澄ませて、演出にケチをつけるかもしれない。三拍子のワルツに爪先を弾ませながらも目線は楽団に向けられて、お粗末な演奏に二人で顔を顰めようか。いつの間にか僕らの周りからは人が離れていって、ホールの中心でくるくる回る。視線を独り占めしていることに君は恥ずかしくなって、頬をどんどん赤く染める。そうなれば気分がいいだろうなあ。
王子様になる想像なんて、小学生の時以来か。いや、誰かの特別になりたいだなんて思ったことは無かったから、今初めて考えたのかもしれない。
「みなさんは、優しくって素敵な王子様ですよ」
後押しするように二藍さんが顔を上げて言った。
プラスチックのフォークに串刺しにされた小ぶりな苺に視線を落として、僕は営業用の微笑みを浮かべてしまった。
「泡になる前に手を引いてあげられればいいけど」
「言葉を吐き出せなくて動けなくなっている子には、きっと歌声が届いています」
元気になれますよ、きっと。
口を大きく開けて苺をぱくりと仕舞い込んだ二藍さんはうっすらと自信をまとわせて言う。
「わたしたちも、引き上げてもらいましたから」
もしも君の半分が魚になっても。そのきらきらした眼があれば言葉がなくても王子さまは君を見つけて、引き上げてくれるだろう。
物語のヒロインに選ばれるのは彼女みたいな女の子だ。僕が神さまだったらきっと君をとびきり幸せな話の主人公に選ぶ。困り顔の人を見つければ話を聞いて、泣いている子供がいたら屈みこんでハンカチを差し出すのだろう。そして足を止めた愚か者がいれば、必死な顔をして背中を押すのだ。
王子様を待っているだけなんて、窮屈すぎるだろう。
「自重でずぶずぶ沈んでいくアイドルなんて格好悪いよ」
「もう沈みません!」
「どうだか」
「あとは上を目指すだけなんです。いつか、星を掴むんですよ」
二藍さんの目指す星はいったい誰のことを指しているのだろうか。また顔をふにゃりと崩して照れくさそうに笑った。着々と食べ進められているケーキの最後の一口を口に入れて、両手が合わさる。紙皿の上にはクリーム一つ残っていなかった。ケーキも本望というものだろう。
頬にクリームでもつけてくれていたらいいのに。そこまで間抜けじゃないか。
「待っていてなんか、あげないけど。追いかけておいで」
自分の皿も空になったものだから、立ち上がって移動するには丁度いいタイミングだった。
柔らかい髪を撫でて、頬に唇を寄せた。
近づいた顔を離すと色素の薄い髪から優しい香りがした。香水じゃなさそうだ。甘すぎず、爽やかで、それでいて人を安心させる香り。そんな香りをまとって、これからあの子たちの楽屋に戻るのかと思うと少しだけ口惜しく思う。
それでも、唇に触れるのはまだ早いんだ。
「ごちそうさまでした」
こぼれんばかりに眼を見開いて顔を真っ赤に染める二藍さんの正面で言えば、彼女は言葉も引き出せずにぱくぱくと口を動かした。
七匹の子ヤギに奪われてしまう前に、胃袋の中に隠してしまおうか。そんな邪なことを考える僕はきっと王子様に向いていないかもしれないね。
< 狼はカボチャと泡になる >
(九 条 天)
2016
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