鏡を見る。磨き上げられたホテルの鏡に映るのは、どこにでもいそうな顔をしたつまらない女の顔だった。エステに通って、高い化粧品を使っていても、年齢と疲労は隠せない。肌は嘘を付けないのだと誰かが言っていた気がして、誰もいない洗面所でわたしは自嘲気味に笑った。
それじゃあ、ベッドで何度だって騙されるわたしたちはどいつもこいつも馬鹿だ。
髪を乾かして、化粧を直した。ホテルに備え付けられたバスローブを着て出れば、大和くんはソファに腰掛けてテレビを見ていた。テーブルの上にはビールの缶が置かれている。
「お待たせ」
「いえいえ」
隣に腰かければ、大和くんはテレビを消した。画面に映っていたのは彼のメンバーだった。こんなところにいたって、メンバーの出ている番組を見てしまう彼を愛しく思う。でも、テレビを消してくれて良かった。わたしは彼等の前で大和くんに触れる勇気がない。
「なあ、」
大和くんの手がわたしの頬に触れて、引寄せられるがままにわたしの身体は彼の腕の中に納まる。大和くんの手は暖かい。お風呂上がりだからだろうか。
細められた彼の瞳が眼鏡の奥で揺れる。大和くんの形の良い唇が開く。
「あんたまた、監督と寝たでしょ」
こくり、と唾を飲み込んだわたしの喉が音を立てる。一度目を閉じても動揺して瞼の裏で瞳が動く。勝手に指先を触ってしまうのも隠せない。わたしは、嘘が下手だ。
だから素直に頷いた。それから、わざと彼を怒らせてしまいそうな言葉を吐く。
「だって、……あの役が、やりたかったんだもの」
子どもみたいな言い訳だ。軽蔑されたって、仕方のないことをしていると思う。
わたしは、役者だ。下手くそな、顔だけの、大根役者。
劇団に入った頃はただ演劇が好きだった。違う自分になれる舞台の上が好きで、大人数で一つの舞台を作り上げる達成感に夢中になった。
趣味で終わらせておけば良かったのに。テレビの世界に憧れて、ドラマの端役をやらせてもらえるようになった。関わる人たちも増えて、自分の世界が急に広がったような錯覚に舞い上がった。けれどもいずれは目が慣れる。一番最初に気づいたのは、自分に実力が無いということだった。
台詞を言うタイミング、声の抑揚。指先から爪先まで別人になり切る力量が、わたしには無かった。「こんなものか」と飽きられるのが恐ろしくて、手を引こうと思った。
そうすれば良かったのに、わたしは彼の演技を間近で見てしまった。
まだ、周りの人たちがわたしのハリボテの演技に騙されていてくれている時に、彼――二階堂大和くんと共演する機会があった。
大和くんはサスペンスドラマの犯人役で、表の顔はエリート医師、裏の顔は猟奇殺人犯という二面性を見事に演じ切っていた。わたしは、彼に殺される患者の役だった。深夜の病院で彼に圧し掛かられて首に指をかけられる。ゆっくりと、彼の胸元が上下する。薄暗がりの中で、目だけが爛々と光り、恍惚の表情を浮かべる殺人犯に、わたしは、本気で、この人になら殺されても良い、と思ったのだ。
その時の演技は端役だというのに評判が良かった。大和くんの演技に乗せてもらっただけだった。自分では殆ど演技ができなかったのだ。
彼の演技に心底惚れこんでしまったわたしは、そのドラマをきっかけに大和くんと少しずつ話すようになっていった。彼は時をかけるアイドルグループのリーダーだ。ゴシップは避けなければならない。未成年も在籍するアイドリッシュセブンは、清潔感のあるグループだった。
だからわたしは彼と二人きりになるようなことはなるだけ避けていた。食事に行く時だって、間に誰かを挟んだし、連絡も明るい時間に事務的な要件に見えるようにした。わたしは、評判の良い役者では無かったから。
愛想だけは良いわたしは脚本家や監督に知り合いが多かった。彼等との食事には欠かさず行ったし、頼まれ事はできるだけ聞くようにした。プライドの高い上手い役者よりも、便利な下手な役者の方が好まれるときもある。端役ならばの話だけれど。
けれどもわたしは知っている。可愛らしいだけの器用な役者なら、ごまんといるのだ、この世界には。
この仕事に対して、不誠実なことをしている自覚はある。だから、嫌われたって、良かった。それでも、わたしは二階堂大和ともう一度共演したかったのだ。
愚かな女。彼の作りあげる美しい作品の端を踏むだけでも、自分が浄化されるような、今までやってきたことが許されるような気がしたのだ。そのために、なにをしたっていいわけじゃ無いのに。
「そこまでするなら、俺の相手役くらい貰ってきたら良いのに」
大和くんはそう言って、わたしの背中を撫でた。
わかっているくせに、と言えば彼は短く返事をした。
テレビの向こうの目は残酷だ。わたしが大和くんに釣り合っていないことくらい、わかってしまうよ。
わたしたちの関係はいびつだ。
ある時、飲み会の最中に「抜け出しましょう」と大和くんから声を掛けられた。わたしは驚いて、それからなけなしの理性で「誰かに見られたら恥をかくよ」と言った。
すると大和くんはわたしの手を引いて「今日は新月だから大丈夫じゃないですか」と言った。あまりにもロマンチックなその言葉に、わたしは夢だと思うことにした。
それでも彼と歩いている間、ずっと心臓が爆発しそうであった。誰かに見つかったらどうしよう。わたしなんかと、彼が噂になってしまったらどうしよう。そんなのはいけないことだ。彼はアイドルで、汚いものとは無縁であって欲しかった。彼のことを好いているファンの子たちを、裏切らせるようなことをさせたくなかった。
胸の中でふつふつと後悔が浮かぶのに、わたしは握られた手の温度に言葉を奪われてしまう。ごめんなさい、ごめんなさい。神様。どうか、見て見ぬふりをしてください。
卑しいわたしは碌な演技もできないのに、大和くんと恋人ごっこをするためにホテルに入った。慣れてるふりをしたほうが良いのかと思って、部屋の好みを聞いてみたけれど、大和くんは黙って空いている部屋を選択してしまった。少しだけ冷静に、なった。
「ずっと役者で食っていく気なんですか」
飾り気のない部屋で、ベッドに腰かけた大和くんは言った。
ああ、大和くんはわたしに夢を見せるつもりで手を引いたのではない。目を醒まさせるために、ここに連れて来たのだ。
「それだけで食べていけないから、噂になっちゃうんだよ」
えへへ、と笑って見せると大和くんはわたしを抱きしめた。芝居の世界に戻ったらいい、と彼はわたしを説得するようにやさしい声で囁いた。
「あんたが出た舞台を観たことがある。狭い舞台の上で活き活きしていて、楽しそうだった。この世界は、綺麗じゃないし、……生きていくのは、厳しいと思う」
「わかってるよ。……ちゃんと、わかってる」
「そこまでドラマに出たいですか?」
わたしは大和くんの子どもをあやす様な声にはらはらと泣き出してしまった。こんなことはやめろ、と大和くんはわたしを諭している。その通りだと、わたしも思う。
「……あなたと、共演したい……」
馬鹿みたいだと思いながら、わたしは鼻を啜った。年下の男の子を困らせる、馬鹿な女。何の取り柄もない、夢物語に縋る兎みたいだ。足を滑らせて月から落ちて、死んだほうが良い。燃え盛る炎の中に飛び込む勇気があれば良かったのに。大和くんのためには何一つできないのに、自分のために彼に迷惑をかけることは厭わないのだ。
大和くんはやさしくやさしくわたしの身体に触れた。わたしは情けなくて、悲しくて、それでも大和くんのことが好きで好きで仕方が無かった。普段の優しくて困り顔の彼のことも狂おしいほどに好きだったけれども、彼が彼じゃなくなる瞬間が見たくなってしまうのだ。
恋人なんてものではない。身体を求められているわけではない。わたしを現実に引き戻すために、大和くんは度々わたしを抱いた。
「そんなことしなくたって、俺が頼んでやるよ。共演したい女優さんがいるんですって」
「みんな驚いちゃうよ」
「あんたの声はよく通るし、動きだって映える。だから、舞台向きなんだって…」
大和くんは困ったようにわたしの額に唇を落とす。あなたの言うことを聞けなくてごめんなさい。ほんとうはわたし、もうどうだって良くなってるの。何もかもが恐ろしくて、足踏みばかりしてしまう。大和くんが勧めてくれるように舞台の世界に戻ったとしても、もうあの頃みたいに演技ができるような気はしない。
あなたは麻薬みたいだ。わたしは重症者。目の奥でネオンがちらついて、あなたの台詞がばらばらになって脳裏で踊る。声をかけるだけでも、殺されるだけでもいい。台詞が無くたっていいから、喉から手が出る程に演じるあなたの傍にいたい。
手に縄をかけるか、病院に送り込むか、それくらいしないとわたしの馬鹿は治らないだろう。
「……馬鹿な女で、ごめんね。大和くん」
大和くんはわたしの髪を撫でて、「本当ですよ」と溜息を付いた。
強く強くわたしの身体を抱きしめて、大和くんは台詞を言う。相手役の心臓を震わせるような声で、感情を揺さぶるような抑揚をつけて、哀しさと苦しさをないまぜにして。
「あんたが、好きだよ」
息が止まりそうになる。言葉が返せなかった。
わたしだって、世界で一番あなたが好きなのに。
隣に立ちたいはずなのに、どうしたらいいかわからない。
ごめんね、ごめんなさい。わたし、あなたを傷つけてばかりだ。
<道化を産み落としたのはマリア>
(二階堂 大 和)
2018
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