「七詩。上ばっかり見ていたら、首が痛くなっちゃうぜ」
「だって、すごい綺麗なんだもん」
頭上には満開の藤の花が垂れ下がっている。まるで花でできたトンネルの中にいるみたいに、視界は薄紫色の花弁に埋め尽くされている。時折小さな花弁が降ってくるのがまた、息を飲むほど美しい風景だった。
俺たちは隣の県まで藤の花を見に来ていた。高校生の割に渋いデート先だろう。花が好きな彼女の喜ぶ顔が見たくて、俺は夜な夜な、るるぶとじゃらんを読みふけったのだ。
「連れてきてくれてありがとね」と七詩は真上を向いて俺に礼を言った。「いやいや、俺も来たかったんだよね!」屈託無く笑う彼女に見つめられれば照れくさくなってしまって、鼻を掻いて彼女を乗せた車椅子を押した。
藤の花に埋め尽くされた回廊を過ぎれば、その先は緩やかな山道になっていた。車椅子でも進めないことは無いだろうけれど、舗装されていない道は少々落ち着かない道中になるだろう。
どうしようか、と相談する前に、俺はハンドルを切った。向かうのは小ぢんまりとした休憩所だ。
「七詩。車椅子置いて上の方も見に行こうぜ」
「え」
「ミリオくんの背中は広いよ! 乗り心地抜群。数々のお年寄りを乗せてきたから任せて」
「で、でも、山頂まで結構あるよ? わたし重いよ?」
「通形タクシー! ヘイヘイ乗ってきな」
最近太っちゃったからなあ、いいのかなあ、と七詩は辺りを見回して不安そうに俺を見つめた。迷惑じゃないか、と確認するような目線は彼女を抱き上げることで黙殺してしまう。迷惑だったら、こんなこと言いださないよ。
「俺がやりたいだけ! いつもそうだろ?」
「……そういうことにさせてもらおうかな。運転手さん、初乗りはいくらですか」
「お客さん、可愛いからタダ!」
びし! と指を突きつければ、七詩は花が咲くように笑った。ようやく彼女から笑いをとったところで、車椅子を休憩所に置かせてもらう。
年配の店員やお客が俺たちのことを物珍しそうに見つめる。わざわざ足の悪い彼女を背負って、馬鹿らしく見えるだろうか。若気の至りだと笑えるだろうか。それでもいいや、と思った。全部俺のわがままなんだから。
背中に乗せた七詩の身体は柔らかくて、抱えた脚は不安になる程細かった。
ゆっくりゆっくり進んでいく俺たちの横を、観光客がすいすい抜かしていく。蝉の声が騒々しくて、差し込む日差しは藤の花に遮られている。そよ風が噴き出す汗を冷やした。
巨大な藤の樹の下に到達すると、七詩が声を掛けた。
「ね、ミリオ」
「なに?」
彼女の手が俺のシャツを掴んだ。はらりはらりと藤の花弁が俺たちの上に降ってくる。
背中にいる七詩の顔は見えないから、彼女がどんな感情を抱いているのか、俺には判らなかった。
「終わりなんてこなきゃ、いいのにね」
俺はその言葉を頭の中で何度か繰り返して、それから「うん」と言って足を進めた。
同意の声は随分小さくなってしまったような気がした。額から汗が一筋伝って落ちた。俺は内心で言い訳をする。これは七詩が重いとか、そういうのじゃないからね。ただ暑いんだ。
終わりなんて来なきゃいい、その通りだと思う。この夢の中みたいな花の道をずっとずっと二人で歩いていけたら、それは酷く幸せなことのように思えるのだ。
お前を傷つける敵も、俺が守らなきゃいけない人々も、夢の中にはいやしない。互いの体温だけを感じて、夢の中を彷徨う。でも二人とも、夢には終わりがあることを知っている。
彼女が望んだように、藤のトンネルはいつまで経っても終わりが来ないように見えた。あんなに喧しく鳴いていた蝉の声が遠く感じる。通路に飛び出した捩じれた藤の幹に触れて、足元の悪い道をゆっくりと歩いていく。
「ミリオ、そろそろ重たくなってきたでしょ。歩けば歩くほど段々と重く……」
「子泣きジジイかな!? 全然重くない! むしろ軽すぎて心配だよね」
「うまいなあ。わたし充分満喫したよ。引き返そ」
七詩の手が肩を叩いた。空はまだ明るい筈なのに、見上げた先は薄紫のヴェールに覆われて空が見えない。まだまだ体力には自信があるけれど、彼女が疲れてしまうのならば、と元来た道を引き返すことにした。
彼女を背負いながら雑談をしていると、通りすがるカップルが俺たちのことを見て「やだあ」と笑った。
(……あ)
背中で七詩が身動ぎをした。
嫌だったかな。彼女の名前を呼ぼうと振り返れば、耳元で彼女の髪が揺れて、そっと七詩が囁いた。藤の花の匂いがした。
「わたしたちのことが羨ましいんだよ。あなたも隣の彼氏に背負ってもらいなさい、できるもんならね。……って言っちゃう? そしたらミリオ、走って逃げてね」
「おおっ、強気な発言ですなあ」
二人してくすくす笑って、先程のカップルがこちらを向いたから俺は彼女を担ぎ直して走り出した。本当は、目立ちたくなんか無かっただろう。俺を気遣って言った言葉だってことくらいはわかる。
本当は、手を繋いで歩きたいだろうに、彼女の足はもう動かないんだ。
「あー楽しかった! 疲れてない?」
「全然! …………なあ、七詩。終わりなんてずっとずっと遠い話だよ」
「……そう、だよねえ」
無理矢理納得しました、という口調で笑った七詩の心配の種を取り除いてやれたらいいのに。「百万を救いたい」なんて豪語しながら、たったひとりの恋人の不安すら取り除いてやれない俺は、なんてカッコ悪いんだろう。
車椅子を預けていた休憩所に戻ってきて、彼女を車椅子に座らせた。人の好さそうな店員が彼女の背を支えてくれて、「良い彼氏さんですねえ」と言った。七詩はにこにこ笑って「そうなんです」と返す。
人の好い店員に頼んで、二人で写真を撮ってもらった。満開の藤の花の下でピースを作る俺たちは随分仲睦まじい様子で絵になったことだろう。店員に礼を言って、二人でスマホの画面を覗き込めば、突然七詩が泣き出した。
「七詩!? 大丈夫か? どっか痛い?」
「ううん、なんでもないの、なんでもない……」
「なんでもなくないよ、俺にできることならなんだってするからさ、教えてよ。なんで泣いてるの」
「今日、すごく楽しかった。楽しかったから、不安で、なんだか、怖くなっちゃって……あは、馬鹿みたい……、楽しかったのに、怖くなるって、なんでだろ……」
夢から醒めてしまうみたいだ、とはらはら涙を流す七詩が言った。最近の彼女はずっと何かを恐れている。だから終わりが来なきゃいいだなんて言ったのだろうか。
「怖いことなんか何にもないよ、不安になったら呼んでくれ。添寝だってしてあげるからさ」
じゃあ手を繋いで、と言うから俺は屈んで彼女の手を取った。
互いに汗で湿った掌は温かい。終わらなきゃいいね。終わりが来ない限り、ずっと手を握っていてやれたらいい。
「ちゃんと、そばにいてね、ミリオ」
俺はまた、うんうんと頷いて彼女を抱きしめた。傍にいるよ、お前を置いていったりしないよ。だから、俺がいなくなったときのことを考えて泣いたりしないでくれよ。お願いだから。
<永遠を彷徨う夢の先>
2018
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