スマホから警告音が鳴る。けたたましいサイレンのような音に、反射的に目が開く。ベッドから飛び起きて足元に落ちていたシャツを被った。
どうやら街中にヴィランが現れたらしい。
ヒーローに勤務時間は無い。誰かが困ってその名を叫べば、昼夜無しに飛び出していく。人数の多いヒーロー事務所に勤めていればシフトを組んでおくことも可能なのだが、生憎俺の勤める事務所はまだまだ人手不足であった。それに学校を出たばかりの俺を拾ってくれた恩義ある事務所だ。面倒だとか嫌だとか、そんな意識は生まれない。物心ついてからずっと、この職業に就くことを夢見てきたのだから。
少しの罪悪感が胸を刺すのは、隣で目を擦る恋人の存在だ。
「寝てていいよ、ちょっと行ってくるからさ」
薄目を開ける恋人の頭を撫でる。うん、ともむにゃ、ともつかないような声で返事をした彼女は寝ぼけ眼のまま俺の制止も聞かずに身体を起こした。ベッドに座って俺の支度を待っている。サイドボードの時計は午前1時を指していた。
ふらふらと俺の後ろについて玄関まで見送りに来た頬にキスをして軽く抱きしめる。背中を叩けば「気を付けてね」と心配そうな声が漏れた。
心配すんなよ、と口で言うのは簡単だ。けれども凶悪ヴィラン相手に何度か入院している身としては彼女の言葉を重く受け止めて返答を選ばなければならない。
「ちゃんと帰ってくるっつの」
ほら、と小指を差し出せば彼女は嬉しそうに自分の指を絡めた。
指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、のーます。
一応緊急招集だ。通常の数倍のスピードでお決まりの歌詞を囁いて俺たちは手を離す。
冷たいフローリングに裸足のまま立つ彼女に手を振って、バイクのエンジンをかける。
自分で言うのもなんだけれど、俺と彼女は中々いいカップルだった。誰もが羨むような、とまで言ったら自賛が過ぎるだろうか。美人で優しくて料理の上手い彼女は自慢の宝物だ。彼女がいつまでも俺の隣で笑って居てくれるように、彼女の自慢の恋人になれるように努力は惜しんでいないつもりだ。
出会いはなんてことない、同僚との飲み会だった。友達に連れて来られたと遠慮がちにはにかむ彼女は、はやし立てられるまま俺の隣に座らせられていた。
同僚は俺の好みをしっかり把握しているもんだから、俺は満更でもなくその横顔を眺めていた。
各々勝手に食いたいものを口にする奴等の注文を店員に伝えて、飲み物が運ばれて来たら簡単に乾杯の音頭を取る。さっさと全員の皿に料理を配れば、口を尖らせる奴らの茶々をはいはいと聞き流す。
だってお前らに任せておいたらもたつくだろ。悪いけど手際の良さには自信があるし、こんなことくらいで気を悪くするような性格してないからさ。いいから、楽しんで。
ビールジョッキがぶつかり合う音は小気味いい。息をついてビールを流し込めば隣で彼女が口を開いた。
「瀬呂くんは、しっかり者なんだね」
「昔から優等生なんだ。ほら、品行方正テレビ向けスマイル」
頬に人差し指をあてて歯を見せれば彼女はくすりと笑った。
手のかからない子、優等生、気の利く奴、なんでも卆なくこなせて、でも、これだって得意は無い。羽目も外せる、バカ騒ぎもできる。けれども人を惹きつけるような強烈な魅力は持ってない。そんな評価をずっと付けられてきた。それが瀬呂範太。範太のハンは模範の範。と言われる度に馬鹿らしい気持ちになったものだ。
「あはは、良く見るやつだ。でも、セロファンはCMの笑顔より、災害現場で泥まみれになってる印象の方が強いなあ」
形の良い指が細いグラスを掴む。ピーチウーロンが桃色の唇に吸い込まれて行く。俺は彼女の口元から目が離せなくなった。
思い返せば、災害現場に派遣された時は大変だった。声を荒上げて泥にまみれて民間人の救助に必死になっていたから、周りを意識する余裕が無かったのだ。正直、テレビの爽やかなイメージとはかけ離れた映像だった。鼻血だって出てたかもしれない。
「それ、かっこよかったかぁ?」
冗談交じりに問えば彼女は目を丸くして「そりゃもちろん」と言った。照れくささを隠すために飲み干したジョッキはいつの間にか下げられていて、「同じのでいい?」と立ち回る彼女に俺は、すっかり夢中になってしまった。
その場で連絡先を聞いて、食事に誘った次のデートの時に告白した。だって誰かに盗られてしまったらどうするんだ。
スマートな瀬呂くんが付き合いたての彼女に熱を上げる姿はそこそこに滑稽に見えただろう。馬鹿らしい、みっともない、必死な姿って笑える。
そうだろうか。俺は周りに合わせて笑いながら、喉の奥まで出かける言葉を押しこむ。
( みっともなく足掻くやつだって、案外格好いいもんなのに )
俺の隣を歩く彼女は小さな呟きに「そのとおり」と同意を返した。
デートのたびに可愛らしい服を着て来てくれる彼女は、デートの前日鏡の前に服を積み上げるのだと笑った。前の週から何を着ようか考えて、鏡の前でやっぱりやめた、と服を投げ捨てる彼女が脳裏に浮かんで思わず笑ってしまう。
「わたしなんて、あなたに好かれたくて必死なんだから」
「俺も、一挙一動が命がけよ」
前日まで帽子を被るかどうかで悩んでいたと俺が白状すれば二人して噴き出した。
この子を幸せにしたい、と思ったのだ。いいや、今でも思っている。
彼女との思い出を振り返っているうちに、街に現れたヴィランはあっけなく捕縛されて警察に引き渡されていった。事後処理を簡単に済ませた後は、大欠伸をする事務所のヒーローに背中を叩かれて帰路に着いた。
「……ただいま」
鍵を差し込んでドアを開ければ、ぱたぱたと足音がこちらに向かってきた。寝てても良いと言ったのに。彼女はキッチンで何かしていたらしい。
「おかえり、範太。意外と早かったね」
「んー、もうほぼ片付いてたから」
「よかった。ココア飲む?」
ダイニングキッチンの上にはおにぎりがラップに包まれていて、帰りが遅くなると見込んで態々作ってくれたことに思わず口角が上がる。
「寝てていーよって言ったのに、なに可愛いことしてんの」
フリースの上着を羽織った彼女はココアを温め直しながら俺の方を見つめた。
「この間、朝方に帰ってきてお腹が空いて寝られないよーってうるさかったでしょ、だから」
「そ、そこまで言ってなくね?」
「うそ。本当は、安心したくて待ってたの。ちゃんと帰ってくるかって」
じわり、と彼女の大きな目に泪の膜が張った。俺の恋人は美人で優しくて気が利く最高の女の子だけれど、少しだけ心配症なのと、“個性”の扱い方が下手くそなのが玉に瑕なのだ。
彼女の“個性”は融解。感情が昂ると身体の表面が溶けだしてしまう。以前俺がヘマをして入院した際は、涙を流し過ぎて病室で身体の半分を溶かしてしまった。
手を伸ばしてそっと抱きしめた。子供をあやすみたいに背中を撫でる。安心してくれよ、ここにいるから。
沸騰しかけたココアのために手を伸ばしてコンロのつまみをひねる。それからそっと唇を重ねた。苦しい、と彼女が胸を押すまで酸素を奪って、唇を離した後に彼女が責めるようにこちらを睨んだ。
「お前に泣かれるのが、一番堪える」
だって、泣きすぎてお前が溶けてしまったら俺はどうしたらいいんだ。
大切な彼女の輪郭が溶けだして、柔らかい内側も自我も全て透明な水になって床に広がってしまうことを想像するだけで恐ろしい。そうしたら俺は床に口を付けて彼女であった液体を啜るだろう。それって随分間抜けだよ。
「誰かを助けるあなたが好きだよ。でも、心配しちゃうのは仕方ないでしょ」
はらはらと涙を頬に伝わせる彼女の目元にキスをする。
悪役を一発で倒せるくらいのとびきりのヒーローになれたとしても、ひとりの夜を泣いて過ごすであろう彼女のために、俺は何ができるのだろう。
お前だけを守ってやれるヒーローに転職しちまおうか。でも、きっとそれは彼女の好いてくれる“瀬呂範太”から少しだけ逸れてしまうのだろう。
大切な彼女を泣かせたくなんて無いのに、彼女が好きになってくれた“俺”は彼女を泣かせずにはいられない。
<AM2:00の融解点>
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