切島鋭児郎は耳が良い。
 わたしが独り言のように口にした言葉は、どんなに小さな声でも彼の鼓膜に引っかかって拾い上げられてしまうのだ。
 狡い女のわたしは、鋭児郎が眉を顰めた瞬間、すぐに発言を取り下げられるように、わざと独り言にも取れるようなトーンで願い事を口にする。
 今回も、「週末出かけられたら良いな」とそれだけのことが素直に言えなくて、まごついた言葉が団子になって口の端から抜けていった。
 普通なら聞き流してしまいそうな声量だというのに、鋭児郎は足を止めてわたしに向けて笑う。

「いいね! どこか行きたいとこあるか?」

 臆病なわたしはいつも彼との間に防衛線を引くけれど、彼がわたしの提案に嫌な顔を見せたことは一度としてないのだ。嫌われたくないだとか、要領の悪い女だと思われたくないだとか、わたしの面倒な思考自体を吹き飛ばしてくれるような、鋭児郎の性格がとても好きだ。

 鋭児郎はわたしを喜ばせるのがとても上手だから、きっと「どこでもいいの」と伝えれば、素晴らしい行き先を提案してくれたのだろうけれど、どうもそれは甘えすぎのようにも思えて、隣の市にある水族館に行くことを提案した。
 わたしは水族館が好きだった。湖や海を模した水槽に囲まれた、冷たく湿った空気とブルーのライトに照らされた薄暗い空間。悠々と泳ぐ魚たちと同じ目線で歩いていると、自分が海底に住んでいるような気分になれる。
 高校前のバス停から乗り継ぎ辿り着いた隣市の水族館は、幼い頃に訪れた記憶と変わらないままだった。
 わたしたちは窓口でチケットを2枚買って館内へ入る。古めかしい回転扉を押したのは鋭児郎で、彼はわたしが挟まれないように手を引いて自分の体の方へ引き寄せてくれた。

「あ……」
 あまりにも自然に手を繋ぐものだから、思わず声が出てしまった。
 鋭児郎はわたしの顔を見て、それから繋いだ手を軽く揺らした。
「へへ、デートっぽいな」
 

 館内には殆ど人が居なかった。「ついてるな」と鋭児郎が囁いた。
 入口で配られたパンフレットはデザインが少し古臭くて、それを眺めながら通路を進めばウーパールーパーの水槽がわたしたちを出迎えた。水槽の中には薄桃色の間抜け顔した生き物が佇んでいて、時折エラを動かす姿が可愛らしい。ウーパールーパーの可憐な見た目に合わせて、水槽の中にはカラフルなガラスの石や珊瑚が置かれている。
 わたしは水槽に張り付いて、微笑むウーパールーパーを写真に収めようとスマホを取り出した。

「なあ、七詩。ちょっとこっち見てくんね?」
「なぁに?」

 シャッターを押すより先に鋭児郎の声に振り向けば、彼の手元から音が鳴った。

「ぶは! これ、ウーパールーパーと同じ顔してる」

 たしかに、向けられた画面の中ではわたしとウーパールーパーは同じ半笑いを浮かべていた。

「ちょっと、消してよ」
「やだよ、可愛いじゃん」

 ウーパールーパーと同じ顔した彼女なんて嫌でしょうが。そう言っても鋭児郎は嬉しそうにスマホをポケットに仕舞い込んでしまった。
 上鳴くんから聞いて知ったのだけれど、鋭児郎はわたしの気の抜けた写真をコレクションしている。キメ顔で写らせてくれれば少しは良い写真になるのに、決まってわたしが無防備な時の写真を撮りたがる。わたしは不服だけれど、彼があんまり嬉しそうに写真を見つめるものだから、何も言えなくなってしまうのだ。

 ドクターフィッシュが泳ぐ浅いプールに肘まで浸からせた鋭児郎は、指先を啄まれて大袈裟に身を捩って笑っていた。わたしは彼の隣で人差し指を沈めて、魚の唇が指を啄むのを眺めていた。
 ふと、クラスのみんなで海に行った時のことを思い出した。わたしは海辺でネックレスを落としてしまった。それに気付いた鋭児郎は、折角海に来たというのにわたしと一緒に砂浜を延々と往復して、探すのを手伝ってくれたのだった。
 あの時、「魚に食われちまったのかな」と首を傾げたあとに真面目な顔をして「ちゃんと見つけてやるから」と声を掛けてくれた彼の横顔をわたしは忘れないだろう。

 一頻りドクターフィッシュを満喫したところで、鋭児郎が足を止めた。

「そろそろ昼かあ。何食いたい?」
「確かにお腹空いたね。ハンバーグでもお刺身でも!」
「好きなもんでいーよ。俺、お前の食ってる姿見んの好きだからさ」

 照れ隠しか、鋭児郎は自分の頬に触れて笑った。
 こんなに優しくしてもらって、大切にしてもらって、彼はわたしをどうするつもりなのだろう。

「……わたし、自惚れちゃうよ」

 つい、思っていたことが口に出た。
 鋭児郎が、わたしのことをずっと好きでいてくれたらいい。わたしが、彼から好意を受け取ってもちゃんと立っていられるまで。
 鋭児郎といると、自分がすごく素敵な女の子になったような気がするのだ。彼に大切にされるだけの価値のある、やさしくて、キラキラしていて、いい匂いのする柔らかい女の子だ。でもそれは一瞬の錯覚で、わたしは一人になるたびーー例えば女子トイレの鏡の前で手を洗っている時なんかに、ひょっとして自分は彼の隣に立つには相応しくないんじゃないか? と考えてしまう。
 でも、そんなことを思いたくはないのだ。わたしを好いてくれている彼に失礼だから。わたしは鋭児郎に好かれるような女の子でいたい。彼のやさしさを受け止めて、同じだけを返せるような子になりたい。
 泣きそうになる程、彼のことが好きだから。
 鋭児郎はわたしの顔を覗き込んで、顔を近づけ唇を耳元に寄せた。人が少なくて良かった。わたしは彼の言葉を逃さないように耳を澄ます。

「ああ。自惚れていいぞ」

 放たれたのは特別な重みのある言葉であった。甘やかすような、それでいて低く重みのある声色でわたしの優しい恋人は目を細めて言った。
 それってどういうこと。そんな無粋なことを聞いている余裕はなかった。
 身体を離した鋭児郎がわたしの手を取って、手の甲を硬い指先が撫でた。後ろから人が来たから、わたしたちは追い立てられるように次の水槽へ向かった。
 繋いだ手をまじまじと眺めていれば、反対に口笛でも吹き出しそうなほど上を見上げた鋭児郎が声をあげる。

「あ、サメ」

 声につられて顔を上げるとトンネル状の水槽の中で、大きなサメがわたしたちの頭上を悠々と泳いでいた。
 白い歯を見せて笑う姿を見て、わたしは鋭児郎の横顔に向けてそっと唇を動かした。

「 」

 海の底にいるみたいに、照れくさい気取った言葉が聞き取られなきゃ良いとも思う。けれど気持ちは伝えたいし、やっぱり鋭児郎は耳がいいから、彼の赤くなった耳朶が視界に入る。
 結局、わたしたち恋愛の素人。互いの感情に気付かないふりなんかできやしないのだ。
 好きだ、好きだ、好きだ。大声で叫んで回って、胸のうちをすっきりさせられたらいいのに、わたしたちは黙って汗ばんだ指先を揺らすことしかできない。

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