目が覚めて一番最初に視界に入ってきたのは鈍色の鉄格子だった。膝を抱えていても窮屈なサイズの檻は、大型の獣を閉じ込めておくものだったのか、錆び付いた金属の隅には獣の爪痕や歯型が残されていた。この中に入っていた獰猛な猛獣の最後はどうなったのだろう。そんなことを考えていても仕方が無いのに、憎いほどに狭苦しいこの檻の中では首を伸ばして外を覗き込むことも難しいのだ。檻の正面に映るのはこれまた灰色の打ちっぱなしのコンクリートの壁で、首を痛めながらその奥を覗けば重厚そうな扉が見えた。
 暫く身体を縮めたまま、自分がこの場所にいる経緯を考えたり強張った身体を解そうとしていると、音を立ててドアが開いた。差し込む光と共に足音が聞こえてくる。コツリコツリと硬い床を踏みつける音はヒールの踵の音だろうか。軽やかな音からしても足音の主は女性だろうと推測をする。丁度、足音の主が檻の正面まで来たところで異変に気づいた。俺の眼前に丁寧に揃えられたのは可愛らしい爪先ではなく、ごつごつとした山羊の蹄だったのだ。
「ご機嫌よう」
 山羊に知り合いはいない。いない、はずだけれどその鈴の鳴るような声には聞き覚えがあった。恐る恐る視線を上げれば丈夫そうな毛皮に覆われた肢があり、背後から伸びる鱗に覆われた尾には顔がついていて、牙を*くそれはまごうこと無き蛇であった。檻の隙間から侵入を試みる蛇を靴の裏で追い出しながら、自身の尾を咎めもしない人物を見据える。滑らかな腹部に繋がる胸元の膨らみは確かに女性のものだった。問題はその上だ。普段肩に垂らされているはずの桃色の髪を仕舞い込んで、柔和な笑みを浮かべる彼女はふざけたライオンの被り物をつけていた。その背には可愛らしいサイズの蝙蝠にも似た翼が生えている。鱗に覆われているから、もしかするとモチーフはドラゴンなのかもしれない。
「……なに、してんの。檻舘」
「ふふ、わたしは檻舘ヨルではありませんよ」
「夢?」
 くすり、と白い指先を唇に当てて笑う彼女は確かにクラスメイトの檻舘ヨルの姿をしているけれど、器用に片足をあげて一回転してみるコミカルな動きを見るに、成程俺の知っている彼女とは少し違うようだった。
 夢か、と俺が問えば彼女は当たらずと雖も遠からず、と答えた。
「わたしは、あなたから生まれた存在です。欲望の具現化、本性の権化。外側はあなたの知っている少女のものかもしれませんが、中身はあなたの心の写し鏡なのです」
 檻舘の姿をした少女は彼女に似て難解な言い回しをするけれど、夢の中だからなのか、俺のイメージが反映されているからなのか、どこかぼやけた話し方をしてくる。まあ、夢でもなんでもいい。この窮屈な檻から出してくれ。
「簡単ですよ。あなたが素直になりさえすればいいんです。わたしがあなたの胸のうちに潜む感情に、名前をつけてあげしょうか」
 言葉にしなくてもお見通し、とでも言いたげな彼女はーーぬるり、と身体を歪めて狭い檻の中に入り込んできた。
「うわ」
「鈍感でもない癖にわからないフリをするんですから、狡い人」
 ヒントをあげましょうね、と檻舘は薄い唇を窄めて俺に向けて息を吹きかけた。それは燃えるように熱く、熟れた果実のように甘い。頭の奥が痺れるような感覚に目を閉じれば、狭い狭い檻の中に入り込んできた彼女の身体が密着している感覚を嫌というほどに実感してしまう。獣の継ぎ接ぎのような下半身とは別に、腹部から上はそのまま人間の姿をしているから、滑らかな皮膚が擦れる感覚、ひやりと低い体温に柔らかい肉感が、思考を奪っていく。
「おり、だて」
 彼女はいつだって冷静で、淑やかで、夢を見すぎかもしれないけれど、“清楚”という言葉が良く似合っていた。こんな、狭苦しい檻の中で俺みたいな奴と厭らしく軽々しく密着させることを望むような人じゃない。そう思うことで自分の理性を何とか保っていた。
 檻舘は蠱惑的とも言える笑みを浮かべて、俺の頬に手を伸ばす。殆ど俺の身体の上に乗り上げているような状態で近づいてくる整った顔に、思わず仰け反った。
「〜〜っ!」
 ガツン、と鈍い音と共に後頭部に鈍痛が走る。目の前に星が飛ぶ代わりに、教室で会う檻舘の姿が浮かんだ。小首を傾げて行儀よく微笑む彼女はやっぱり、“清楚”だった。
 俺は檻舘の姿をした女の肩を掴む。彼女は目を丸くして俺の言葉を待っているようだった。
「俺にとっての檻舘は、理解の範疇を超えた奴だよ。俺が一生かけても追いつけない。……憧れ、なんだ」
 嘘はついていない。
こちらの設定した境界線なんて簡単に飛び越えてくるくせに、俺は彼女の引いたラインをいつだって越えられないでいる。敵わない、と思う。背中を押されて手を引かれることはあっても、俺が彼女に与えてやれるものなど数える程も無い。だから、憧れだ。彼女の肌に触れたいだなんて俺が一瞬でも考えたことは知られたくもない。
「……つまんない。ああつまんない! ……“そっち”なんだ」
 はあ、と甘い溜息を付いた彼女は口調まで変えて頬を膨らます。「でも」と続ける姿は確かに檻舘の顔をしているのに、普段の彼女よりもずっと子供っぽく見えた。
「嘘は、ついてないもんね。だから、半分だけ正解にしてあげる」
 彼女は狭い檻の中で器用に自分の背中に手を回して、ぶちぶちと嫌な音を立てて柔らかな皮膚から生える片翼を根元から毟り取った。痛くはないのか、と聞きそうになったけれど、差し出された羽根の断面はつるりとしていて、豪快に毟られた割には背中の方も綺麗なものだった。
「これ、あげる。あなたが戻りたい場所に帰れるわ。……うん。わたしは面白くないけど。良かったね」
 最後に、困ったように浮かべたその表情だけは、檻舘に似ていた。俺の想像が生み出したらしい彼女は俺に向けて手を振っている。似合わないライオンの被り物をして、ドラゴンの羽根と山羊の蹄に蛇の尻尾を生やした檻舘もどきは輪郭をおぼろげに歪ませて消えて行った。


「――っ心操くん! 無事でしたのね……」
 視野いっぱいに映ったのは、また檻舘ヨルの姿だった。今回はおかしな被り物を付けてはいない。羽根も、尻尾も生えていないことを確認して安堵の息を吐き出せば、檻舘が事情を説明してくれた。
 自分が倒れていたのはサポート科の研究室の前で、どうやら発明品の実験に巻き込まれたらしい。対象者の精神に干渉し、“本人が一番恐れるものと対峙させるシュミレーター”を作ったつもりが、何を間違えたのか完成したのは“本人の抑制された感情を映し出すシュミレーター”であったそうだ。それを聞いて、思わず周りにモニターが無いかを確認してしまった。羞恥に耐えられなくて下を向く。自分の靴紐の結び目を見つめながら、先程見ていた空想がどのような意味を持つのか考えたくも無いのに次々と浮かんでは消える。隣で心配そうに俺の名前を呼ぶ檻舘に、謝らなくてはならない。勝手に登場人物にしてごめん。あれが俺の妄想だったというのなら、随分失礼なキャスティングだ。
「……なあ、檻舘。頭が獅子、身体は山羊で、蛇の尻尾を持ちドラゴンの翼が生えた生き物、って何か知ってる?」
 待てよ、とひとつ心に引っ掛かるものがあった。俺の妄想の中の彼女は、なぜあのような珍妙な格好をしていたのだろう。
「なんですの、その質問。クイズですか」
 形の良い唇に人差し指をあてて、思案顔を浮かべた檻舘はすぐに思い当たったようで口を開いた。流石博識だ。
「ギリシャ神話のキマイラがそのような姿かたちではありませんでしたか? 確か」
「キマイラ…」
「合成獣とか、遺伝情報の分野でよく聞く“キメラ”という言葉の語源になったものですね」
 檻舘は機嫌よく続きを話す。
「得体の知れないものや理解の及ばないもののメタファーですかね。あとはキリスト教ですと、恋愛の象徴とされたりもしますわ。ただ、翼は……生えていなかったんじゃないかしら」
 ううん、と首を傾げる彼女は不思議そうに「キメラのつばさ、ですか」と口にした。それはどこかで聞いたことのある単語で、どこで聞いたのだったか、と一緒に考えだしたところで扉の隙間から顔を出した教師が口を出した。
「お、ドラクエの話? 曰くつきシュミレーターは発目に言って使用禁止にしておくから」
 ショベルカーの頭の部分をそのまま被り物にしたような奇抜な見た目の教師は「悪かったなあ」とがしゃがしゃと音を立てて頭を下げてくれた。
 彼が言ったゲームの名前で、“キメラのつばさ”の効果が脳裏に浮かぶ。小学生の頃友達とよく遊んでいたのに忘れていた。それは屋外だけで使える道具で、主人公たちを一度訪れた任意の場所に転送できる効果があった。洞窟の中で使うとキャラクターが頭を強かにぶつけるドット絵がコミカルで笑いを誘ったのだ。
「心操くん。キメラが出る夢でも見ていたんですか? 夢の内容、ぜひ機会があれば教えてくださいませ」
「……内緒」
 花が開くように微笑む檻舘には、あの夢の内容は一生伝えられない。
けれどもキメラのつばさの効力だけは、いつか教えてやってもいいと思った。


<きみに回帰、分離した劣情にて酩酊せよ>
(心操×檻舘)
 

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