恋人と海に行った際、ひょんなことから彼女の下半身が消えてしまった。すらりと伸びた二本の脚の代わりに、いま彼女の臍の下には巨大な魚の尾鰭がついている。
半分同棲していたようなものだったから、斯様な状態になってから彼女の部屋はすぐに引き払った。だって一人じゃ階段も登れやしないのだ。
彼女は自分の下半身が魚になってしまったというのに朗らかなままで、移動のたび抱き上げる俺の労力を気にしては「わたし、逆立ちで移動もできるよ」と柔らかい力こぶを作って見せてきた。
自分の脚が喪われたというのに、共に暮らす俺の心配ばかりをする。それも、極めて明るい調子で冗談めかして言うものだから、俺は彼女と話しているといつも真剣な表情を保つことができずに破顔してしまう。
「ふふふ! 人使くんの笑った顔、大好き」
「……俺は、お前が好きだけど」
「オッ……」
「お?」
「オーバーフローですね……」
「なんだそれ」
俺たちは狭い風呂場で顔を見合わせて笑う。
バスタブにカルキを抜いた水を張った手狭な水槽が彼女の居場所だ。脚も伸ばせず、二人でバスタブに入ればお湯が溢れるサイズだから、彼女の尾は殆ど飛び出してしまっている。鱗に覆われた尾鰭は水を吸ってぬらりと艶めかしく光り、尾鰭から滑らかに続く薄い腹部も水着に覆われた胸元も肩も首筋も折れそうな程細いから、彼女の羸弱さに時々不安になってしまう。
「ねえ、人使くん……」
強請るように、彼女が俺の顔を見る。大きな瞳は口ほどに物を言う。それに、感情表現の豊かな尾鰭もまた急かすように水面を叩いた。
「はいはい」
彼女は人魚になってから、食事を必要としなくなった。始めは普段と同じ食事をとっていたのだが、或る日から胃が受け付けないと食べたものを吐き戻すようになってしまった。
魚の餌も用意してみたけれど、蠢くミミズやペレットを見て引き攣った顔を浮かべただけで手を付けようとはしなかった。このまま痩せ細り弱ってしまうのではないかと思案する俺に、彼女は「赤いもの」を用意してほしいと言ってきた。
赤い物なら何でもいい、と言う彼女に取り急ぎ与えたのは冷蔵庫に入っていた林檎だった。皮も剥かずに手渡せば彼女は林檎をバスタブの中に沈めて、満足そうに微笑んだ。すると不思議なことに彼女の尾鰭の色がじわりと変わっていくではないか。まるで林檎の赤を吸い取ったかのように、群青色の尾鰭に朱が滲んでいく。すっかり色の抜けた林檎を両手に乗せて、満足そうな表情の彼女は笑う。
「赤ければなんでも。トマトでも、ポストでもいい」
それから、俺は彼女のために赤いものを集めた。食べ物ならトマトに林檎、人参も許容されたのだが、紅茶や食紅のように水自体が染まるものは気に食わないらしく、グルメな人魚は尾鰭で水面を混ぜながら色の抜けた食べものを返してくる。
俺は彼女によって色を抜かれた食べ物を口にするのだけれど、味は普通の食べ物と大差がない。しかし透明な断面のスイカやトマトはどうも本来の味が思い出せずに口にする度に困惑したものだ。
最近の彼女のお気に入りは金魚だった。ホームセンターで小さな和金を買ってきてはバスタブに放してやる。金魚からしてみれば巨大な仲間に見えるのか、クリーム色のバスタブの中で金魚と戯れる人魚の姿は中々に絵になった。
しばらく水面を眺めていると金魚の表皮の色が溶けだして、彼女の尾に色が移っていく。すっかり色の抜けた金魚たちは数日彼女と共に暮らすのだけれど、また彼女が空腹を訴え始めると別の水槽に移している。色の抜けた金魚は普通の川魚みたいに見えて、俺はこっそり家の裏の川に放流してみようか、なんて良くない考えを浮かべてみたりする。
「なあ、他の色じゃダメなの? 紫とか、綺麗だと思うけど」
「人使くんの今日の夕ご飯は茄子の炒め物?」
「……御名答」
「紫もきれいだけど、赤じゃなくちゃだめ。理由はわからないけれど、わたし、そういう生き物になってしまったから」
「赤を食べる生き物? 人魚が色を食べるだなんて初めて聞いた」
彼女はバスタブの縁に顎を乗せて、ううんと悩む素振りをしてみせた。
「正確には、ちょっと違うのかも。人魚は、寂しさからできてるの」
ぱしゃり。水面から伸ばされた尾鰭はまた深い青色になっていた。確かに、彼女の尾鰭は時間が経つとどんどん冬の海のような色になる。俺は詩人じゃないし、情緒豊かに語る程の感性を持たないけれど、言われてみれば「寂寥」だとかそういう言葉が似合いそうな色だと思った。
「………寂しくて堪らないんだ、ほんとはさ。わたしの身体を流れる血はもう、赤くはないから」
そう言った彼女は徐に自分の手頸に歯を立てた。細い手首を伝う液体は彼女の言うとおりに深い青色をしていた。
「いつから、こんなに寂しいのか覚えてないけれど、きっともう脚は戻ってこない。そんな気がするの」
堪らなくなって彼女の頬に手を伸ばした。青白い肌は柔らかく、冷房も入っていないというのに驚くほど冷たい。まるでーー。いいや、答えなど知っても仕方がないのだ。
俺は、彼女の抱く寂しさの理由を隠し、逃げ続けている。彼女の寂しさを埋めるためにはどうしたらいいのだろう。なにができるのだろう。冷たい身体を抱きしめて、それでも寂しさが埋まらないのなら、指でも腕でも何でも切り落として、身体を流れる血の色でも何でも差し出してやりたいのに。なあ、そうしようか。
「……俺のこと、食べたっていいよ」
昔読んだ小説に、人魚に喰われる男の話があった。お前になら食べられたっていいんだ。澄んだ瞳を見れば、彼女は目を細めて、ひどく優しく微笑んだ。
「食べないよ。わたしの、大事なひとだもん」
なあ、何処へも行かないでくれよ。手を伸ばして触れた愛しい人魚は冷たくて、俺は胸の奥を掻き毟りたくなる。白状する。本当に寂しいのは俺の方なんだ。
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