本日の最高気温は35度を超えるらしい。涼しげな服装のアナウンサーが赤く染まった日本地図を指しながら熱中症に注意するように伝えていた。1年生の時から世話になっているインターン先は大阪にあるから、必然的に朝は早起きになる。まだ気温が上がる前だから、移動も心なしか楽であった。
夏は好きだ。幼い頃から外ではしゃぎ回る子どもだったからか、暑さも苦手ではない。照りつける灼熱の日差しも、甲高い子供たちの声も、姦しい蝉の鳴き声も、アスファルトに跡を残しそうなほど濃い影も、背中に滲む汗までもが心地よい。
そんな話をすれば環先輩は顔色の悪い顔を更に青くさせて信じられない、と言った。「季節の中で一番夏が辛いだろう」とまるで自らに苦行を強いる僧のようなコスチュームを脱ぎながら環先輩は俯いた。体温調節機能が備わってるとは言え、重ねられた衣装を一枚一枚脱いでいく姿は見ているこちらまで汗を掻きそうになる。
「……そういえば、今日は八幡神宮の宵宮だね。切島くんは行くの?」
環先輩は引っ込み思案な性格ばかりが目に付くが、情報通で勤勉で、根本的にはお人好しだ。人の集まるところが苦手だと言いながら、近隣の行事ごとについて大体把握しているのだから頭が下がる。器用とは言えないが後輩である俺のことを常に気に掛けてくれているところも、人として尊敬する面だ。
「勿論行きますよ! 良かったら先輩もどうですか」
「いや……、友人か、彼女と行くんだろ。もし行くなら見回りも頼むよ、と言いたかったんだ。俺が混じるなんてアウェーすぎる」
肩を竦めた環先輩は荷物を簡単に纏めたあと、なんでもないことのように言った。
「面倒事が起きたら連絡して」
ありがとうございます。俺は環先輩の背中に向けて力強く声を掛けた。ヒーローに休日は無い。夏祭りのようなイベントは揉め事が一番起こりやすいため、深夜に招集がかかり眼の下に隈を作って出勤しているファットガムと環先輩を見たのも一度や二度ではない。当然会場の周りには警察や他のヒーローも常駐しているのだが、荒事に慣れたファットガム事務所の面々の解決能力の高さは地域の住民からも一目置かれているから、ノーマークでいるという訳にも行かないのだろう。
ファットガムは別の要件で出張に出ていて、環先輩はこのあと非番だ。何事もなけりゃいい。あっても俺が解決すれば良いのだ。
寮に戻りシャワーを浴びて着替えたところで、彼女から連絡が入った。先輩の推察のとおり、俺は恋人を誘って夏祭りに行く予定だった。
玄関先で待ち合わせをしていた恋人は綺麗な赤色の浴衣を着ていて、俺を見かけると照れ笑いを浮かべた。
「高校最後の夏祭りだから、新調しちゃったよ」
「赤、似合うなあ! 綺麗な金魚みたいだ」
彼女とは何度目かの夏を過ごしたけれど、毎度、幸福な時間を更新してくれるのだから凄い奴だと思う。一昨年よりも去年が、去年よりも今年の方が鮮やかな記憶になるのに、過ごした時間一つ取り上げても胸の奥が温かくなるような記憶にしてくれるのだ。
俺の好きな色の浴衣を選んで、髪を結いあげた彼女は誰よりも魅力的で、慣れない下駄を鳴らして半歩後ろをついてくるのもまた堪らない。
寮の最寄りからバスに乗れば、俺たち同様、祭りへ向かう男女がひしめいていた。若い女性は色取り取りの浴衣を着ていてよく似合っている。着崩れるだろうと空いた席に座らせたら、次の停車駅で乗車してきた老人に席を譲った彼女は「浴衣に見惚れてるの?」と俺の顔を覗き込んだ。お前が一番だよ、なんてさらりと言えたならスマートだったのだろうけれど、生憎俺にそこまでの勇気はなかった。ただ、顔に集まる熱を逃すために息を吐き出した。
今日は宵宮だというのに、神社の近隣は活気に溢れていた。焼き物の香ばしい匂いが鼻を擽る。子どもたちが風船や水ヨーヨーを振り回して駆け回る。露店に挟まれた通路には人が溢れかえっていた。想像よりも祭りの規模が大きく、これは警備も大変だろう。俺は身体に染みついた癖で、猛暑の中見回る警官やヒーローたちに頭を下げる。
「こんなに大きいお祭りなんだねえ。今まで知らなかったのが勿体無いくらい」
「ホントだよなぁ。端まで見て回ろうぜ」
「フルーツ飴買お! わたし蜜柑が好き」
子どもみたいに彼女は黄色い声をあげて俺の服の裾を掴んだ。人混みに紛れてしまえば知り合いに会いそうもない。彼女の手を握れば、頭一つ分下で「ふふふ」と嬉しそうな声がした。彼女の嬉しそうな顔を見れば下らない悩みなど一瞬で吹き飛んでしまう。我ながら単純な男だ。
歩きながら食べる祭りの食べ物は、不思議と美味く感じる。橙色の灯りに照らされて慌ただしく口に入れるフランクフルトも、たこ焼きも、味付けは簡素なのに、思い出の補正がかかっているのか、いつ食べても懐かしい味がする。
神社の境内の周りに円を描くように開かれた露店の件数も減ってきた。そろそろ見終わっただろうか。最後の店は参道の奥まった場所にぽつりと佇んでいて、そこには蛍光灯ではなく提灯が掛かっていた。
「こんばんは。ここは何のお店ですか」
彼女が屋台を覗きこんだ。上屋にも何も書いていない。小さな露店の中に座り込んでいた男が顔をあげる。
「……おや、珍しい人たちが来たもんだ。ここは案内所ですよ、お姉さん」
「ん? 祭りの案内なら、もっと入口に店を置いた方が良いんじゃないですか」
我ながらご尤もな質問をしてしまった。男は俺の言葉に頷いた後に「迷ってしまう人がいるんですよ。こんな大きい祭りだと、特にね。現にアンタらも迷ってるんじゃないですか?」と見透かすような目をして言った。
俺と彼女は顔を見合わせて、そんな馬鹿な、と口にした。だって、一本道だ。露店を辿って来ただけの単純な道で迷うなんてそんな訳があるものか。それに、俺たちのほかにも人があんなに居たというのに。
「−−−マジかよ」振り向けば自分たちが通って来たはずの道は消えていた。店の明かり一つない暗闇が広がっていて、案内所の提灯はぽつりと闇を照らしている。ポケットからスマホを取りだせば電源が落ちていた。腕時計の針は時を刻まず震え続けている。緊張が走った。
「………あんたの【個性】か?」
「いいえ。俺はアンタたちみたいな力は持っちゃいない。ただの案内人だからね。まあ、帰るだけなら簡単だ、この道をずっとまっすぐ行きなさい」
これを持って、と男は手持ち花火を渡して来た。俺は馬鹿にされている気がして、「要らねえよ」とつい口調が荒くなる。
「いやね、明かりの代わりに使うんです。行灯を切らしてるから、これで代用。用を足すまでは持ちますから、これで足元を照らして、帰ってください」
「……有難うございます」
彼女は素直に礼を言って、花火を受け取る。炎が噴射している方を上に向けても火の粉が手を焼くことは無かった。華やか過ぎる松明を握って、俺たちは男の言うとおりに道を進むことにした。
「ああそれと、もうひとつ。ここは一本道です。振り返っても暗闇しかありません。だから、振り向かないことをお勧めします。なに、とって食われるわけじゃないですがね」
「御達者で」
こんな場所で会うのでなければ、気の良い男だったのだろう。ひらひらと手を振った男の店は暫く俺たちの背後を照らしていた。
ーー何だったんだ。面倒毎に巻き込まれるのは慣れているとはいえ、今回のは珍しいパターンだった。空間を歪ませる個性だろうか。無事に戻れたら学校にも報告を入れなければならない。
一本道だと男は軽く言っていたけれど、歩けども歩けども明かりは見えなかった。俺たちは手を繋ぎ、もう片方の手に花火を握って、汗をかきながら黙々と林を彷徨っていた。夏虫の声が五月蠅い程に反響しているのに、手元の花火には蛾の一匹も寄ってこない。それがまた現実味を薄れさせていた。
それに、もうひとつ。暑さにやられたのか、夢でも見ているのか、先程から得体の知れない走馬灯のようなものが脳裏に浮かんでは消えていく。そこでは俺は別の人間として、異なった人生を歩んでいる。けれどもそれは、――確かに、俺なのだ。それは何故か理解できた。前世か、来世か、自分によく似た人間の生き様を盗み見ているような、体感しているような、得体の知れない気分だった。
「ねえ、……変な話、していい?」
繋いだ手に力を込めて、俯く彼女が口を開いた。
「この変な道を歩くたびに、色々昔のことを思い出すの」
「……昔、って?」
蒸し暑い気温は変わらないというのに、彼女の言葉に背筋が冷えた。彼女が見ているというのは、まさに俺がいま見ているこの不思議な光景ではないか。
「わたし、鋭児郎を産んだことがある」
ヒュウ、と自分の喉が鳴った。俺は、記憶の中で彼女を母と呼んだことがあった。温かい胸に抱かれ、乳を与えられた記憶が蘇ってくる。俺は彼女の顔から目が離せない。ああ、どうして忘れていたんだろう。俺の記憶の中で鮮明に残る彼女の姿は、目も開けられない老婆であった。
「俺は、お前の、死を、看取ったことがある」
恐ろしいことに、俺たちはこの記憶を現実のものだと認識していた。だって余りにも鮮明に当時のことを覚えている。母であった彼女の手を握り公園に向かった日のこと。皺くちゃの彼女の好物が塩豆大福だったことも、友人の名前も、墓標の場所まで、記憶にある。
俺たちは顔を見合わせて互いの見た記憶を捲し立てて伝えると、揃えて顔を青ざめさせた。こんなところは早く抜けなければならないと歩く速度を速める。数歩踏み出して、彼女の足元が不安定な下駄であることを思い出した。そういえば。
「足、痛くねえ?」
おぶろうか、と言えば彼女は額に汗を滲ませて「平気!」と力強く言った。
俺たちは早足で、汗をだらだら流しながら気の遠くなるような一本道を進む。彼女が数度目かの深呼吸をした。ここは酷く息が詰まるのだ。
「……鋭児郎、なんか話していい? 黙ってたら、記憶に飲み込まれそうで怖い」
「いいよ。ちなみに、俺はお前の飼い犬だったことがある」
「嘘! わたしがお姫様だった時、鋭児郎はわたしを守る騎士様だったこともあるよ」
「カッケェ……」
「でもふたりともすぐ死んじゃった。わたしたち、毎回そうなんだね。出会って恋に落ちても、長続きしない。それでも、この記憶が本当なら、人生の何処かで出逢い続けてる」
確かに、彼女の言うとおりだった。脳に流れ込み続ける記憶は段々と古い時代へと遡っていくのだが、彼女と過ごす時間は一瞬であることが多い。
ふと、ひとつの記憶が俺の足を止めた。急に止まった俺に驚いて、彼女が足踏みをするからカランと小気味いい音が響く。
濁流のように、突然、映像が流れて混んできた。
「…………俺だ。俺が、駄々をこねた。お前の手を離すものかと、かみさまに、噛み付いたんだ」
これはいつの記憶なのだろう。俺たちは人間なのか、動物なのかもわからないなにかで、俺は彼女の手を掴んで仲間たちの元から逃げ出したのだ。かみさまーー俺たちの父親みたいな存在は怒って俺たちを引き離した。それからは、互いのことは忘れて散り散り、ばらばらだ。
何故、いまここで思い出したのかはわからない。やっと掴んだ幸福を誰かに嗅ぎつけられたのだろうか。己の半身を探し続けて、すれ違いながら永劫の年月を生きてきたのだ。掴んだこの手を離すつもりは無い。
「……あ! 明かり」
思案に耽っているところで、急に彼女が大きな声を出した。目を細めると小さな明かりが遠くに見える。俺はかぶりを振って、前世だとか、記憶だとか、身体に纏わりつくまやかしを振り払う。全部夢だった。俺たちはただの高校生で、年相応の、恋人同士だ。仕切り直して花火を見に行かなくちゃ。
「早くはやく!」
下駄と浴衣だというのに、彼女は風のように走る。橙色の明かりは徐々に巨大になり、ひゅるるるるる。螺旋を描いて宙に向かって飛んだ。爆音とともに大輪が咲く。俺たちは元の祭りの会場に戻ってきていた。どうやら神社の境内に迷い込んでいたらしい。
「きれい……」彼女が真上を見上げて感嘆の声をあげる。
「すげえ、ここらで一番派手だなあ」
爆音と目に痛いほどの眩さに、澱んだ胸のうちが晴れていくような気がした。おかしな案内人も、長い長い一本道も、自分であった過去の幻影も、全部忘れてしまうべきだろう。俺は俺、彼女は彼女。昔のことなどどうでもいいのだ。
花火の音に紛れて、俺の背後に立っていた彼女が手を引いた。
「ね、鋭児郎。こっち向いて」
呼ばれたままに、振り返って彼女の方を見る。
突然ぞわりと背筋が冷える。けれども違和は感じなかった。ただ、俺の手の中に収まる柔らかな小さな手の感触がひどく新鮮で、頭一つ分小さいこの女の子から目が離せないことに、恐怖を、少しだけ感じる。
「かみさまに我儘を言ったのはわたし。光り輝く星を掴んで、泣き叫んだ女をあなたは見捨てられなかった。気が遠くなるほど昔の話なのに、あなたは今でもわたしを見つけてくれる」
言葉が喉の奥に痞えて出てこない。彼女の名前を呼びたい。母でもなく娘でもなく姉でもなく友人でもなく他人でもない、彼女の、名前を。
「いっそ燃え尽きてしまったら救われるのかな。なんてね」
続けざまに花火が上がる。彼女の顔はもう見えなくなっていた。気付けば手元の火が消えている。俺はゴミを握りしめて佇んで、周りはこんなに眩しいのに、隣の女の子の顔を見れないまま。花火の音に言葉を奪われている。
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