絶体絶命の状況というのは、保健委員会に所属していると何度か遭遇するものであった。六年間保健委員会に所属した伊作先輩は呑気に「またか」と呟き、先輩には劣るものの四年間先輩と共に過ごしたわたしもまた、肩を竦めて恒例行事と化した山賊との遭遇に向き合うことにした。
「なんだ、ガキじゃねえか」
「……殺すにゃ惜しい顔してるな」
 山賊の一人が伊作先輩を見て唇を舐めた。先輩は綺麗な顔をしているから、下卑た山賊たちに狙われる原因のひとつは先輩の容姿なんじゃないかとも思ってしまう。
「大人しくしてれば、痛くしねえからよ」
 山賊の言葉を誰が信じるというのだろう。わたしは町娘の格好をしていたので、伊作先輩の腕にすがる。
「助けてください……」
 憐れみめいた声を上げれば山賊たちは愉快そうに笑った。
 <さん>
 伊作先輩が矢羽音を飛ばした。山賊たちは姿を現しているのが5人、茂みに隠れているのが3人といったところか。
 町で薬を仕入れてきた帰りだから、先輩は背中に高価な薬を背負っている。山賊たちはこの価値を知らないだろうけれど、なんとか、無事に帰りつきたい。
 <にぃ>
 だん、と踏み込んだ山賊が扇型に広がり、中央の一人が前に出た。
 不運、と称される保健委員会だけれど、わたしは自分のことを幸運だと思っていた。まあ時々犬の糞を踏むことはあるし、頭に鳥の糞が落ちてきたり、そういうことはあるけど。
 <いち>
 じり、と山賊が距離を詰めてくる。無骨な手がわたしの着物に伸びた。袖を掴まれる前に、半歩後ろに下がる。わたしは伊作先輩と目を合わせ、指をくわえた。
 <行け!>
 ぴぃいいい、と鋭い指笛が響く。わたしは外に出かける時、できるだけ鳥を連れてくるようにしている。
 指笛に反応して、木々に隠れていた鴉が飛び立った。騒々しく飛び立つ一羽に釣られて、何羽もの鴉が連れ立つように木から離れる。
 山賊たちが気を取られているうちに、姿勢を低くした私たちは山賊の真正面を駆け抜ける。意表をつかれた彼らは咄嗟に反応できない。
「てめぇら……っ!」
 茂みに隠れていた山賊が怒り露わに声を上げる。伊作先輩が棒手裏剣を打った。毒の塗られたそれは丁寧に足を貫き、即効性の毒に大男は倒れ込んだ。
「近場に川があるので、命には関わりませんよ」
「お、お人好しだなあもう……!」
 伊作先輩は後ろに声をかけるけれど、彼らも山賊業に身を落とすだけの事情があり、それなりの悪事を働いて来たのだろう。野放しにするのも忍びない。あの毒はきっと、山賊の足を使い物にならなくするだろう。そうすれば、彼は山賊として死んだも同然だ。
「ガキが、馬鹿にしやがって!」
 やだ、山賊のくせに足が速いじゃない。
 刃毀れした刀をすらりと抜いて、切りかかって来た山賊に気づいて、わたしは振り向いて袖をまくる。腕には細い鉄棒を仕込んである。
 左手を顔の前に出して刀を受ける。鉄のぶつかる音。腿に仕込んだ懐刀を取り出して、切り結ぶ。
 動きは早いけれど、一撃はそんなに重たくはない。
 背後で伊作先輩が感心したように口を開いた。
「瑠璃、すっかり武闘派になって……」
 呑気な伊作先輩は、懐から出した鉄扇で山賊の振り上げた刀を折った。伊作先輩は体術がとても得意だ。急所を躊躇なく的確に狙えるのは、流石保険委員長だ。鳩尾に一撃を食らって胃液を吐きちらす山賊を一瞥して、隙を見て相手の人中を力一杯殴った。
 怪我の治療が必要なほどではないし、わたしは悪人に治療を施すほど善人ではない。

***

「ふん! 不運が二人でも無傷で帰ってこれるんですね!自信ついちゃいます!」
「でも瑠璃、犬の糞を踏んだろう」
「伊作先輩もでしょ」
 山賊の襲撃を退けたわたしたちは学園のすぐ側の川で足を洗っていた。山賊から逃げている途中、犬の糞を踏んでしまうくらい良くあることだ。
「瑠璃が保険委員から抜けてしまって残念に思っていたけど、会計でも頑張っているみたいで安心したよ」
「わたしも年度当初は驚きました。ついにクビかと思っちゃって」
 くのいち教室は本人の希望と、シナ先生の采配によって委員会が決められる。わたしは毎年保険委員会を第一希望にしていて、第二希望は図書委員会。第三希望は作法委員会にしていた。
 それがどっこい、気付けば今年は会計委員会に所属していたのだから驚きしかない。ちなみにわたしの中で入りたくない委員会ワースト3は、一位体育、二位生物、三位が会計であった。これはくのいち教室やりたくない委員会ワースト3と同様である。
「ははは、僕は瑠璃がどうして会計になったかわかるけどなあ」
「わかります?」
 川に足を浸したまま、伊作先輩が空を仰いだ。保険委員長は代々大らかで優しい方が務めていた。伊作先輩も例に漏れず、人をすぐに安心させてくれる。
「シナ先生はね、お前に沢山の選択肢を与えたいんだよ」
「選択肢、ですか」
「例えば楪はさ、入学当初から凄く視野が広かったよね。忍び里出身なのもあるだろうけど、僕らが驚く程知識に対して貪欲だった。図書室に居たかと思えば火薬の実験を見に行って、作法の首実検があれば参加してただろう。彼女はなりたいことが決まっていたから、そのために一直線だったんだ。今もそうだね」
 例に出された友人のことを考える。わたしの親友である楪牡丹は、同級が舌を巻く程の「天才」でありながらも周りを萎縮させるほどの努力家なのであった。「人前で見せる努力など努力のうちに入らない」と称したのは牡丹であったか、その恋人の火薬委員長代理の言葉であっただろうか。
「確かに、牡丹は入学当初からくのいちになる道を目指していましたけど、わたしだってそうですよ」
「楪は、忍びにしかなれないと思うかい?」
 そんなことはない、とすぐに口から出た。牡丹ならば、何にだってなれる。優秀な忍びにも、城に勤めて女だてらに参謀を務めることも、豊富な知識を元に寺子屋で教鞭を振るうこともできるだろうし、芸能に走って舞を踊ることだって可能だろう。勿論、女としての幸せを求めることだって、手を伸ばせば彼女ならなんだって届きそうな気がする。
「彼女は、沢山の選択肢の中からひとつ、忍びの道を選んだんだよ」
 伊作先輩が何を言いたいのか、わたしはもうとっくにわかっていた。彼だから、わたしに言えるのだ。
 忍者に向いていない、と卒業の年まで言われ続ける伊作先輩だから、同じように忍者に向いていないわたしに言葉をかけられる。
「保健委員会を選んだのは、「奪うこと」と共に「救うこと」を学んで欲しかったからだろうね。瑠璃は良くやってたよ。卒業後、薬師を目指しても十分な知識はもう身に付いているんじゃないかな。
 会計で学んで欲しかったのは、「守ること」だろうね。まず一番に自分を、それから自分の大切なものを、守るためにはやはり力と決断力が必要だから。文次郎はそれを教えてくれるだろう?」
「流石、ですね」
「数字に強い人間は何処でも入り用だから、重宝がられるよ」
 ーーそう、シナ先生はいつだって生徒のことを考えてくださる。わたしに、忍びの道以外の選択肢を与えてくれているのだ。その上で、選択なさいと判断を委ねてくださる。
 わたしはその優しさを、素直に受け取ることができずにいた。揺れてしまうのだ。忍者になるしかないと思っていた、それが自分にとっての最善なのだと思っていた。けれども、忍びになる以外の選択肢が魅力的でないと言えば嘘になってしまう。
「……忍者になる、と決めている人ほど、人に他の道を勧めませんか?」
「そうかな、僕はぎりぎりまで迷うつもりでいるから、お前も巻き込もうと思っただけだよ」
「や、やだなあ……!」
 伊作先輩は楽しそうに笑って水の中で足をばたつかせた。そろそろ日が落ちる。
「ねえ瑠璃。誰も、お前を責めたりなんかしないよ」
 優しい声に、わたしは目を瞑った。
 この学園は暖かくて、優しい。わたしは外に出るのが怖いのだ。一人になるのが怖いくせに、学園の外では誰とも関わり合いになりたくない、と望んでいる。意気地無しの天邪鬼だ。
「……知ってますよぉ」
 答えを知っているのに、手を上げられない臆病な子どものように、わたしは先輩の顔を見れなかった。
 手に入れれば入れるほど、失う時が恐ろしい。あなたの訃報を聞きたくはないと、誰だって思っていることをいつか口に出してしまいそうで、わたしは相変わらず愚か者だ。

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