その日、五年生は試験を控えていた。
 鍛錬場を貸し切り、演芸場へと仕上げたその場所には、五年生の男女が各々衣装を纏い姿勢を正して揃っている。武術の試験とはまた異なる緊張感に襲われているのか、生徒たちは真面目な顔をして舞台の上を見つめている。
 今回の試験内容は「能」であった。
 各々が好みの演目を選択して教師陣の前で演じて見せる。芸能の授業は三年生から始まるが、実際に披露し、同輩たちの評価を仰ぐのは今回が初めてであった。
 各々が練習に励んだ成果を発表する場。と言えば聞こえはいいが、評価者は教員の他、観客となった同輩たちだ。試験の結果は観客の評価によって決まる。
 忍びは情報を得るために何処にでも忍び込めなくてはならない。そのために、高い教養と演技力が必要とされた。
 自分を客観視するためにはまず他者の評価を参考にするのが一番である。それがどれだけ厳しいものであったとしても、だ。

***

 自分の出番を終え、舞台の下で演技を見ていた瑠璃は思わず唇を噛みしめていた。掌は爪が食い込んで白くなっている。
 悔しさよりも恥ずかしさが溢れて、言葉もでてこない。
 今となれば愚かだ。公言しなかっただけましかもしれないが、牡丹が舞台に上がるまでは、自分が一番だという自信を持っていた。
 学園に入ってから、彼女が唯一、人並みに手ごたえを感じられたのが芸能の授業であった。雅楽の演奏も、能狂言の演目も、瑠璃を夢中にさせた。自分以外の人間を演じる、という部分が彼女を惹きつけたのかもしれない。
 ーー結局、自分以外の人間を演じることで満足してしまっていたのだ。自分が嫌いだったから、自分以外の役柄になりきろうとしていた。
 
 瑠璃に衝撃を与えたのは、牡丹の選んだ演目「船弁慶」であった。誰もが知る義経と弁慶、静御前が登場する演目は、多く知られて居る分、厳しい目で見られやすい。
しかし、彼等はそれすらも逆手に取った。少年美の粋を集めたような兵助が演じる義経の躍動感、柔軟な勘右衛門が演じる弁慶の力強さ。それらを食ってしまうほどに、牡丹の演じた静御前の存在感が圧倒的であったのだ。
 美しい白拍子は義経との別れを惜しみ、舞を踊る。愛する人の無事を祈り、優美ながらも切なさと激しさを混在させた感情を見事に演じきったその姿は見事と言う他ない。表情、間の取り方。情緒溢れる台詞の発し方に、教師までもが息を飲んだ。
 静御前の優美さと弁慶の力強さが対照的なこの演目を選んだのは兵助だろう、と瑠璃の隣で三郎が呟いた。変装の達人である三郎もまた、芸能分野を得意としていた。その彼もが唇を噛んで「やられたな」と言うのだ。
 三郎と瑠璃が選んだ演目は「山姥」であった。山奥で出会う異形の山姥と華やかな遊女の対比が特徴的な物語を、二人は演じきったつもりでいた。けれども終わってみればどうだ、周りの評価が直結するという厳しさを、瑠璃は理解できていなかった。
評価は教師の口から発表されたが、言うまでもない、と三郎も瑠璃も敗北を確信していた。
 普段の授業なら、こんなに気落ちすることもなかった。瑠璃は、牡丹が能に興味が無いと思っていたのだ。彼女は褒め上手で、瑠璃の演技を見てはいつも手放しで褒めてくれていた。
 最終結果は聞かずともわかっていた。講評が終わり、舞台の片付けが終わるのを待ち構えていたように、瑠璃はそっと鍛錬場から離れた。

***

 三年の頃に、二つ上のくのたまの先輩に「腐るな」と言われたことがあった。当時は理解できなかった言葉が、今なら痛いほどに分かる。瑠璃と牡丹の学年にくのたまは二人きりであった。
 牡丹は優秀だ。それは血の滲むような努力によって培われたものではあるが、学園の誰もが知る「天才・鉢屋三郎」をして「敵わない」と言わせるほどの才覚だ。瑠璃が牡丹の隣に並べたことなど、一度もないに等しかった。
 瑠璃にとって今回は、牡丹の隣に立つチャンスであったのだ。
 結局、失敗に終わってしまったけれど。

「……はあ」
「瑠璃?」
「うわ、びっくりした! ……兵助、お疲れ様。さっきの演技凄かったよ」
 深々と溜息を付いていれば背後から声を掛けられた。厨房の裏の木の下で膝を抱えていた瑠璃に話しかけた兵助は、化粧を落としたばかりで髪を濡らしていた。
「二人の力だよ。俺は演技が得意じゃないから」
「謙遜! わたしが一番だったら、三郎よりも自分の演技が優れてた、って思っちゃうよ」
 口を開けば涙が込み上げそうになって、瑠璃は上を向いた。そういや三郎に礼を言っていない。彼の演技は本当に素晴らしかった。妖艶で華やかな遊女は彼でなくては務まらなかっただろう。それじゃあ、山姥役はどうだ。
「瑠璃は随分難しい役を選んだな。勘右衛門が感心していた」
「……兵助、いやなこと、聞いても良い?」
「どうぞ」
 兵助は瑠璃の言葉に目を丸くして、それから彼女の隣に腰かけた。
 瑠璃は言葉を選んでいるようで、口を開いたり閉じたりを繰り返したあとに、諦めたように小さな声で言った。
「どうしたら、腐らないで頑張り続けられるの」
 瑠璃が何に悩んでいるか、兵助はすぐに見当がついた。兵助が入学してすぐにぶつかった壁に、彼女は今直面しているのだろう。自分だって、未だ乗り越えてやしない壁だ。彼女が悩む気持ちは理解できた。
「兵助は、秀才って呼ばれているでしょ。すごい努力家で、わたしも尊敬してる。でも、三郎に勝てたこと、ある? 牡丹に勝てたこと、ある?」
 膝を抱えて俯いた瑠璃は、泣いているのだろう。
「……俺の努力なんて、あいつらの努力の前じゃ無いようなものだ。誰もが羨む才能を持っているのに、他の奴らが真似できないくらい必死に努力する。俺が追い付きたいのはそんな奴等だから、腐っている暇がない、っていうのが本音かな。でも、嫌になるときもあるさ」
「兵助でも、あるんだ」
「そりゃあね。誰だって、同輩に負けっぱなしじゃ、悔しいだろ」

 兵助は特に、負けん気が強い。端正な見た目に反して彼は五年生の中でも気短な方であった。
 彼は前を向いたまま言葉を続けた。
「体術で三郎に負けるたび、座学で牡丹に抜かれるたび、自分の不甲斐なさに腹が立つ。それでも、俺はあいつらの友人でありたいんだ。負い目を感じながらあいつらの隣にいるなんて御免だから、努力するんだ。無様だと笑われても、自分のためにやっていることだから、続けられる」
「……兵助は、やっぱり凄いよ」
「不器用で、諦めが悪いだけさ」
 一年生の頃から弛まぬ努力を続けて来たからこそ、彼は優秀揃いのい組の中でも秀才と呼ばれるようになった。兵助の手裏剣の正確さは三郎に次ぐし、寸鉄使いとしての身の軽さは学年一だろう。
 瑠璃が鼻水を啜った音を聴いて、兵助は彼女が話し出すまで待つことにした。
 木陰に差し込む日差しは眩しく、二人の影を色濃く地面に映した。蝉の鳴き声が煩くて、先ほどの舞台の静寂と対照的に感じる。
 頑張れ、と兵助は瑠璃に声を掛けてやりたかった。
 先程の山姥だって評価は悪くはなかった。演技だって、良くやっていたと思う。それでも、感想を上手く伝えようとすると言葉が出てこなかった。
 彼女が前を向く手伝いができたならいいのに。牡丹が自分の背中を押してくれたように、励まして、手を引いて、走れるように。
「……がんばれ、瑠璃」
 本当、呆れるくらいに口下手だ。それでも人の良い瑠璃は勢いよく顔を上げて、へらりと赤い目で笑ってみせた。
「がんばる! へへ、情けないところ見せちゃった。内緒で頼むね」
 軽やかに立ち上がる瑠璃の向こうで、八左ヱ門が手を振っていた。兵助と瑠璃が手を振りかえせば、八左ヱ門はこちらへ走り寄ってくる。
「おぉい、瑠璃、探してたんだぜ」
「わたし?」
 額に汗を浮かべて人の良さそうな笑みを浮かべた八左ヱ門は、瑠璃の肩を叩いた。
「さっきの授業の感想! 俺、つい見惚れちゃってさ、時間内に感想書ききれなかったんだ。だから直接伝えようと思って。「山姥」すげえ面白かったよ。お前が演技が得意なのは知ってたけど、あんな迫力ある演技もできんだなあ。最後の遊女を諭す場面なんか夢中になっちまった! お疲れ様、今度俺にも演技指導してくれよ」
 捲したてる八左ヱ門の言葉を聞きながら、瑠璃の顔はどんどん歪んでいく。
 八左ヱ門の言葉はやさしく、あたたかい。
 はらはらと彼女の頬に涙が伝って、泣き笑いのような表情で瑠璃は礼を言った。
 「泣くなよぉ」と八左ヱ門が子供をあやすように頭を撫でて、二人は食堂の方へと歩いていった。
 八左ヱ門がちらりと振り返り、兵助の方を見たから、追い払うように手を振った。

「………兵助くん、ほんと口下手ですねえ」
「牡丹。いつから居た?」
 ひとり残された兵助の上から鈴の鳴るような声が落ちてきた。見上げれば長い髪を垂らした牡丹が枝に腰掛けている。気配を完全に消していたのだろう。
「牡丹の恋人でありたい、あたりから真剣に聞いてました」
「ずっといたんだな」
 ふふふ、と牡丹が笑って、音もなく兵助の隣に降り立った。絹のように艶やかな黒髪が遅れて彼女の背中に落ちた。
「本当は、華を持たせるつもりでいただろう」
「まあ、能は本業じゃありませんしね。三郎くんたちが余りにも力を入れて来たので、少しムキになってしまいました」
  凄いでしょう、と自分の友人と幼馴染のことを自慢気に話す牡丹もまた、どこまでも負けず嫌いなのだ。
「……すぐに」
「え?」
「俺もお前の隣に並ぶから。悔しがる顔を見るのも、そう遠くないだろう」
「私、兵助くんのそういうところ、好きですよ」
 花のように笑う牡丹には、まだ敵わない。
 腐らないよ、と兵助は先程の瑠璃に伝えてやれなかった言葉を胸のうちで呟いた。
 だって俺は真っ直ぐに前だけを向く彼女を好いているから。だから、自分が揺らぐわけにはいかないのだ。
 自分が勝手に決めたことではあるけれど、友人たちの前でくらいは前だけを向いていたいのだ。
 悔し涙で袖を濡らしたことも一度じゃない、それが、自分だけじゃないことも知っている。
 牡丹も、三郎もそうだ。自分たちが背中を追う彼らの努力や涙を知っているから、腐ってなんかいられない。
 敗北の味を知って、なお、赤い目を隠して無理やり仰ぎ見る空は嫌になる程青い。
「俺も、牡丹が好きだよ」

 泣きそうになるくらい、焦がれているんだ。
 口に出せば、舞台上の台詞のようだと彼女は笑うだろうか。
 笑い飛ばしてくれたらいい。
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