・萩 間 時 宗 (はぎま ときむね)
 萩間城の城主。

・猪 目 翠 昌 (いのめ ずいしょう)
 萩間城の忍頭。

・萩 間 蒼 玄 (はぎま そうげん)
 時宗の息子。萩間城の跡取り。
 幼名は青丸(あおまる)

・月雲(ツクモ)
 萩間城の戦の相手。加虐趣味の殿がいる。

***

0

 あの日、確かに手は差し伸べられていた。
 けれどもわたしはあまりに子供で、差し伸べられていた手を掴むことができなかった。
 ーーわたしじゃなくても、いいのだ。
 わたしのために空けられた席には、代わりが沢山居るような気がした。他の席は、彼らのために作られたかのような場所であった。あれは、彼らなくては成り立たない。
 わたしの席は、名前を墨塗りで潰してしまえば、誰だって座れそうだと、思った。
 彼らが好きだった。愛していた。自分にとっての掛け替えのない居場所であった。……だからこそ、対等でいたかった。彼らがわたしを大切にしてくれているのはわかっていた。でも、手を取らなかった。取れなかった。
 ーー結局は、ただの意地だったのかもしれない。それでも、後悔はしていないのだ。


***

 
 今年の夏は猛暑であった。咽返るようような蒸し暑さのなか、喧しく蝉の鳴き声が響き渡る。文月の半ばだというのに、湿気は依然として留まっていた。
 ここ、萩間城は百年の歴史を持つ城である。暑さを凌ぐために簾を縁側に掛け、日差しを防いでいるものの、それは気休めでしかなく、城内の人々は皆一様に噴き出す汗を手の甲で拭っている。
 足音を鳴らしながら家臣たちが城主のもとへと続々と集まってくる。位の高い順から腰を下ろしていく。縁側に腰掛けていた領主は野鳥に餌を撒いて、家臣たちが揃ってからゆっくりと上座に座った。
 城主は家臣の顔をゆっくりと見渡す。目を細めて、それから短く息を吐き出した。
「ーーお前たち、今まで、儂に良く仕えてくれた。この戦乱の世だ、珍しくもないが……。これから、戦になる。相手は月雲城だ。はっきり言って、うちの城に勝ち目は無い」
「殿、戦う前からはっきり言わないで下さいよ……」
 壮年の城主がのんびりした口調で告げると、そばに仕えていた男が額を抑えた。家臣たちが二人の掛け合いを見て思わず吹き出し、笑い声があがる。
「勝ち目はないが、ただの負け戦にする気もない」
 城主の名は萩間時宗。年は四十半端、白髪の混じりはじめた髪を撫で付けて、冗談を飛ばす様はまだ壮健の様子だ。彼こそが代々続く萩間城の城主であった。
 側に控えているのは時宗の古くからの友人であり、この城の忍軍を率いる忍頭、猪目翠昌である。猛禽のような鋭い目つきが特徴的な壮年の男だが、時宗に声をかける様子は柔らかく、二人の関係性を感じさせた。
「殿、月雲は大量の武器を仕入れ、戦の準備を前々から進めていた。更に今回は凄腕の忍びを雇ったらしい」
「この間の若造たちじゃないでしょうね」
 説明を続ける時宗に、控えていた忍びが声をあげた。その言葉に笑いが起きる。忍術学園の授業の一環で忍び込んできた若者たちを追い返したのは記憶に新しかった。
 この時代、学園と繋がりを持っているというのは、良質の忍者を得る手段に繋がるために有利とされた。萩間城は学園と友好的な関係を築いてはいたが、莫大な寄付をし続ける月雲城には敵わない。
「相手は若いがプロの忍びだ。最近名を馳せている、「蓮華」とかいう連中らしい」


***

「……瑠璃、お前今回は降りても良いぞ」
「えぇ? 降りて、何処行けというんです」
「お前は萩間の忍軍の外でもやっていける。そもそも忍びよりも若の守役が仕事だっただろう」
 時宗から開戦を告げられたあと、ひとりの女性が縁側で脚をぶらつかせていた。
 翠昌に声を掛けられると、黄粉飴を舐めていた女性は振り向いて顔を顰めた。纏っている萌黄色の着物と小間物は季節によく合わせられていて、結い上げた髪と澄んだ瞳からは品の良さを感じさせた。
 翠昌は女性の名前を呼ぶ。瑠璃、と呼ばれた彼女は翠昌の部下であり、萩間城の忍軍に所属する忍びのひとりであった。
「若ももう十五になりますから、いつまでもお守りは必要ないのは理解できますけど、わたしはお側にいるつもりですよ」
「戦の内容よりも、今回の相手だ。あいつら、お前の旧知の仲じゃねえのか」
 翠昌は言い難そうに告げて頭をかいた。瑠璃はこの気の良い忍頭に何度も救われていた。翠昌だけではない、自分を取り上げてくれた時宗にも、側においてくれたその息子にも、瑠璃は感謝してもしきれない程の恩を感じている。
「そうですね、学生時代の友人です。でも、関係ありません。わたしは学園の卒業生ですけれど、いまは萩間の忍びです。その自分が誇りです。だから、彼らが敵となるなら、戦うだけなんです」
「……勝てる相手か?」
「いや全然……。正直あの六人が手を組んだら翠昌さんでも怪しいですよ」
「おいおい」
 しっかりしてくれや、と翠昌は肩を落としている瑠璃の隣に腰かけた。
 翠昌の率いる忍軍は少数だが古くから萩間に仕える者たちである。信頼できる腕利き揃いではあるが、学園出身の忍者は言わば卒業した時点で精鋭なのだ。幅広い知識と実戦経験を身につけて忍者として殆ど即戦力になる状態で送り出されて来る。
 だからこそ、自分の忍軍に学園出身のくのいちが来ると聞いた時は驚いた。
 ーー正直、この城は落ち目であった。
 周りに力を持った城が固まり、どいつもこいつも野心のある城主ばかりであった。どこかに攻め入ろうと考えた時、起点となるのがこの萩間城だ。先々代の頃から防衛のためのからくりを仕込み、立地も丁度山に囲まれているため攻められにくい位置にある。斯様な城を味方にするか、それとも落として自分の陣地にしてしまうかーー。そう考えた時に、現城主の萩間時宗の実直な性格は好まれなかった。
 今は戦乱の世、いつかは攻め入られるだろうことを、萩間の人間たちは理解していた。そのための準備を怠ったことはないし、現に戦が始まったとしても、対応できるだけの備えはある。
 ただ、相手が悪い。
 月雲はこの周辺では知らぬものの無い力のある城であった。城主は領民思いで時流を掴むのが上手い、と言われる若い男であったが、それが表の顔であり、金儲けのためならば手段を択ばぬ人間であることは近隣の城には知り渡っていた。
 月雲に目を付けられ、しかも忍び集団まで相手になるとなれば、小国である萩間には成すすべがない。近隣の城に助力を願おうとも、誰もが月雲を敵に回すことの恐ろしさを身をもって知っている。
 ーー古くからの家臣たちは殿と共に討ち死にすることも吝かでない。しかし、若や瑠璃のような若い奴等を散らすのは、あまりに忍びない。
 翠昌は目を逸らす部下の横顔を眺めて、彼女が来た日のことを思い出した。
 
 瑠璃が学園の最高学年であったころ、この荻間城から出した依頼を受けにきたことがあった。隣国の城に潜入し、情報を取ってきてほしいという内容の任務を、あっさりと成功させて微笑んでいたのをよく覚えている。
 その時の対応が非常に感じが良かったものだから、時宗はすっかり彼女を気に入ってしまい、忍軍を募集する際に、忍術学園にも声を掛けたのであった。向こうも萩間の印象が良かったのか、募集を見て態々足を運んで来たものだから、とんとん拍子に話が進んだ。
 「得意はあるか」と時宗が問うと、瑠璃は少し考えて、照れくさそうに「筝の演奏が得意だ」と答えた。それから、詩を吟じたり、能を演じることも得意だと続けて、自分から、あまり忍びらしくはない、と念を押すように告げた。瑠璃はよく人を見ているから、声を掛けられた時点で時宗が城に彼女を呼びたいことはわかっていたのだろう。
 忍頭として翠昌は時宗と共に瑠璃の話を聞いていたが、彼女が忍びとして優秀であることは前回の任務の時点で理解できていた。くのいちとして忍軍に入れるとなれば歓迎するつもりでいたし、それ以外の役割を当てるのならば、時宗に任せようと考えていた。
 時宗は瑠璃の言葉を聞いて、大きく頷くと突然席を立って、自分の息子を連れて来た。齢十になろうという少年が、丸い目で瑠璃を見据えた。
「こいつは儂の倅だ。瑠璃、お前には忍びとしては勿論、こいつの教師として側についてやって欲しい。頼めるか?」
「た、大役ではないですか! どこの馬の骨ともわからない小娘に、斯様な役目をお任せになって宜しいのですか?」
「自分で言うのか」
「わはは! 勿論、考える時間を与えるが、お前さえ良ければ、うちに来てほしい」
 あの時、お前が欲しい、と言われた瑠璃の目が、ぐらりと揺らいだ気がした。
 時宗は若くして奥方を無くし、一人息子の蒼玄を大切に育ててきた。年の近い姉のような存在を傍に置いてやりたいと考えていたのだろう。
 給金の話もまだだというのに、瑠璃はその場で深々と頭を下げた。
「不束者ですが、萩間様のもとで働かせていただきたいです」
 気分の良いほどに即断された回答に、時宗は勿論、息子の蒼玄までが思わず笑ってしまう。
 あれから、三年が経った。


prev next
back