「房中術の実習があるらしいですね」
 隣の席で鯵の開きを摘む友人ーー楪牡丹の口から放たれた言葉に、わたしは平静を装おおうと箸を握る右手に力を込めた。
 冬休み中の学園は多くの生徒が帰省する事もあり、とんと静かだ。普段ならば下級生の笑い声が聞こえてくる広い食堂も、見回せば自分と牡丹、そのほかは卒業間近の6年生が何人かしか居なかった。
 外は薄く雪が積もっている。着込んだ綿入が音を吸ってくれたりしないだろうか。牡丹がわざわざ矢羽根ではなく声に出して伝えたということは、そう驚くような内容ではないという事だ。
 それでもわたしは気が気ではない。
 房中術? ボウチュウジュツ、と声に出さずに脳内で言葉を反芻するが、頭に浮かんだのは教科書通りの回答でしかない。『房事すなわち性生活における技法』である。
「……え? マジ?」
 そのまま言葉に出してしまった。
「シナ先生と学園長の決定事項ですって」
「えぇ……生徒のことをもっと考えてほしいわ」
「1年は組みたいなこと言わないでくださいよ」
 綺麗な所作で味噌汁を飲み干した牡丹は、わたしの手元を見つめた。
「狼狽え方まで似せて。芸が細かいんですから」
 視線を下ろせばわたしは米ばかりを食べて、おばちゃんの用意した美味しい御菜には一切手をつけていなかった。混乱しすぎて味がしないのかと思ったけれど、そりゃそうだ。思わず笑ってしまう。
「早く食べて、哀れなお相手たちに一泡ふかす作戦を立てましょう」
 牡丹の白い肌に紅を刺したように紅潮する頬は、羞恥からではないだろう。いやはや、恐ろしい。わたしは親しい友人たちーーこの実習の相手方となる忍たまたちのことを考えた。
 牡丹の相手になる男は当たりなのか、ハズレなのか。身も心も枯れ果てたりはしないだろうが、最高学年になる前に女性不信になってしまったら可哀想だ。それか、彼女のことを忘れなくなるかも。
 どちらにしろ、夢を見せるも地獄を見せるも彼女に取ってはお手の物なのだ。


***


「えっ捕まえるとこからが実習なの!?」
 昼御飯を食べ終えて、くのたまが鍛錬に使う裏山に行くことにした。授業のない休暇中とはいえ、実家に帰らない生徒たちは思い思いに鍛錬に励んでいる。
 下級生の子たちは良家の子女も多い、休みの真っ只中に学園にいるくのたまはわたしと牡丹くらいのものだった。
「瑠璃ちゃん声が大きいです」
<捕まえるとこからが実習なの!?>
「そこまではしなくていいですけど」
 わざわざ矢羽根を使って再度問えば、堪えきれずに笑った牡丹が脇腹を拳骨で突いてきた。結構痛え。
 木の上に登り、枝に腰掛けると漸く牡丹が口を開く。
「下級生の来ない休み中に実施するので、相手も運良く帰省しなかった生徒に限られるようです。
内容としては、くのたまは逃げ切るか、知らされてる情報を言わなければ合格。相手はくのたまを捕まえて、怪我をさせずに情報を引き出せば勝ち。
 私達に相手は知らされないから、開始から逃げおおせればそれで良いですが、まあ房中術の判定としてはどうなるかは不安なところですね」
「難易度高くない? 相手3年生とかなら勝てるかも」
「3年相手に房中術やりたいんですか?」
「駄目か……、わたし自信ないぞこれ」
「そんなに心配することないと思いますよ。最終学年になる前の、休暇中の、実習なわけですし」
 鈴の鳴るような声で区切られた言葉の意味を、牡丹はとうに理解しているのだろう。
 言うなればこれは5年生に与えられた「猶予」のようなものだった。この冬休みが終われば、いよいよ6年生は卒業となり、自分たちが最高学年となるのだ。最高学年ともなれば、実習の難度も段違いに上がる。下級生を率いての任務も増え、多くの命を預かることもある。
 5年の冬休み。学園から離れて生家に戻り、心を決める者が多かった。本当に、忍者を目指すのか。
 忍びになるために入った忍術学園とはいえ、入学したての1年坊とは見方から何から一変している。音もなく匂いもなく知名なく勇名もなしと言われる忍びの道に踏み入れるのは、相当の覚悟がいる。
 ーーが、つまり今学園に残っている者たちは、既に進学の意思が固まっていると言うことである。
「ーーもしかしたら、いい思い出になるかもしれませんよ?」
 呑気なことを言う牡丹に、思わず苦笑する。
 くのいちに、なるなら。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 なんだってしなくちゃならない。自分が選んだ道だ。あと1年、この学園で学べる知識は全て吸収していかなければ乱世では生き残ってはいけないだろう。
「そうだよね、思わぬ才能を見せるかもしれないし! とりあえず頑張ろ! あ、そういや実習っていつやるの? 来週?」
「明日の夜です」
「嘘でしょ!?」

***

 ついにこの日がやってきた。いや、昨日の今日なんだけれども。
 わたしは律儀に湯浴みをして、そのあとに髪を結い直して制服に着替えた。くのたまの桃色の制服は夜に目立つから、学年が上がるにつれて少しずつ濃く、暗い色に染め上げていく。
 慌てて調合した毒や、これまた慌てて用意した暗器を制服の隠しにしまい込んで、くのいち教室の前に集まる。
「……憂鬱、心の準備する時間もなかったよ!」
「二人とも、準備は良いわね。昨日のうちにいい人のところでも行ってきた?」
 軽口を叩いていたわたしにシナ先生が若い姿で笑いかける。
「そ、そんな時間無いですよ!」
「あら、当日にするのはやめてあげたのに」
 茶目っ気たっぷりにウインクまでしてくる姿はゾッとするほど美しいが、今は物の怪のようにも見える。
 ああでもそうか、誰が相手かわからないんだから。学園に好いた人がいたなら、先に致してくれと頼むのもありだったのか。ーー後の祭り!
 終わったことは仕方がない、あとは野となれ山となれ。わたしは出来の良い生徒ではなかったが、思い切りと切り替えの早さには自信があった。何も考えてないとも言う。
 逃げ切ればいいのだ、逃げきれば。
 幸い学園の敷地は広く、くのいちには一刻の時間が与えられている。罠を仕掛けるなり幻術を仕込むなり、命を奪わなければ制限はない。
「ご武運を……」
「瑠璃ちゃんこそ」
 柔らかく微笑む親友に手を振って、地面を蹴る。彼女はどこへ隠れるのだろう。答え合わせは明日の朝だ。わたしは裏山のもう一つ先へと向かった。

***

 ……寒い。
 吐き出した息が白い。裏裏山まで駆けてすぐに自分が待機しようと決めていた木の周りに罠を仕掛けた。
 大掛かりなものは用意に時間がかかるから、簡素に鳴子を仕掛けて、それから痺れ薬を焚いた。幸い風のない日である。ただし冷え込みがキツい、自然と呼吸が浅くなるから薬の効力はあまり期待できなさそうだ。
 頭巾で鼻まで覆い、呼吸を整える。これでもかと強力な薬を調合してみた。伊作先輩ならば平気で乗り込んで来そうだが、今回相手役になるのは同学年の5年生だ。
 あの天才、鉢屋三郎だって無策では乗り越えられないはずだ。
 (……空中戦になるのも、やだけど)
 下には自分で撒いた薬が充満している、ともすれば逃走経路は木の上に限られてしまう。月明かりに照らされた夜の森はよく目を凝らさなければ足下を簡単にすくわれるだろう。
「おいで……黒蜜、甘露」
 ひゅるる、と指笛を鳴らせば木々の間から二羽の鴉が出てきて肩に止まった。頬に擦り寄ってくる懐っこい二羽は立派な忍鳥であった。
「敵が近づいて来たら教えてね、所詮実習だから、怪我しないように」
 艶やかな嘴にくちづければ、二羽は人のように頷いて飛び立った。さて、そろそろ一刻が経つ。

**×

「……くしゅん!」
 寒い!!
 雪こそ降ってはいないものの、冷え込んだ外気に晒されて手足はすっかり冷え切ってしまっていた。
 このまま朝を迎えて刻限を迎えられれば幸運だと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 (……誰が相手なんだろ。残ってた5年生、兵助と雷蔵は見かけたけど。あとはちらほら出たり入ったりだったから……)
 できれば、親交のある相手だといい。とはいえわたしの友人たちは誰もかれもが5年生の中でも群を抜いて優秀な忍びのたまごたちであったから、彼らが相手だと手も足も出ずに捕まってしまうだろう。
 (………さむい)
 思考も固まりかけていた時、背後で羽音が聞こえた。
 柔らかな羽音は甘露のものだろう。
 漸くお出ましか、従順な鴉を止まらせるため腕を上げれば、甘露は着地する前にけたたましい声で鳴きだしたではないか。
「え!?」
 まるで、敵の居場所を主人に知らせるみたいに。
 振り払えば我に返ったように甘露は乱暴に羽根をばたつかせて木々の奥へと飛んで行った。
 まさか、雛の頃から大事に育ててきた鴉だ。そんじょそこらの相手に支配権を奪われるような育て方はしていないはずだった。
 がさり、と背後で枝を踏みしめる音が聴こえて振り向く。反射的に後ろに飛び退いて苦無を構えた。
 暗闇から出てきたおとこは人の良さそうな笑みすら浮かべている。その肩にはもう1羽のわたしの愛鳥を侍らせて。
「賢いなあ、おまえの鴉。すぐに主人を見つけてくれた」
「……こ、この泥棒猫!」
 まさか。わたしと牡丹の下調べでは里帰りをしていたはずではなかったか。
 生物委員会委員長代理、竹谷八左ヱ門。彼がどうやらわたしのお相手であった。
 朗らかに笑って後輩の手を引く印象が強いが、彼は見た目通りに武闘派だ。侍大将を目指すことも叶っただろう立派な体躯から繰り出される体術はおんなの骨など簡単に砕いてしまうだろうし、投擲も殴打にも使用できる微塵を得意武器としているのも厄介だ。それに加えて、学校一の虫獣遁の使い手でもある。彼がいると知っていれば、可愛い鴉など連れてこなかった。

「梟の飴煎も連れて来たんだな」
「あんた、わたしの鳥さんたちに手の内全部喋らせたでしょ……」
「はは、中々口を割らなかった」

 それは嘘だろう。わたしの鳥たちは生物委員会の卵を譲ってもらった子たちばかりだ。八左ヱ門が声をかければ、陥落してしまうことは予想できていた。
「わたしの鳥さんたちを誑かして! この色男」
 棒手裏剣を投げる。容易く躱されて彼の背後の木々に突き刺さる音が滑稽だ。彼はわたし相手に距離を取っても意味がないことを知っている。背後に回り込まれる前に、と懐から鳥の子を取り出して点火。火薬の量は微量にしてもらっている。
 どぉん、と大きな音が鳴り、煙が捲き上る。隙ができてくれれば良いのだけれど。姿勢を低くして逃げ道を確保しようとすると、正面から鋭い蹴りが煙を裂いた。
「逃したら面倒だからな、ここで捕まえさせてもらう」
「わたしは獣じゃないよ……、逃しても悪さもしない」
 色素の薄い目が薄明かりの下でぎらぎらと光る。八左ヱ門の方が動物みたいだ。手に握られた微塵に警戒する素振りを見せて、握っていた苦無を彼に向かって投げた。
「…っと、」
 躱される、追い詰めるように、八左ヱ門の逃げた方向に向けて手裏剣を投げていく。飛び道具にはべたべたに薬を塗ってある。
 毒虫大好きな生物委員には効果が薄いだろうけれど、この薬は保険委員会の上級生しか調合を知らないとっておきだ。擦れば、それだけで勝機がある。
「ちょこまか、しないでよ!」
「無理言うな!」
 だん、と八左ヱ門が枝を踏みつけて飛んだ。鎖の音、忍び刀を抜いて、微塵の鎖を巻き取る。力比べをする気は無いから、忍び刀からはすぐに手を離す。
 八左ヱ門が鎖を引いた瞬間に懐に飛び込んで、近づいた彼の人中に向けて肘を振り抜く。
 微かに手応え、それでも擦り傷。八左ヱ門が僅かに出血した鼻を拭った。
「…てぇ、くのいちと手合わせなんてする機会ねえから、新鮮だ」
 戦い方は兵助に似てるかもなあ、なんて呑気な口調に遊ばれてるような気がして、気配のする方へ手裏剣を打つ。枚数は有限だ。手応えは無い。
 八左ヱ門の気配を感じて振り向けば、そこに彼はいない。
「あ」
 一瞬の余所見が命取りだ。腹部に衝撃、胃に当てずに意識を飛ばすすべを身につけていらっしゃる。肺の中の空気を押し出されて、わたしは気を失った。

・・・
つづかない

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