ーーー夢を見た。
 わたしは追われている。制服のまま必死に街中を走るその背後から、身体の表面を岩で覆った巨大なヴィランが手を伸ばしてくる。わたしは息を切らしながら逃げている。
 伸ばされた手が、私の背中に届きそうになる。
 ああ、もう駄目だ、と目を瞑った瞬間、わたしの身体はふわりと宙に浮く。自分の膝が見える。背中に力強い腕を感じて、恐る恐る顔を上げれば、そこにはフードを被ったヒーローの姿があった。ゴーグルをかけているけれど、彼はしっかりとわたしを見つめている。わたしは潤んだ瞳で彼を見つめ返す。そう、今だけはわたしと彼だけの時間………。
「………って、またこれか!」
 目を開けるよりも先に突っ込みが口をついて出てきた。
 あまりに恥ずかしい夢を見たせいで顔が熱い。壁掛け時計を見れば普段の起床時間よりも30分早かった。このまま二度寝をする気は無かった。夢の続きを見てしまったら困る。
 半身を勢いよく起こしてそのままベッドから出た。
(いやもう、今月に入って3回目だ……。環くんにお姫様抱っこされる夢……)
 歯を磨きながら朝から火照る自分の顔を見つめる。心なしか、最近まつ毛が伸びたような気がする。気のせいかもしれない。
(……それにしても格好良かった。うん。すごい顔近かったな……)
「―――ぬん!!」
 ばちん!!と両手で頬を叩く。我ながら雑念が凄い。
 気を抜くとすぐに環くんに抱き上げられていた夢の続きを考えてしまうのだ。
 それもこれも、先月の合同演習が良くなかった。復学したてのわたしを気にして、環くんが戦闘用ロボットから助けてくれたのだ。夢の中と同じように、わたしを抱えて。
「はあ……」
 環くんは雄英の中でも限りなくプロに近いヒーローだ。だから、身体が勝手に動いてしまったのだろう。そこに、特別な感情などは無い。そう思っていても助けられた方は平常心でいることは中々難しかった。
「かっこい……ってあーーもう……」
 あれから一月が経つけれど、わたしは最近ずっとこの調子だった。
 登校するまでに平常心を保とうと時間割を思い出す。今日はA組と合同の授業が無いはずだ。その事実だけがわたしを慰めた。



 登校してしまえば、授業の忙しなさに浮ついた感情は吹き飛ばされてしまう。なにせわたしは半年間の空白期間を埋めなければならないのだ。休み時間も無駄にできない。教科書とノートを抱えて職員室へ向かった。雄英の先生方はわたしのように質問に来る生徒を歓迎してくれる。
「先生、さっきの英語なんですけど……」
「おっ、匙測。ちょっと待ってよゥ。先客がいるけどすぐ片付けっから」
 プレゼント・マイクの英語の授業は3年になるとオールイングリッシュで行われる。ネイティブ顔負けの発音は容赦なしのスピードで流れていくから、付いていくのがやっとだ。この地獄のオールイングリッシュが、わたしは苦手だった。単純明快な説明のはずなのに、説明が英語になっただけで何が何だか混乱してしまうのだ。
 先客、と言われた男子生徒が立ちあがった。わたしはその後姿を見て思わず飛び上がりそうになる。平常心、平常心。
「ン? なんだ、もういいのか? お前オレに会いたかっただけじゃねーだろな!」
「あ、いえ……ありがとうございました」
 マイクの言う先客というのは環くんだった。
 彼は真面目な生徒で、成績も良い。こうして休み時間に分からない点を聞きにくるところが優等生である所以だろうなあ、なんて呑気に思う。
 恐らく、彼はわたしの存在に気づいて質問を切り上げたのだろう。すれ違いざまに「ごめんね」と言えば小さく会釈が返ってきた。
「……天喰あいつ、ああいうとこあるよな」
 彼の代わりに椅子に座ると、小声でマイクが囁いた。
 結局、休み時間いっぱいを使って文法を教わってしまった。こうやって日本語で聞けば理解できるのに、と言えばマイクが笑った。
「予習復習を日本語でやって、本番をオレの美声聴いてりゃ強制的に頭に入るって」
 やっぱり、予習復習も欠かせないのだ。本当に、1日24時間じゃ足りない。
 


「頑張ってるね、すくい」
 放課後、英語の参考書を睨みつけていると頭上から青い目が覗き込んできた。
「全然頑張れてないの。身体もなまっちゃってダメダメだ……」
 机の上に突っ伏して言えば、ミリオが「なんか手伝えることあったらなんでも言ってよ」とわたしの肩を叩いた。
「なんでも……」
 ミリオはとびきり明るいわたしの友人だ。尊敬する上司がユーモアを好むせいか、ここ一年で一発ギャグの技術も恐ろしい精度に磨き抜かれていた。
「なんでも!」
 親指を立ててびしっとポーズを決めるミリオを前に、わたしは彼に聞きたいことを考える。ミリオは成績も良い。努力家で真面目な性格なのだ。振り落とされないようにしがみ付いていた一年生の頃とは違って、今やこのクラスを牽引するほどの実力者となった。
「……学校と全く関係ないこと聞いても良い?」
「いいよ!! スリーサイズとかでも答えるぜ!!」
 幸い、この教室にはわたしとミリオしかいない。
 わたしは何を血迷ってか、最近気になって仕方の無いことをこっそり聞くことにした。
「環くんって彼女いるのかな」
「…………」
 しん。
 突然ミリオから表情が消えた。口を一文字に結んで、彼はロボットのように固まる。
「ミリオ……?」
「デーデッ、デーデッ……デーデーデーデーデデーデー」
 ジュークボックスになってしまった。
「新世界……」
「天喰環に彼女がいるか。果たして、答えは…………」
「ごくり……」
 ミリオは解答を溜めに溜める。ついついわたしも唾を飲み込む音を口で言ってしまう。
 唇がゆっくりと持ち上がる。噛み締めるように、勿体ぶるように、彼は言う。
「いなーーーい!!! これは本人から聞いた情報だから確かだよね!!」
「な、なんて力強いの……!! 流石幼馴染!」
 拍手までして喜ぶわたしに、ミリオはぎゅるんと首を向けてこちらを見据えた。その目には好奇心が宿っている。
「てか、え? そういうこと? そういうことなの?」
 わたしは言葉を濁す。ミリオは手足をわさわさと動かしてテンションの上がりを身体全体で表現している。なんだか恥ずかしくなってきてしまって、わたしは苦し紛れの嘘を付くことにした。
「う、ううん? 全然? いま、新進気鋭のヒーローに恋人がいるか、統計調査のアルバイトしてんの」
「俺にも聞いてよ!!!!!」
「あっごめん……。でもいないでしょ?」
「いないけども!!!!!!」
 ミリオはオーバーリアクションで膝から崩れ落ちた。わたしは一連の流れが面白くて、涙が出るくらい笑ってしまう。足を踏み鳴らして爆笑するわたしに釣られて、ミリオまでが床で笑い出した。
 二人して一頻り笑った後、涙を拭ってミリオが言った。
「すくい、見る目あるよ。あいつ、滅茶苦茶良いやつだもん!」
「なんたってミリオの親友だもんね。あ、今の話は内緒でお願いします……。あとね、わたしに気を遣ってキューピット役になろうとしないでほしいの」
「そこはお節介しないよ!」
「あ、お節介じゃなくて。環くんが四面楚歌になっちゃったら困るもん」
 ミリオは目を丸くした。「逃げ道無くした方が良いんじゃないの。あいつ、土壇場で逃げるかもしんないよ」
「彼女になれなくても、友達はやめられたくないの」
 そこまで言えば、鼻の奥がツンと痛んだ。プールの後のような、目の奥に水が残っているみたいな感覚。
 そう、友達でいいのだ。わたしは環くんと友達になれてうれしかった。今のままでも、充分幸せ。けれどもわたしは我儘で、環くんに特別な相手ができてしまったら嫌だなあ、と思う。あわよくば、自分がその特別になれないか、なんて考える。
「じゃあ、オレは心の中で応援することにしようかな!」
 頑張れ、と握りこぶしを突き上げて、ミリオは教室を出て行った。
 わたしはひとりになった教室で、もう一度机に突っ伏した。
 名前を付けるにはどうにも気恥ずかしいこの感情は、わたしを振り回しっぱなしだ。本当は、こんなことしてる場合じゃない。英語の復習をしなければならない。数学の宿題も出た。微積の応用問題は時間を掛けないと解けなさそうだった。個性の発動も再度確認しておきたい。
 やらなきゃいけないことは沢山あるのに、ふと気を抜けば彼のことを考えてしまう。だめだ。
「……いっそ、当たって砕けたほうが、いいのかも?」
 ぽつり、とわたしの言葉は教室の床に弾んで落ちた。
 きっと、環くんはわたしのことを恋人にしない。そんな気がするから、都合の良い妄想はいい加減にしたいのに、わたしのバカな脳みそは眠っている間でも幸せな妄想を見せようとしてくる。間抜けな目は環くんの後ろ姿を目敏く見つけるし、あんぽんたんな耳は彼の声を聞き逃さない。ついには身の程知らずの唇までもが、自己主張を始めるのだ。
「好き。ううん、違うか。いや、違くないか、好き。好きです。助けてくれてありがとう。好きです。付き合ってください。ちょ、ちょっとストレートすぎるかな? へへ……」
 わたし、気持悪っ。
 腕を枕にして俯いたまま、告白の台詞を考える。全然気の利いた言葉は出てこない。口に出すと感情が次から湧きだしてきて、なんだか泣き出しそうだ。
(……環くんがわたしのこと好きになってくれたり、しないかなあ……)
 廊下で、男子の話し声が聴こえてきた。
 教室に入ってきたら心配されてしまいそうだ。図書館にでも行って勉強して帰ろうか。そのまま家に帰ってもいい。今日の夕ご飯はなんだろう。
 そろそろ帰ろうと、窓の戸締りを確認して、教室の引き戸に手を掛けた。けれどわたしが触れる前に、ドアが開いた。顔を上げて、わたしは思わず悲鳴をあげた。
「ぎゃ!!」
「ひぃっ!」
 わたしの声に驚いて、目の前に立っていた相手が両手で顔を守った。薄目を開けてこちらを確認する環くんの驚きように、わたしは平静を取り戻す。
「びっくりした……。なにかあった? もうわたししかいないよ」
「す、……匙測さんに用事があって」
 あ、もう“すくいさん”って呼んでくれないんだ。
 ちょっとした寂しさを感じながら、わたしは平静を保とうとする。
「なんだっけ」
「数学の参考書、貸してほしいって言ってただろ。さっきミリオから、まだ教室にいるって聞いたから……。いや、迷惑だったらいいんだ、忘れて欲しい」
「迷惑じゃない! むしろすっごく嬉しい」
 差し出された数学の参考書はすぐに引っ込められてしまう。わたしは咄嗟に参考書を掴んで、奪い取るように自分の方へ引寄せた。ええい、ままよ。
「ありがとう! 環くん、良かったら一緒に帰らない?」



 勢いで誘ってみたはいいものの、環くんは一度考える素振りを見せたあとに「誰かに見られて勘違いされたらどうするんだ」というような内容の言葉を口の中で呟いた。
「い、嫌なら断っていいのよ」
 ぐ。わたしと噂になるのがそんなに嫌かあ。好かれているとは思っていなかったけれど、嫌われているとも思っていなかったのでちょっと傷付いた。
 顔に出さないようにしていたけれど、隠し切れなかったのか環くんはそろりとわたしの様子を伺ってから弁明をする。
「そういうわけじゃない……。この間の授業で迷惑をかけたから、また噂になったりしたら、申し訳が立たない」
 どよん、と肩を落とす環くんの落ち込みようから、先月の授業でわたしを助けたことを随分と弄られたことが予想できた。
「わたしはすっごく嬉しかったよ! 実際助かったし、怪我しそうな人を見て身体が勝手に動いちゃうのは、ヒーローとして流石だと思うけどなあ」
「うっ。まぶしい……」
「冷やかされたら、匙測が付きまとってくるって言っていいよ。うち、家族総出でサンイーターのファンだから」
 そこまで言って、少し恥ずかしくて頬が熱くなる。環くんはこのままわたしに背を向けていると気恥ずかしい言葉を掛けられ続けると学んだのか、ポケットに手を入れて俯き加減で歩き出した。
 一緒に帰ろうと誘ったのはわたしの方だ。わたしは彼の隣に並ぶ。
 他愛もない話なら、いくらでもできる。
 週末だけ変わらず手伝いに行っているファットガム事務所であった事件、クラスで起きた笑い話。わたしは手振り身振りを交えて彼に笑ってもらえるように面白おかしく話をする。環くんは時折口元を隠して笑う。それが、うれしい。
 歩くスピードを合わせてくれているから、わたしは態とゆっくり歩いた。
 どこかで切り出さなくちゃいけない。行き当たりばったりの告白の文面を考えていると、世間話の中身も解れて来た。自分がいま何を話しているのかわからなくなってしまって、わたしはついに口籠る。
「匙測さん?」黙ったわたしを覗き込む目は優しい。
「環くん、あのね、話があって」
 彼はわたしの話をいつも最後まで聞いてくれる。わたしが慌てても、口ごもっても、口を一文字に結んで視線を逸らしながらも待っていてくれる。そんなところが、好きだ。
「あの、……」
 鼻の奥が痛い。言わない方が良いのかなあ、とも思う。困らせてしまうだけかもしれない。気持ちを伝えたりしないで、このまま友達のままでいる方が良いのだろうか。
 それでも、もしかしたら、と考えてしまう。わたしは、もう環くんのことが好きでたまらないから、彼が別の女の子と仲良くしている所なんて見たくないのだ。勿論選ぶ権利は彼にあるのだけれど、わたしが好意を伝えたら、それに答えてくれるかもしれないなんて夢を見る。
 環くん。わたしは彼の名前を口の中で唱える。
 彼は心配そうにわたしを見ている。

 好きです。あなたが好き。
 たった二文字なのに、その言葉を伝えるのは酷く難しい。沢山の感情がひしめいて、胸のうちでぐるぐる回る。羞恥だったり、遠慮だったり、暖かい感情以外がやめろと訴える。
 あの十字路に行きつくまでに、言ってしまいたい。引きのばすと辛い、足を進めてしまえばどんどん信号機が近づいていく。
 覚悟を決めるために、拳を握った。
 ああ、丁度、信号は赤だ。


<選り好みをする狼の耳>

prev next
back