「ん、ん……ぅ」
 呼吸が苦しくなったのか、すくいさんの喉から小さな声が漏れた。キスしている間、彼女は終始目を瞑っている。唇を舐めれば、わずかに唇が開いて舌の侵入が許される。対照的に瞼が閉じられる。その表情が堪らなく好きだった。
 柔らかい頬に触れて、そっと唇を離す。ゆるやかに瞼が持ち上げられて、唇の周りをすくいさんの舌が舐めた。大きな目が細められて、俺に向けられる。すくいさんのこんな表情を見ることができるのは俺だけだろう。彼女のクラスの友人も、インターン先のヒーローも、彼女の両親だって見たことのない表情を、俺だけに晒している。
 優越感、征服感、それから溢れかえる独占欲。彼女が俺だけを見ていてくれたらいいのに。
「環くん、好き……」
「うっ眩しい」
 蕩けた表情ですくいさんが俺の肩口に顔を埋めた。震える両手でなんとか彼女の背に腕を回す。ようやく、彼女に触れられるようになった。背中を撫でれば下着の線が指に触れる。授業が終わり、着替えて自分の寮から俺の部屋に来てくれたすくいさんは部屋着に着替えているから、柔らかいニットから覗く首元が心許なく感じる。
「……B組が羨ましいな」
「今日のお昼の話? うちのほうが四限早く終わったもんね。ランチラッシュの期間限定定食美味しかったよ」
「違う」
 抱きしめられたまますくいさんは身を捩って笑うので擽ったい。
「授業の後も、共有スペースで君と会えるだろ。ミリオが羨ましい」
「そんなこと言ったらわたしもねじれちゃんが羨ましいけど……」
 お互い人に聞かれたら随分と恥ずかしいことを口走っている。すくいさんをこうして抱きしめているだけでも恥ずかしいのに、完全に彼女に参っていることを包み隠さず口に出してしまったことに気づいて、更に顔に熱が集まった。
「波動さんとはそこまで親しくない……」
「わたしもミリオと四六時中一緒にいる程仲良くないよ。って勝手に引き合いに出して怒られちゃうね」
 確かに、自分の関係ないところで引き合いに出されている波動さんとミリオはいい迷惑だろう。実際俺は寮生活になったところで殆どをインターンに出ている訳だし、自室に戻っても友人を呼ぶどころか授業の予習復習と睡眠に時間を費やしてしまっている。
 すくいさんも今は都内のヒーローの下にインターンに出ている。彼女は災害現場で活躍する個性の持ち主のため、遠方へ向かうことが多かった。彼女は自分を謙遜して俺を立ててくれるけれど、ヒーローは戦闘だけが仕事ではない。民間人を救うために個性を使うことが目的なのだ。すくいさんが瓦礫の下に埋もれた怪我人の手を握って励ます姿も、自分より体格の良い男性を背負って力強く声を掛ける姿も、思わず見惚れてしまうほど立派だ。
 交際を始めてから、隙間を縫って一緒の時間を過ごしてはいるけれど、本当はもっと一緒にいられたらいいのにと思う。それは自分でも驚くような発想だった。俺の親しい人たちが知れば腰を抜かすだろう。
「……今度は俺が、行こうか。B組の寮」
 今日はすくいさんが俺の部屋まで来てくれていた。突然の全寮制になって生まれた問題は寮がクラスごとに別の棟に分かれていることだった。すくいさんは俺の提案に目線を逸らした。
「でも、女子の階に来るの緊張しない……? 女子はすぐ噂にするよ」
 確かに。
 男女は別の階層に部屋が用意されていた。自室に恋人を呼ぶ生徒も当然いるのだが、隣り合った部屋のクラスメイトにその姿が目撃される程気まずいこともない。
 すくいさんは持ち前の明るさでうちのクラスの寮に足を運び、そのまま廊下にいるクラスメイトに挨拶をして俺の部屋のドアを叩いてきた。すごい。
「すくいさんだって、今日来てくれただろ」
「わたしはブリキの心臓だから大丈夫! なんなら隣の部屋の子に騒がしかったら壁叩いて良いからって言ってきたから」
 冗談めかしてすくいさんは笑うけれど、緊張しただろうし、隣のクラスの男子に揶揄われるのだって、嫌だっただろう。彼女の心臓ばかり軋ませるわけにはいかない。
「ごめん、ノミで……」
「ノミで!?」
 ノミの心臓と波動さんに揶揄されてから、クラスで暫く“ノミ喰”と呼ばれた俺の臆病は中々治らない。三つ子の魂百までと言うしな……。
「そのままで十分素敵だよ、環くん。わたしも治したいところなんて沢山あるし。落ち込まないで」
 思わずため息を吐けばすくいさんが俺の頬に触れた。
 ばく、と心臓が音を立てる。彼女の背中に回している手を服の中に潜り込ませてしまいたい。柔らかい肌に触れたい。でも、彼女を傷つけたくはない。
「………緊張してる?」
「ああ」
「わたしも! ブリキの心臓取り消し」
 すくいさんが俺の肩を押して身体を離した。それから「手を貸して」と俺の左手を取って、その手を自分の胸元に押し付けた。指先にダイレクトに柔らかい感触が伝わる。
「うわぁ」思わず素っ頓狂な声が出た。
「あっ、ちが、揉んでいいよって意味じゃない!」
 確かに、すくいさんの心臓は規則正しく早足で鼓動を刻んでいた。彼女もまた手を伸ばして俺の胸に触れる。お互いが互いの胸に手を当てているその姿がどうにも滑稽で、耐えきれずに笑った。
「心臓早打ち勝負、引き分けじゃない? わたしも緊張してるよ。だって、未知の世界だもん」
 すくいさんは「緊張したら喉乾いちゃった」と言って身体を離した。ベッドから降りて、鞄からペットボトルのお茶を取り出して飲む。俺の分も用意してくれたのか、もう一本を机に置いた。



 そう、今日はそのつもりで彼女を部屋に呼んだのだ。
 そのつもり。キスして、抱きしめて、そのあと。まるで少女漫画に黄色い声をあげる女子みたいに言葉を暈しても仕方ない。すくいさんとセックスするために彼女を呼んだのだ。
 学校からもインターン先からも離れた果てのコンビニでゴムも買った。レジに立つ店員が男性に変わるまで、石のように立ち読みをする俺は完全に不審者だった。中々交代しない店員のせいで、俺は何気なく手に取った文庫『友達いない症候群』を読破してしまった。ようやく交代した男性店員は大学生くらいの若い青年で、目つきの悪い高校生が避妊具を購入することを冷ややかな目で見てきたのでコンビニを出た後に地の果てに埋まりたくなった。今思うと熟読していた本のセレクトが悪すぎた。冷静に怖い。
 鞄の奥に押し込んで寮に戻って、また机の引き出しの奥底に押し込んだ。この先の行為に期待しているみたいで、かといって用意しないのも彼女を傷つけてしまいそうで、俺にしては一大決心だった。
「……よし! 環くん、心の準備はしてきたよわたし! 女性向けの雑誌を読みふけっては疑心暗鬼に駆られたり、大学生の先輩にリサーチしては不安になったりした!」
 すくいさんは決心を固めたのか、ベッドにどんと飛び乗った。
「だ、大丈夫なのかそれ……。俺も、その、一応準備は、したけど」
「買えたの? なんか噂によると成人式で配られるとか」
「結構先の話だね」
 あはは、とすくいさんは笑う。「がんばったねえ。わたしもドラッグストアでちらちらと見たけど近寄れなかった」
 すくいさんは優しい。俺の情けない感情を拾ってくれて、それが一方通行で無いことを愚かな俺にもわかるように言葉にしてくれる。
「すくいさん。後悔、しないか」
「しない。でもやめてって言ったらやめてくれる?」
「勿論。本当に、少しでも嫌だったら言ってくれ……」



 額にキスを落として、「……いいですか」と確認を取ればすくいさんが「よし」とゴーサインを出した。
 ベッドに腰掛けるすくいさんを抱きあげて、膝に乗せればすくいさんが変な声を出した。薄手のニットの中に手を入れて、背中を撫でる。腕が首に回される。
「は、ずしても……」
「よ、よし」
 すくいさんに負けじと俺もハウトゥー本を読んだ。
 ーー俺の前に道はない。俺の後ろに道はできるのだ。いや高村光太郎に祟られるな。
 はじめての女の子に触れるときの手順、服の脱がせ方、挿入までの方法。目が皿になるほど読んだ。それでもわからないことの方が多い。結局女の子は怖いし痛い訳で、手慣れてない男に触られても気持ちよくないなら、どうすればいいんだ。それ以前にブラのホックが外せない。
「っひゃあ!」
「ごめん…!」
 一瞬だけ、と思って指先に植物の蔓を出した。服に隠れて見えない下着のホックを外すために"個性"を使う男。俺はもはやノミ以下の存在となり下がった。
「こ、"個性"の使用はやめてください……」
「すみません……」
「わたし、脱いだ方がいい……?」
「いや、そのまま、で……」
 ホックを外せば正面にはすくいさんの胸が迫る。ニットとキャミソールと共にブラもたくしあげれば、首に回された手に力がこもった。
「さわ……」
「よ、よし!! もう確認いらない! 恥ずかしい!」
 下からそっと柔らかい胸に触れる。自分の無骨な手が彼女の皮膚に触れることに背徳感を覚えて、唾液を飲み込んだ。丸みを帯びた形を撫でていれば、ふかふかしていた先端が少しずつ尖る。
「っ、や、環、く……」
「いや?」
「や、じゃ、ない……」
 ああくそ、この日のために読んできた本はなんのためにもならなかった。書いておいて欲しい。情事における恋人が手に負えないほど可愛いだとか、そのために手が震えるから危険だとか。
「…ごめん、脱がす、から」
 頭を下げたすくいさんからニットを脱がせて、肩ひもを外したキャミソールは下ろした。淡い色のフリルのついた下着は目に毒で、どうしようかと躊躇えば彼女がするりと脱いで落とす。
 背中に手を添えて、ベッドに寝かせる。先ほどとは比べ物にならないほど心臓が喧しい。脚の間の主張が彼女に触れないように、仰向けになったすくいさんの顔の横に手を置けば、二人分の体重を乗せたベッドが軋んだ。
「わたしだけ、脱いでるの、やだ……」
 すくいさんの胸元に触れて、柔らかい肌に舌を這わせていると、彼女が急に俺の頭を押した。
 男の裸なんか全然面白みもない。ニットとシャツをまとめて脱いでベットの下に落とせば、すくいさんは顔を手で覆っていた。
「あぁっ、心臓爆発する……」
「……もっと鍛えておけば良かった」
 理想はミリオくらいの筋肉が欲しい。個性によって筋力は補うことができるから、彼ほど力強い身体は持ち合わせていない。
「あ……、怪我、平気?」
「もうなんともないよ」
 すくいさんが腕に巻かれた包帯に手を伸ばした。
 切島くんがインターンに来た日の小競り合いの痕だ。ファットガム事務所は荒事が多いから、彼女のインターン先が正式に決まって良かったと思う。
「きゃ…、っ!」
 胸の間を舐めればすくいさんが声をあげた。顔を真っ赤にして口元を抑える姿は絵画になって美術館に飾られていても違和感がない。
「嫌だったら、言って」
 すくいさんが首を横に振る。金魚みたいに口を開けて、「きもちいいよ」とごくごく小さな声で囁いた。
 胸の先はすっかり主張していて、そこに舌を這わせればすくいさんが掌を握りしめた。
 爪が食い込んで痛いだろうと自分の手を絡めれば遠慮がちに握り返される。
 こんなに複雑な感情に襲われることなど中々無い。緊張と、興奮と、躊躇いと、それから言葉にし難いもやもやとした彼女に対する感情だ。劣情、というにはもう少し、やさしいその感情の名前を、俺は知らない。
 聞いてるだけで頭痛がしそうな水音と、すくいさんの押し殺した声だけが聞こえる。隣の部屋には絶対に聞こえていない。そもそもこの部屋は防音性が高いから、そんなに心配はいらないと思う。
「は、……っ、すくい、さん」
 下にも、触れたい。
 腹部を撫でればすくいさんがこくりと頷いた。曲げた膝からスカンツを下ろせば、ブラとお揃いの可愛らしい下着が露わになる。
 膝を曲げたままの足の真中に指を這わせれば、突然びくり、と彼女の身体が跳ねた。もどかしい感覚に身を捩るような動作ではなく、反射的に起きた痙攣のような激しさだった。
「い、いや……ぃ、いたい!!」
 劈くような声が、震える彼女の喉から発された。どこか痛がる場所にでも触れてしまったのか、不快にさせてしまったのなら謝らなくてはと手を伸ばした。
「すくいさん、ごめん。大丈夫……」
 見下ろしたすくいさんの顔は蒼白だった。彼女は身体を固く丸めて、左手を握りしめている。
「……っ、すくいさん」
 毛布を掛けて抱き起せば、彼女の目は焦点が合っていない。虚空を見つめるすくいさんは助けを求めるように俺に縋った。彼女は何かから逃げようとしている。助けを求めようとしている。
「いたい、いたい。もう、やめて、切らないで、たすけて!」
「すくい!」
 肩を掴んで声を掛ける。譫言を口にするすくいさんの名前を何度か呼べば、虚ろな目がようやく俺の方を見た。すくいさんの目にはみるみる涙が溜まって、はらはらと頬を伝った。
「…………環くん。環くん、ごめん」
 身体に触れられて、恐ろしい記憶がフラッシュバックを起こしたのだろう。
 俺は彼女から事件に巻き込まれた時の話を聞いたことが無かった。
 個性を使用することを強要されて、指を切り落とされたという悍ましい体験を掘り起こす必要は無いし、今やその組織は壊滅した。彼女も自らその話題を口にしたくはないだろう。
「すくいさんが謝る必要は無いよ。俺こそ申し訳ない。怖い思いをさせてしまった」
「ううん。自分でも突然思い出したもんだから驚いちゃって。なんでだろ、折角、環くんと……。今度、リベンジさせて。今日は、ごめん。怖くなっちゃった」
 すくいさんが握りしめる左手の指には俺が渡した指輪が嵌められている。
 彼女を傷つけた奴らのことを許せない。けれど俺にできることは、震えるすくいさんの手を取ることだけだった。俺は彼女の手を握ったまま頭を下げる。
「怖がらせてしまったのは、俺の不徳の致すところだ……」
「ち、ちがうったら」
「すくいさんが負い目を感じることなんてひとつもない。全部、俺のせいにして」
 君の嫌がるもの、君を怖がらせるもの、全てを取り払ってやれたらいいのに。
 守るだなんて烏滸がましいことは言えないけれど、彼女に頼ってもらえるようになりたい。
 どうしたらいい。
 答えは誰も知らないから、俺は彼女の手を握る手に力を込めた。


<バームクーヘンの輪をくぐれ>




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