「ねえねえ天喰くん、すくいと喧嘩したの?」

 寮のソファに腰掛けていた背後から波動さんが突然話しかけてきた。肩に落ちてきた彼女の髪に驚いて思わず胸を押さえてしまった。また心臓の小ささを揶揄われるのではないかと恐る恐る振り向けば、波動さんは小首を傾げて俺の反応を眺めていた。
「……してないよ」
「ほんと?」
 大きな目がこちらを覗き込んで来たから、逃げるように彼女の言葉を復唱する。嘘は、ついていない。
「ふーん。あ、そうそう、天喰くん。すくいってすっごく我慢強いの、知ってた? 気が長い、っていうのかな。全然怒らないし。いつもにこにこしてて、すごく良いなって思うの。あ! ほら、去年の事件の時だって、ヴィランに脅されても「個性」使わなかったでしょ? 天喰くん、事件のこと知ってた? 私も詳しいことは最近聞いたの。驚いちゃった」
 波動さんは俺の隣に腰かけて、視線を逸らしてはくれなかった。まるで猫の目みたいに透んだ瞳は獲物を捕らえて逃がさない。
「波動さん、何を……」
「んー。通形の分も頑張るのは悪いことじゃないけど、そればっかりじゃ疲れちゃうでしょ。だから、ほどほどがいいと思ったの」
「別に、疲れては……」
「天喰くんだけじゃないよ」
「それは……、俺の、せいなのかな」
 相変わらず、波動さんの言葉はオブラートに包まれていない。三年間の付き合いで、彼女の実直な言葉に裏表がないことは理解していた。胸を抉られることは多々あるが、剥き出しの発言は信頼できる。
 俺の返した言葉にムッ、と頬を膨らませた波動さんはまだ視線を外さない。少し強い語勢になってしまったから、気分を害してしまったかもしれない。背中を冷や汗が伝い始めた。
「……我慢ばっかりさせちゃダメだよ」
 数秒俺を睨みつけたあと、波動さんは諦めたように話題の答えを口にした。
 立ち去った彼女の背中が見えなくなってから、自然と溜息が出た。波動さんの静かな怒りを感じながら、結局気付かない振りを通してしまった。彼女は俺とすくいさんの関係を心配しているのだ。正直、触れられたくは無い話題だった。

 お察しの通り、先々週辺りから俺はすくいさんを避けていた。
 喧嘩なんかしてはいないし、すくいさんに非は一切ない。すくいさんはいつだって、俺のことを心配して、励まそうとしてくれる。それが、辛かった。
 虚勢を張る自分の姿を見られたくなかった。弱音を吐く場所を失って、どうしたら良いかわからなくなっている愚か者の姿を、隠しておきたくて堪らない。今にも不安が破裂して、自分でいられなくなりそうなのだ。けれど、今、自分の形を失うことだけはしたくなかった。
 ひとりのヒーローが戻ってくるまでは、立ち続けていたかった。居場所を残しておきたかった。俺じゃあ、あいつの半分だって務まらないことはわかっていたけれど。それでも、自分で打ち立てた貧弱な決意を折りたくはなかった。ここで折れてしまったら、もう自分で立ち上がれなくなりそうだった。

 正直に、伝えられれば良かったのかもしれない。すくいさんに頼られるのは悪い気がしないけれど、その反対はなんだか酷くみっともない気がするのだと。世辞だとしても俺は彼女に「ヒーロー」と呼ばれて嬉しかった。だから、見栄を張り続けるために彼女を避けてしまう。間近で見られれば彼女の慧眼に、身体に染みついた臆病を見抜かれると思ったから。
 この歪な状態については時間が解決するだろうと思っていたが、現実は悪化する一方だった。
 ミリオが休学したことで空いた穴は大きかった。一人で埋められるようなものじゃないのに、俺は手当たり次第に問題事に介入した。幸い、どこも人手は足りていなかったから、俺なんかでも有り難がられた。
 都合の悪いことから目を逸らして、多忙を理由に人と接する機会を減らして、どんどん意固地になった。俺のせいですくいさんはどんどん傷ついていく。それに痺れを切らしたのが波動さんだ。余計なお世話、とは言えなかった。
 波動さんも、ミリオも、すくいさんも、みんなして強く優しく、とっくにヒーローの本質を手に入れているのだから嫌になってしまう。俺だけが、ヒーローに憧れる子どものままで。



 重い足取りで自室に戻ってスマホを見れば、「会いに行ってもいい?」とすくいさんから連絡が来ていた。返信をしようとする指先が固まる。断る理由ももう品切れで、目を瞑れば脳裏に先程の波動さんの責めるような視線が浮かぶ。
 弁明させて欲しい。すくいさんに、我慢なんてさせるつもりは無かった。ただ、傷つけてしまいそうだから……。想像の中でも、俺は弁が立たない。波動さんは腕を組んだまま俺を睨みつけていて、その隣には呆れたような顔のミリオが立っている。
(やっぱり、環じゃダメかあ)
そんなこと、言わないでくれ。俺だって、やれることはやろうとしたんだ。助けを求めて視線を移せば、すくいさんは顔を覆って泣いていた。
(環くんなんて、嫌い)
頭を殴られたかのような衝撃が襲う。ごめん。泣かないで。三人とも、そんな悲しそうな顔をしないでくれよ。



「……環くん? もしもーし、入ってもいいかな」
 ノックの音で現実に引き戻された。いつの間にか返信をしていたらしい。慌ててドアを開ければ小箱を持ったすくいさんが立っていた。
「待たせてごめん……。どうぞ」
「お邪魔します」
 ドアを閉めてすぐに、すくいさんが小箱を差しだした。受け取ればそれはズシリと重い。
「最近環くん頑張ってるから、甘いものでも食べて元気出してもらおうと思って。寮の台所占領してケーキ焼いちゃった!」
 眩しいほどの笑顔に、胸の内がじわりと痛む。俺は彼女の笑顔が好きだった。なんでも笑い飛ばしてくれる彼女の強さや優しさにどこまでも救われる気でいた。それなのに、今や機械的な頷きしか返せない。
 すくいさんは明るく振る舞いながらも俺の態度を気にしている。持ってきてくれたケーキの箱を机に置いてからは、不安気に視線を迷わせて話題を探しているようだった。
「ね、環くん。最近、……ええと、疲れてない? 授業の後もヴィラン退治手伝ったり、全然休んでないって聞いたから。ちょっと心配だったりして」
「平気だよ、ありがとう」
「ほんと……?」
 俺のベッドに腰掛けたすくいさんは、自分の左手を握りしめている。
 心配かけてごめん。少し時間をもらえないか。自分の中で色々なことを整理して、君の目を見られるようになるから。
 そう、言えたら、すくいさんを安心させられるのだろうか。無理して、俺のことを元気付けようとしなくて良いんだよ。
「わたしにも、声かけて欲しいな……」
「え?」
「ヴィラン退治じゃお役に立てないかもだけど、救助活動でなら、サジカゲンはそこそこ役に立てるよ。疲労が溜まってる状態で、無理したら怪我にも繋がるし、なんでもいいから、手伝わせて欲しいの」
 顔を上げて俺を見据えるすくいさんは半分泣き出しそうな顔をしていて、俺はやっぱりその目を見つめ返せなかった。
「独りで、……平気だから」
「環くん。違うよ、ひとりじゃ駄目。わたしじゃなくても良いの、ねじれちゃんでも、クラスの子でもいいから。行先も告げないで、何処かに行ったりしないで欲しいの」
「……すくいさん、悪いけど」
「ねえ、ちゃんと聞いて」
 唇を噛んで、すくいさんは俯いていた顔を上げた。話を切り上げたがる俺の意図を汲んだ彼女は服の裾を掴んで離さない。
 自分でも驚いたけれど、すくいさんに対して初めて、ーー煩わしい、と思った。
「君に関係ないだろ」
「そ、そういうこと、言うの」
「手、離してくれ……」
  ゆっくり彼女の指が離れて、俺は背中を向ける。話は終わりだ。先程妄想の中で俺を糾弾していた波動さんとミリオが白い目で俺を見ている。
「わかったよ」
 すくいさんの声は冷静だった。机の上に置かれていた小箱の取っ手を掴んでドアに近づいていく。折角焼いてくれたケーキの中身も見ないままだった。
「たまきくん」
 彼女はもう一度俺の名前を呼ぶ。緩慢な動作で振り向けば、すくいさんは俯いたまま言った。
「……わたし、話すの上手くないから。心配してる、無理しないでほしいって伝えたかったんだ。……それも、余計なお世話かな。でも、見ればわかること、言わなくても伝わること、それをいちいち言葉にするのも、意味がないことじゃ、ないよ」
 はあ、とすくいさんは長い溜息を吐き切って、それから勢いを付けて腕を振り上げた。ぼかん、と間抜けな音と共にケーキの入った箱がゴミ箱に投げ込まれた。
「な」
「……食べ物、粗末にしちゃった。構ってくれないから、癇癪起こした訳じゃないよ。環くんが自分のこと大事にしてくれないのが、嫌だったの。
 それくらいは、わかって。…………わかれ!!」
 すくいさんは音を立ててドアを閉めて出て行った。
 暫く、呆然とした。彼女が声を荒上げるところなど、初めて見たのだ。震えるほど怒っている姿が脳裏に焼き付いて離れない。ようやく、冷静になって自分の愚かさに気づいた。自分のことしか考えられていなかった。
 世界の終わりまで続きそうな嘆息が漏れた。自分一人の部屋で壁に向かう必要は無いからスマホを手に取る。すくいさんに謝罪の文面を送ろうと彼女との連絡窓を開けば、俺のことを心配する彼女の言葉に誠意を見せられていない自分の返信が視界に入って、スマホを裏返した。不器用で嫌になる。これじゃあ本当に最低の人間だ。自分の内面も外面も取り繕えない。
 ゴミ箱に投げ込まれた15センチ四方の箱はひしゃげて、そこらにクリームを飛び散らせていた。そっと持ち上げて蓋を開ければ、すっかり潰れたケーキが現れた。手作りのチョコレートケーキは断面が二層になっていて、間に生クリームが挟まれていた。チョコレートでコーティングされた表面は、衝撃によってひび割れ見る影もない。表面にはアラザンとカラースプレーが振られ、粉々になったメレンゲ細工が散らばっている。
 大事そうに抱えられていた手作りのケーキは、俺たちの関係に似ている。すくいさんが壊さないように大切にしていたものを、俺が振り払ったのだ。
 背中を押してもらって、気に掛けてもらって、気持ちを伝えることができたのに。どうして、一番大事にしたい人を傷つけてしまうんだろう。
(何に悩んでるの? ごめんなさいって言えば良いだけなのに、不思議!)
(わかってるくせに。ちゃんと向き合って、謝るべきだよね!)
 脳内の二人は俺の妄想だというのに、先程と一変して的確なアドバイスを送ってくれる。
 君たちの言う通りだよ。本当は、解っているのだから。

 準備よく用意されていたフォークも紙皿も使わないで、スポンジのかけらを手掴みで口に入れた。舌先が痺れる程に甘いケーキは文句無しに美味い。

<チョコレートケーキ・スクリーム>
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