環くんと喧嘩をした。それはわたしの人生で初めての喧嘩であった。自分で言うのもなんだが、わたしは大人しい幼少期を過ごしていたので、親に反抗することも無く、友達と取っ組み合いの喧嘩をした経験も無かった。だから、恋人相手にケーキをぶん投げて怒鳴り散らすなどという芸当ができたこともその時知ったのだ。
 正直、あの時は腹が立った。本当は泣き出してしまいそうだった。けれども、環くんの部屋でめそめそ涙を流すわたしに対して彼が嫌な顔を浮かべたら、わたしは彼を嫌いになってしまいそうだったからなんとか堪えた。堪えた結果があれでは褒められない。環くんの方こそ、わたしを嫌いになってしまったかもしれない。喧嘩のたびに食べ物をぶん投げる彼女はちょっと過激だ。動物園のゴリラみたいだ。
 もうあんなことしないよ。そう言わせてもくれないのだから、わたしたちの関係は修復不可能になってしまったのかもしれない。わたしは環くんのことが大好きだ。それは自信を持って言える。だから、他人が彼の良さに気づかないことを愚かだと思う。強くて、優しくて、背負い込みすぎるところが玉に瑕の、俯きがちなヒーロー。
 わたしは環くんに前を向いていて欲しい。けれど、今の彼は前を向くために自分を追い詰めて擦り減って、消えてしまいそうになっている。はっきり言えばよかった。そんな態度は、まわりを傷つけるって。
 彼自身が身を削ることを望んでいるように見えた。今まで彼の支えになっていたミリオに頼りにくくなったのもあって、わたしは自分が少しでもミリオの代わりになれればと思った。励まして、背中を押して、笑わせてあげたかった。上手くいかないこともわかっていた。わたしとミリオは似ていないから。それでも、はっきり拒絶されたのは悲しかった。


 環くんはまた学校を休んでいる。インターンは一時中止になったけれど、ヒーロー事務所から要請があれば救援に駆けつけているらしい。彼にはそれだけの実力があるので、欠席した分も公欠になる。学校で授業を受けているよりも、外に出て活動していた方が気を紛らわすことができるのか、それとも誰かの分まで自分がやるべきだと考えているのか。この頃学校で姿を見かけない。
 そして、わたしがあれだけ言ったのに、連絡はくれなかった。
 しつこいくらいにスマホを見てしまう。連絡窓を開いても、既読をつけたまま彼からの返事はない。環くんにとってわたしは、ずっと足手まといのままなのだろうか。それって悲しいよ。ゆっくり話をする時間があればいいのに。そしたら面倒な女の子の典型みたいな質問をして困らせてやる。「ねえ、わたしのどこが好き?」環くんは肩をビクつかせて視線を彷徨わせるだろう。それから、それから……。本物の環くんならわたしの良いところを沢山言ってくれるはずなのに、わたしの想像の中の彼は言葉を濁したまま黙り込んでしまう。
 環くんとの関係にアドバイスをくれる友人もいた。けれども彼らの「時間が解決してくれる」という言葉が嘘であることを、わたしは身をもって知っている。関係を風化させるには時間を掛ければいいのかもしれないけれど、わたしは関係の修復を望んでいるのだ。自分の個性が使えなくなった時、待てども待てども個性は戻らなかった。結局、自分で殻を破るしかない。ごつんと、大きなスプーンの背で彼の籠る卵の殻にヒビを入れてあげられたらいいのに。驚いた顔で這い出した環くんと、はじめましてみたいな顔して笑いたい。


 授業が終わり、寮の自室に戻るとファットさんから電話がかかってきた。最近は忙しくて中々大阪まで足を運べていないから、ファットさんの声を聞くのは久しぶりだった。今日は天気が悪い。雨音に負けないように音量を上げた。
「すくい、元気にしとる?」
「元気です。ファットさんもお元気ですか?」
 電話口から聞こえる声は相変わらず柔らかくて安心してしまう。腰かけたベッドの横のぬいぐるみに触れながら耳を澄ませた。
「ぼちぼちやなァ。なに、環とは上手くやってんの」
「ううーん。あんまり」
「カーッ! あいつほんと頭固いわ。今度会ったらどついたろ。で、今日は声かからんかったん? 救助活動やからサジカゲンにも声掛けぇ言うたんやけどな」
 離れていてもわたしたちのことを気にかけてくれるファットさんの優しさを感じながら、わたしはぬいぐるみの頬を抓る。救助活動、という言葉が刺さる。自分で言うのは格好悪いけど、サジカゲンはその界隈では有名なのだ。表彰されたこともある。戦闘じゃ足を引っ張るかもしれないけど、救助で足を引っ張るつもりは無かった。それなのに、だ。
「……ちっとも! でも、今日は寒いし、雨も凄いし。……いいです」
「反省しとるみたいやったけどな。濡れネズミとケーキ食って許してやって」
 少し刺々しい口調になってしまっただろうか。電話越しに苦笑したファットさんが言う。生憎、その濡れネズミはまだ帰ってきていない。
「まだ帰ってきてないですよ。寄り道してるんじゃないですか」
 わたしが意地悪く伝えると、ひゅ、と息を吸い込む音が聞こえて、そのあとで電話の向こうで何かが落ちた。書類が散らばる音とサイドキックの人たちの声も遠くで聞こえる。
「ファットさん?」
「……すくい、先生方呼んでくれるか。ちょっとまずいかもしれん」
 ファットさんの緊迫した声に身体が強張る。
「場所は、どこですか。救助って何をしに行ったんですか」
 部屋着のままでも構わない。スリッパも履かずに部屋を飛び出した。宿直室には担当の先生が待機している。
 大した仕事じゃない、とファットさんはわたしを安心させるように伝える。山間の道路でバスが横転したらしい。泥濘にタイヤが嵌っただけでバスも、乗客も無事であったとの報告を聞いたあと、環くんからの連絡は入っていない。午後から丁度雨足が強くなった。山肌は雨で溶けだし滑落しやすくなっているだろう。
 環くんは強い。個性も強力で、場慣れもしている。凶悪なヴィラン相手でも臆さず向かっていく。でも、いくら強くたって災害に巻き込まれてしまえば普通の人と同じだ。
 頭の奥で警鐘が鳴る。背中にだらだらと冷や汗が伝う。街に寄っただけだとか、スマホを忘れていったのだろうだとか、必死で理由を探そうとするけれど、どれもそうだったらいいのになあという想像で終わってしまう。
「先生!! 天喰くんが、寮に戻っているか、確認できますか。そ、そそれから、ファットガムが、電話を繋いで欲しいと……」
 ノックにしては随分乱暴で、先生の声が聞こえる前にドアを開けた。丁度、今日の宿直勤務はわたしの担任の先生であった。先生は蒼白なわたしの顔を見て、黙ってスマホを受け取った。ファットさんが先生に事情を説明しているこの時間が焦れったくて仕方がない。いま、この時間が惜しくて堪らない。けれども現役のプロヒーローの判断よりも迅速にことを進められるものが他にないことも知っていた。先生は電話を切るとスマホをわたしに返して「匙測は待ってなさい」と言った。咄嗟に出た声は裏返ってしまった。
「先生! わたしは冷静です。土砂に巻き込まれたのが誰であろうと、自分の仕事ができます。役に立てます。ヒーローとして、連れて行って欲しいです」
 嘘は、ついていない。わたしは暗示のように自分のヒーロー名を心の中で呟く。困っている人を救って、足掻いて藻掻く人を掬うのよ、サジカゲン。できることに限りがあったとしても、手を伸ばすことはやめたくなかった。
 先生と見つめあって、数秒。短く息を吐き出して、先生はわたしの肩に両手を乗せた。
「……そこまで言ったなら、自分の発言に責任を持つんだよ。その他のことは、教師の責任だ。支度、10分で済ませなさい」
 頷いて、また駆け出した。騒がしいわたしを心配してクラスメイト達が声を掛けてくれる。手伝おうか、とか大丈夫か、とか。わたしはその優しい声を背中で受けて「大丈夫!」と空元気で返事をした。そうだよ、絶対、大丈夫だ。


 救助用のヘリが動いて、数人のヒーローと共に向かった先では、想定どおりに土砂崩れが起きていた。広範囲に土砂が広がり道路が埋もれてしまっている。環くんがもし生き埋めになっていたとしても場所の検討もつかない状態だった。トレードマークの白いフードも土砂降りの雨の中では見えない。道路に面した部分しか重機を入れることもできず、シャベルを握って人海戦術で、と言っても記録的な豪雨で交通網は混乱していた。
「13号が駆けつけてくれているから」
 だからそれまで頑張りなさい。と先生がヘリから降ろしたシャベルを土砂に差し込んだ。
 どれくらいかかるんですか。と出かけた言葉を飲み込んだ。人をあてにしているようじゃヒーローとして来た意味がない。右手を目一杯広げる。自分が出せる最大限の大きさまで”匙”を広げて土砂を掬う。それから最小単位で「換算」する。土砂の体積を減らして回るわたしが個性を使ったあとは、アイスクリームのディッシャーで掬ったようなあとがぽっかり残る。人が生き埋めになっている状態なら、使用できる個性も限られてしまう。周囲で先生方が土を掘り返していく中で、わたしは堪らず声をあげた。
「〜〜っ環くん!!! いるなら返事して!!」
 ぽかり、ぽかりとまるい穴が開いていく。けれども彼の姿はない。
「環くん!!」
 雨が冷たい。大きい雨粒が目に入って、脚も手も泥だらけで、土砂に足を取られて何度も転んだ。落ち着かなくちゃならない。身体は冷え切っているのに、顔だけが異常に熱い。数度目の「換算」を終えると鼻血が顎を伝った。オーバーヒート? こんなので情けない。
 役に立つ、と先生に啖呵を切ったのだ。こんな土砂、全部片付けてやる。綺麗になった道路を見ても人の気配なんか無くて、みんなで顔を見合わせるのだ。うっかりものの環くんはスマホをどこかに落としていて困っている。わたしと仲直りするために街でおいしい食べ物でも見繕っていた彼は、泥だらけのわたしたちを見て驚いた顔をする。なんだよ、盛大な早とちりだ、とわたしたちは彼を小突く。そんなオチ。
「……そんなわけ、ないか」
 もう、肩も上がらなくて、わたしは自分の粘着いた唾を飲み込むだけでも苦労していた。鼻血は雨で溶けてヒーロースーツに染み込んでいる。雨は止まない。空はすっかり暗くなっていて、ヘリのライトが照らす範囲は不自然に穴が開いているものの、成果はひとつも出ていなかった。
(〜〜〜っ、わたしが諦めてどうすんだ)
 ばちん!と頬を両手で叩いて、もう一度”個性”を発動した。ここまで個性を派手に使って、先生方からストップが掛かっていないのは御目溢しを貰っているからだ。褒められた使い方じゃない。だからここで肩を落としていたら、限界だと思われてしまう。先生方はきちんとわたしを見ている。
 水を含んだ焦げ茶色の泥濘はわたしが叩きつけたチョコレートケーキに似ている。ねえ、環くん。あれ、結構時間かかったんだよ。B組寮のキッチン、終始チョコレートのいい匂いがしてさ、みんな笑ってんの。いくら反省したからって、こんな、埋もれなくてもいいんだよ。
「たまきくん……」
 涙なんだか、鼻水なんだか、血なんだか、もうなんだかよくわからない。顔から出る水分全部出して、わたしはまた大きく土砂を抉る。ーーガツン、と手の先に固いものが触れた。走り寄って懐中電灯で照らせば、それは巨大な二枚貝だった。もしこれが、環くんじゃなければ世紀の発見だ。
「……っ、いた!! いました、早く来て、先生、早く……!」
 鼻を拭って、スーツに搭載されているマイクのスイッチを入れて叫んだ。貝殻の上の泥を掻き避けて、貝殻の隙間に薄く伸ばしたスプーンをねじ込んで無理矢理開いた。土砂崩れに巻き込まれた際に咄嗟に個性を使用したのだろう。圧死していなくて良かった。
 青い顔した環くんの頬でも引っ叩いてやりたかったけれど、それはもう少し後だ。身体を丸めた環くんは息をしていなかった。力任せに仰向けに転がして、邪魔な胸あてを剥いで、馬乗りになって心臓に手を当てる。先日もこうして環くんの胸に触れた。ついこの前のことなのに、随分昔のことみたいだ。あの時は熱くて堪らなくて、お互い心臓がうるさかった。やだな、今日はやけに静かだ。
 人工呼吸も心臓マッサージもわたし学年で、ううん学校で一番上手な自信ある。環くん、知ってる? わたしの応急処置で一体何人が息を吹き返したか。死んだら許さない。一生許さない。肋骨折れたって知るもんか。動け、心臓、動け! 息をしろ!!
「……っげほっ、……おエッ」
「…………え」
「がへっ、っ……ぐ、っ、も、もういい、っ」
 潰れた蛙みたいな声をあげて、環くんが咳き込んだ。痺れる手を急に止められなくて、何度か胸を押し付けるとばたばたと抵抗された。……いきてる。
「うっ、うぇっ……、た、まきく……っ、ば、バカ……バカもの……」
 わたしの両手は震えて、彼の胸に重ねたまま動かせない。ゆっくりと胸元が上下して、確かに彼の心臓はゆっくりと鼓動を打ち始めていた。
「……ち、チョコケー、キ、」
 環くんはゆっくりと呼吸を整えながら、譫言のように「チョコケーキ」と言った。チョコレートケーキになる夢でも見ていたのかとわたしはもう一度腕に力を込めた。
「うげ。ちょっ、ちょっと待って……。……うまかったよ、ケーキ。すくいさんに伝えないと、死ねないと思った」
「環くんの、食いしん坊。ゴミ箱から、拾わなくたって、あんな、ぐちゃぐちゃ。……っ、わたし、何度だって、焼いたのに……」
 ぐしゃ、とわたしは泥に肘をついて仰向けの彼の横に崩れ落ちた。環くんはゆっくり腕をあげて、泥だらけの指先でわたしの頬に触れた。
「すくいさんは、いつも泣いてる」
「環くんだよ、泣かせてるの。……もし、死んじゃってたら、わたし泣きすぎて干からびて凧になってたからね」
「それは、困る……」
 意識の戻った環くんは意外と流暢に会話を返してくれる。頭を強く打ったりはしていないみたいで、目立つ外傷もない。ああ、良かったなあとわたしはまた鼻水を啜った。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。それから、人の足音。良かった。本当に良かった。これで、ちゃんと胸を張ってみんなに「大丈夫」って言える。
 すくいさん、と環くんが名前を呼ぶ声を最後に聞いて、わたしは意識を手放した。


 次に目を覚ましたのは、御馴染の病院のベッドの上だった。ベッドの横では頭を深々と下げた環くんが椅子に座っていた。彼の手足にも包帯が巻かれていたけれど、入院するほどではなかったらしい。わたしの方も個性の過剰使用による疲労骨折と緊張の糸が切れたことで意識を飛ばしただけだった。
 面白かったのはどやどやと入ってきたわたしの両親に環くんが桃を渡して頭を下げていたところだ。男子高校生に頭を下げられて恐縮した両親に向けて彼は「僕の、命の恩人なので」とはっきりした口調で言った。両親としては何が起きたのかをまだ知らされていなかったので、わたしと環くんの関係について思案顔を浮かべていた。
 環くんから桃を受け取った父はわたしの顔と環くんの顔を交互に見て咳払いをひとつ。
「良かったな。これで、お互い一度ずつ救われたわけじゃないか」と笑った。


<クライ・ヒーロー・クライ>

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