<きみのためのぶよぶよとした感情>

 4月、わたしは久々に制服に袖を通して雄英高校の門をくぐっていた。
 個性が使えなくなってから既に2ヶ月が経過していた。
 職員玄関の前でわたしを待っていた先生はこまめに家に連絡をくださっていたが、直接会うのはあの面談以来だ。時計は昼過ぎを指している。通常の生徒が授業に勤しんでいる時間を狙って時間を指定してくれたのだろう。
「先生、お久しぶりです」
「よく来たね、匙測」
 久々に履いた上履きは窮屈に感じた。玄関先には新入生の名簿が張られており、いつの間にか新入生が入ってきたのかと驚いた。ということは、親しくしてもらった先輩方もとうに卒業してしまわれたのだ。
 まるでわたしの周りだけ、時間が止まっているみたいだと思った。
 先生の後ろをついて、教室に入る。「生徒指導室」は誰かしらが恐ろしい生徒指導の先生に怒鳴りつけられていたイメージが強い。
「ファットガムの事務所でお世話になっているそうじゃないか」
「そうなんです。父の友人とのことで、沢山勉強させてもらってます。事務所が関西だから、クラスメイトに会うこともないのがまたいい感じで」
「隣のクラスの天喰がインターンで行ってるだろ。話したかい?」
「仲良くしてもらってます。環くん、プロ並の実力で驚きました」
 他愛もない世間話を少しして、先生はふと顔をあげた。真面目な話をするときは雰囲気が変わる。
「匙測、きみは今年も僕のクラスだよ」
「え! わたし、進級できたんですか?」
「あの事件以外は皆勤賞だ。それにきみは校外活動に出向いたりすることも多かったからね。ヒーロー科として、人助けをするヒーローを評価しないわけにはいかないだろ」
「ダブりかと思ってました……。それか、他の科に編入かと」
「あぁ……」
 先生は首をこきりと曲げて、次の言葉を考えているようだった。
 わたしも、小さい子供じゃない。両親も高校の進級のシステムについては調べてくれている。個性の使えない生徒はヒーロー科に在学し続けることは難しい。現代のヒーローの定義は、“個性を活かして社会に奉仕することを政府に認められた人材であること”だ。
「このままだと、編入手続きを取ってもらうことになる、ね」
「わたし、経営って柄じゃないですし、テレビの録画機能も使いこなせているか怪しいし、普通科のレベルの勉強についていけるか……」
 ヒーロー科の授業だって、決してレベルは低くない。むしろ普通高校に比べると特段に高いレベルの授業を行っている。この2ヵ月間で、クラスメイトたちとは格段に差が開いてしまっているだろう。勿論自宅で学習はしているし、環くんに授業の進度を教えてもらっていたから、辛うじてついていけるレベルではあると信じているのだけれど、雄英の授業は時々、驚くくらいの速度で単元を駆け抜ける時がある。
「戻っておいで」
 先生の言葉は力強い。差し出された手を掴めば、わたしを深海から引き揚げてくれそうだ。それでいて残酷だ。わたしの腕は動かない。片腕だけでは自分の身体を支えられない。痛いほどに理解しているのに、生徒にその言葉を告げなければならない先生も、辛そうな表情を浮かべていた。
「はい……」
 この2ヵ月間、色々やってきたつもりであった。ファットさんのところで仕事を手伝う以外にも、遠くの県にボランティアに出かけた。精神科にも通った。家族旅行にも行ってきた。精神的には落ち着いたはずなのに、個性の因子は体内に残っているはずなのに、個性の発動ができない。
 えーーーんいい加減にしてくれこの豆腐メンタル……! このままじゃ血反吐を吐いて勉強した中学時代が無駄になってしまう。
 うぐぐ、と唸りを上げるわたしを見て、先生は「元気になってくれて良かったよ」と言った。確かに、2ヵ月前よりはずっと、元気にはなった。
 これからの話をして、先生は帰り際に教科書の購入リストと個性についての研究書、それに宿題の束を渡してきた。「いつ戻ってきても良いように」と微笑む姿は爽やかで素敵であったけれど、わたしは一体どれだけの時間を掛ければこの辞典のような分厚さの宿題を提出することができるのだろう。

***

 先生との面談を終えたわたしは重い重い宿題を抱えたまま、電車に乗っていた。
 教科書を買い揃えるのはあとでも良いだろう。もし、ヒーロー科に残れないことになったら、新たに教科書を買い直さければならない。これ以上両親に負担をかけるのも申し訳なかった。アルバイトでもやるべきなんだろうか。
 制服のまま事務所へ立ち寄れば、ファットさんは来客と打ち合わせをしているようだった。コーヒーを淹れるのも慣れたものだ。
 このまま個性が戻らなかったら、ここで事務員として雇ってもらえないだろうか。
 ああ、良くない。在学が危ぶまれるという話をされてから、どうも逃げ道ばかり探してしまう。なんのために先生がわたしを呼んだのか。ヒーロー科の宿題を渡してくれたのか、その意味が分からないわけじゃ無いのに。
 悶々とした気持ちが拭えない。おもむろに鞄から飛び出している書籍を手に取った。それは『個性から紐解く終末論』という本だった。先生、個性について書かれてる本を手当り次第見繕ってくれたのかしらん。
「――『“個性”とは、人間の身に宿る先天性の超常能力である。現在、人口の8割が身体にこの“個性”を宿して生まれ落ちる。その能力は大体の場合は齢4歳までに発現する。(中略)“個性”はその能力によって「発動型」「変形型」「異形型」の三つに大別される』 ふんふん……、結構面白いかも」
「すくい、何してん」
「あっすみません! ちょっと読書を……!」
 ファットさんの声で現実に戻ってきた。わたしは制服のまま給湯室の床に座り込んで本を読みふけっていた。彼はトレイにコーヒーカップを乗せている。ああ片付けまでさせてしまった!
「洗います」
「良い良い。最近お手伝い以上に働いてくれとるし、こっちもそろそろお給金出さなきゃならんと思ってたとこよ」
「いやいや貰えませんよ……! 父のゴリ押しでお邪魔してる身ですし!」
「アルバイトみたいな感じだとどう?」
「えーーー魅力的です」
 ファットさんは洗剤をたっぷり含ませたスポンジでシンクを泡だらけにしてコーヒーカップを洗う。この事務所は男所帯なので、来客用の茶器なんかは時々漂白をかけないと大変なことになっていたりする。
 真剣な表情でカップを濯いでいくファットさんは身体が大きいから、カップがミニチュアに見える。
「ここにも随分慣れた?」
 かちゃかちゃと音を立てながら、ファットさんが言った。
「とても。もう第二の家です」
「あら、予想以上に馴染んどった。ほんと、ようやってくれてるわ」
 言葉のあとに、少しだけの沈黙。
 わたしは早まる心臓を落ち着かせようとそっと息を吸った。
お願いですから、まだ、ここにいさせてください。
 時間は有限だ。わたしにとっても、わたしの周りの人たちにとっても。いつまで経っても、個性の出ない一介の生徒を在籍させておくわけにはいかない。インターン生でもない生徒を事務所に置いておくわけにはいかない。わかっている。
 わたしは、自分の背後で動いている事情を見ないようにしている。法律や規則や契約や金銭に形作られて、社会は動いていると、わかっているのに。
「あの、ファットさん、わたし」
「んー?」
「わたし、……。もっと、お役に立てるように頑張ります。迷惑をかけているのはわかっているんですけど、すみません。もう少しだけここに置いてほしいです」
「すくい?」
 帰って来い、戻って来い、わたしの個性。わたしが、わたしであるために。
「あと、1ヵ月もしたら諦めがつくんです。だからそれまで、じたばたさせてください」
「…………」
 頭を下げる。返事は帰ってこない。
「ファットさん……?」
 ファットさんは蛇口を閉めて、タオルで手を拭く。緩慢な動作でそれらを終えて、わたしの方を向き直した。
「ショック受けんといてな。……ファットさん今日は二人に焼肉でも御馳走してやろうと思ってただけなんやけど。環がうち来て半年。すくいが来て2ヵ月経つし、パーっとご苦労さん会的なやつやったろ思って」
「……えっ。まさか、わたしの勘違いです?」
「端的に言えば、そやね」
 ぼん!!!!と顔に熱が集まる。恥ずかしすぎる……。この早とちり! あわてんぼう! 赤い顔をして震えていたらファットさんの大きな手が頭をわしわしと撫でた。
「思い詰めすぎん方がええよ。なんとかなる、くらいで考えとき」
「はい……」
「すくい、ここ好き?」
「好きです」
 小さい子みたいに頭を撫でられながら、ファットさんは子どもをあやすように声をかけてくる。わたしはこの場所がすごく好きになっていた。
「そりゃ良かった。ファットさんのことも?」
「好きです!」
 救世主みたいです、とわたしは鼻水を啜りながら続ける。本当に、ほんとうに、感謝しているんです。
「ありがとなー。ついでに環は?」
「かっこいいと思います」
「え?」
 あっ間違えた。口が滑った。普通に印象を答えてしまった!!!
「間違えました!! いい人だと思います!! 親切だし!! 宿題教えてくれたりするし!!!!!!」
 必死に取り繕うとするが、ファットさんの口の端からは凄い勢いで笑いが漏れている。
「おおう青春を垣間見てしもたわ。すくい、はちゃめちゃにわかりやすいな」
 照れなくても良い、と目を細めるファットさんの表情は優しいけれど、完全に面白がっている顔だった。これはわたし至上中々にまずい案件である。ていうか人のインターン先で何してんだって思われる。
「後生ですから内密にお願いします……! こいつヒーロー事務所に何しに来たのって思われて……あっファットさん違います、わたし真面目に個性を取り戻しに来たんです!!」
 遊びに来たと思われても心外だ!! さっきまで泣くほど悩んでたのに、わたしって奴はもうろくでもない! ろくでなしすくい! バカ!
「ダハハ! かわいいなー。ファットさん恋バナもイケる口やで!!」
「えーーーん何卒内緒で……」
 うわうわ、今日はもうだめだポンコツだ。言わなくても良いことばっかり口にしてしまう。
 最近ちらちらと思っていたことなのだが、口に出せば改めて自分がそう思っていたのだと再認識してしまう。
 環くんが格好いいのだ。見た目も、うん、もちろん格好いいんだけれど。
 人助けをするときの姿勢だとか、傷ついたとしても自分を奮い立たせて足を踏み出すところだとか、あんなに凄い人なのに、努力に努力を重ねてあの場所に昇り詰めたことが痛いほどにわかって、応援したくなる。
 臆病なのだと誰もが知っているのに彼は前に出る。震える手を握りしめて、誰かを守るために拳を握る。ああ、ヒーローだ、とわたしは彼の姿に震えてしまう。
 間近で見るもんじゃないよ。刺激が強い。
 忘れ去られた風船みたいに、膨らんだこの感情がいずれぶよぶよになってしぼんでいく未来を思い描く。彼にこの感情を伝える気など更々無いのだ。
 だって、ヒーローは格好いいものだから。恋心なんてものじゃない。憧れだ、憧れ。



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