新学期も目前の春休み。わたしは久々の制服に袖を通し、雄英高校の門をくぐっていた。人気のない学校はまるで映画のセットみたいだ。施錠されている生徒玄関からは入れないので、職員玄関のチャイムを鳴らす。すぐに担任の先生が出てきて、鍵を開けてくれた。
「匙測、よく来たね。スリッパ出すよ」
「じゃーん。上履き持参で来ました」
スリッパはいざという時駆けだせないから、履き慣れた上履きの方がいい。磨かれた廊下にわたしの靴音が軽快に鳴った。
玄関先には既に新入生の名簿が張られていた。お世話になった先輩方に挨拶もできなかったな、と少しだけ感傷に浸る。たった数ヶ月のことなのに、なんだか浦島太郎みたいだ。
恒例の進路指導室に案内されると、また見覚えのある配置で机と椅子が用意されていた。
「ファットガムの事務所にお世話になっているんだってね」
「沢山勉強させてもらってます」
「隣のクラスの天喰がインターンに行ってるだろう。彼とは話したかい?」
「色々助けてもらって、結構仲良くなりました」
他愛もない世間話をしたあと、先生はふと顔をあげた。まなじりが少しだけ下がって、やさしい顔つきになる。
「匙測。きみは今年も私のクラスだよ」
「わたし、進級できたんですか?」
「当然。出席日数も単位も足りてる」
「留年かと思ってヒヤヒヤしてました! それか、他の科に編入とか」
「うちの生徒を勝手に引き抜かれちゃ困るな……」
先生が顔を顰めてみせるので、わたしは思わず声をあげて笑う。腕も動かず、個性も戻らないくせにけらけらと笑ってみせる生徒はかなり呑気に見えたかもしれない。それでも先生は「良かった」と微笑んだ。
「明るくなったね、匙測」
「うふ、関西の水が合うのかもしれません。まわりの人も明るくて良い感じです。ひとりでいると塞いじゃうから」
落ち込んでたって仕方ない。やるだけやって、それでもダメなら諦めるしかないけどさ。やるだけやってから、落ち込むって決めたのだ。
「……6月まで」
先生の声に顔をあげる。先生方は、大事なことを伝える時に、まっすぐわたしたちの目を見つめる。
「それが、ヒーロー科にいられるリミットだ。それ以上休学が続くと、編入か転学の手続きが必要になる」
「……結構長い?!」
「前向きで大変よろしい」
「がんばります! がんばるぞ!」
「こらこら、頑張りすぎは禁物だよ。ファットガムはきみの手綱を握れているのかな……」
「先生、わたしのこと暴走機関車だと思ってますか?! ちゃんといい子にしてますよ」
先生は帰り際に教科書の購入リストと課題の束、それから数冊の書籍を渡してきた。「休み中に気が向いたら読んで」と渡された本は先生の私物だろう。
微笑む姿は相変わらず素敵であったけれど、わたしは渡された書籍よりも、二重にされた紙袋に詰められた課題の量に不安を煽られていた。あと2ヶ月で復学のはずなのに、終わらせられるのかしら……?!
重すぎる宿題を抱えたまま、わたしは新幹線に乗っていた。今日はファットガム事務所にも呼ばれているのだ。なにやらお話があるとのことなので、制服を着ていれば間違い無いだろう。
(……………新しい事務員さん、見つかったのかな)
不安がよぎる。ファットさんのところにお世話になって2ヶ月。仕事は大体覚えたし、空席となっている事務員さんの代わりもそこそこ務められているはずだ。けれどもわたしの本分は学生で、このままお世話になり続けるわけにはいかない。
わかってはいるのだけれど、ハローワークに事務員募集のメールを送るたびに、しばらく人目に止まりませんように、と祈ってしまう。だってすごく良い職場だし。
(もう少し、このままでいられたら良いのに)
居心地の良さに甘えているだけだ。このままじゃ学校には戻れない。ファットさんの事務所にだって、正式に雇われているわけじゃない。わたしはへらへらと笑いながら、不安定な綱の上を渡っている。
事務所に着くと、ファットさんは来客と打ち合わせをしているところだった。お客さんにコーヒーを出して、デスクに向かう。掌に跡を残すほど(物理的にも)重たい課題を見るのはやめて、先生が持たせてくれた書籍を手に取った。
個性と精神の関係について書かれた本は、カバーに癖がついている。先生が何度も読んだのだろう。わたしのために頁をめくってくださったこともあるかもしれない。
「すくい〜。ゴメンな、待たせてもうた」
すっかり没頭してしまったのか、ファットさんの声に顔を上げれば気付けば来客は帰った後で、ファットさんはトレイに空のコーヒーカップを乗せている。
「あ! 洗います!」
「それくらいファットさんかて自分でできますぅ。働かせて過ぎやて環にも叱られとんねん」
「いえいえ。御恩は労働力でお返しするのが匙測家の家訓ですので」
ファットさんは高くトレイを掲げてしまうので、わたしは彼の後ろをついて歩く。洗剤をたっぷり含ませたスポンジでコーヒーカップが洗われていく。来客用の茶器はこの前漂白をかけたので真っ白できれいだ。泡だらけのシンクを見つめていても手持ち無沙汰になったので、水切りラックに置かれた側から布巾で拭いていく。
「こっちにはもう慣れた?」
ファットさんが言った。
「皆さんのおかげでばっちり。商店街の人たちとも仲良くなっちゃった」
「コミュ強や。ほんと、すくいが来てくれて助かったわ」
えへへ。合槌のかわりに笑みを返して、ほんの数秒沈黙が流れる。落ち着きのない視線を誤魔化したくて、サボりっぱなしの左手を掴む。
「あの、このあと、お話がありますか?」
「およ。実はな……」
ファットさんが話し出そうとするので、わたしは慌てて大声を出した。
「あーーちょっと待ってください!心の準備していいですか!?」
「もしや、ファットさんから告白されると思っと「先に言っちゃえ!! 新しい事務の人決まったんですか?! わたしまだここに置いてもらえますか」
「流石に未成年はアカン、せめて卒業してから……って何?! なんの話?!」
「事務員の話ですよ! 新しい人が決まったから、もう置いておけないよって言われるのかと思ってました」
ファットさんはポカン、とした顔をして固まっている。一拍、二拍、三拍を空けて目をしぱしぱと開閉した。そして口元をモニョモニョと歪める。
「……ファットさんはな、いつも頑張ってくれとる二人に焼肉を御馳走しようと声かけただけやねん。奮発していい肉屋予約したから驚かそ思ったのに、すくいが告白してくるもんやから……」
「してない!!」
マジでしてない。ファットさんとわたしは顔を見合わせて爆笑してしまった。
「ダハハハハハハ! すくいがいたいなら、ずっとここにいていい。うちの都合で勝手に辞めさせることはないから、安心してな」
「はい……。良かったです」
「うちの事務所のこと、だいぶ好きになってくれたみたいやね!」
「そりゃもう、大好きです」
「勿論ファットさんのことも?」
「大好きです!」
「おおきに。ついでに環は?」
「だい…………すっ?! ………い、いやいや、同級生に好きとか嫌いとかそういうのないので……。友達として尊敬してるみたいな感じ……かな……」
あ、危なかった!! なんだこの大人?! 誘導尋問?! ずっとここにいて良いよ、と先程言ってくれたばかりの筈なのに、関係に亀裂が入ったらどうするつもりなんだ。
「ほぉ〜ん」
「なんですか、その、『ほぉ〜ん』てのは」
「いや、結構わかりやすいんやなと思って」
「訂正! 好きも嫌いも、友達以上でも以下でもございません!」
「もっかい聞くで? 環のこと好き?」
いや、しつこいな!!!!
半月型に瞳を歪ませているファットさんは楽しくなっちゃって変なスイッチが入っている。もしかしてお酒飲んでます? と聞きたくなるが、流石に飲んでいないだろう。
このままでは押し負けてあることないことを口にしてしまう。それが本人に聞かれた日には大変だ。天喰くんなら思い悩んでインターンを辞めかねない。わたしはファットさんの弱点?である父の名前を出すことにした。
「………労基に詳しい身近な大人、匙測父と中継がつながっています。……もしもしお父さん? これってセクハラかな!?」
「アカンアカンアカーーーン!! すくいパパはマジでアカン!!」
ふう、都合の悪い話は笑いに逃げるに限ります。給湯室でエア・スマホに話しかけ出したわたしは完全に怪しい女だが、ファットさんは食い気味に乗ってくれたので、先程の話題もコミュニケーションの一部ということで、すぐに忘れてくれるだろう。
「いざとなったら父に代わって法がお仕置きしますからね」
「トホホ……」
トホホ……じゃないよ。ファットさんは尊敬できる大人だが、悪ノリが過ぎるところがある。でもいつもこんな感じだから、職員さんたちも良い距離感で仕事ができているのかも。
わたしはお手洗いを借りるべく給湯室を出た。
クビじゃなくなって安心。夜は焼肉でハッピー。なのに、鏡に映る自分を見て、力が抜けた。洗面台に手を付く。少し落ち着いてから執務室に戻ろう。
頬に触れる。熱い。いままで意識したことがなかったから、内心を暴かれたかのように心臓がうるさい。
(………わたし、天喰くんのこと、好きだっけ?)
こいつ何しにヒーロー事務所に来たんだ? そう思われても仕方が無さすぎる。個性も使えない、左手も動かない。どう考えても恋愛にうつつを抜かしてる場合ではありません。
同い年の天喰くんが、ヒーローとしてまばゆく活躍する姿が羨ましいのかもしれない。その裏で、もがいて、努力を怠らない姿を見てしまったから、憧れもあるのかも。彼がやさしい視線を向ける護るべき人々にも、隣に並び立つ友人たちのどこにも、わたしはいない。それが、さみしいとか、情けないと思っているだけかも。
でも、それはなぜ? 鏡の前で自問自答を続けると、それこそ泣いてしまいそうになる。
羨望でも、憧憬でも、彼に惹かれる理由はなんだって良いはずなのに、対等ではないと自分が決めつけているせいで、なんだかよくわからない感情に、じりじりと胸を灼かれている。これはまた、個性云々とは別の問題だ。とりあえず、焼肉を食べてから考えよう。
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