< 涙目の透明を破る >

「すくいちゃん、コロッケ食ってきな!」
「わあ嬉しい! わたしカニが好きですカニが」
 商店街の人たちとはすっかり親しくなった。精肉店のおじさんが揚げたてのコロッケを掲げてわたしを呼ぶものだから、つい足がそちらに向いてしまう。
 環くんはじとりとこちらを見ている。これは「パトロール中にコロッケ食ってんじゃねえよ」って思っている顔だ。
「……ま、まあまあ! 怒らないで! ほら、カニクリームコロッケだよ。サンイーター」
「怒ってはいないよ。元々こういう顔だ」
 またまた、と背中を叩けば環くんは黙ってコロッケを受け取った。
 危なかった。これが普通のコロッケだったら関係に亀裂が入っていたかもしれない。
「コロッケおいしー。食べ収めかもしれないから、味わって食べないとね」
「先日もそう言っておにぎり貰ってたよ」
「だって御馳走してくれるって言うから……。食べ物に罪はないかなって」
 環くんは黙ってコロッケを頬張る。確かに、ヒーローの格好をした二人がコロッケを食べ歩いているのは少し行儀が悪いかしら、と辺りを見回せば商店街を歩く人たちも何かしらの食べ物を手に持っていた。この地域では東京よりも緩やかに時間が流れていて、こういうことが許されてしまうところがある。

 この3ヵ月で、環くんとの距離は各段に縮まった。事務所にお邪魔したころは目を合わせてくれなかったのに、最近じゃ他愛もないおしゃべりができるようになった。
 環くんは、とても思慮深い。臆病で自分に自信が無いというけれど、そのせいか言葉を口にするときは熟考してから話し出すので、人を傷つけるようなことは言わないし、弱い人の気持ちを理解している人だと、思う。
 だから、落ちこぼれたわたしは、とても楽をさせてもらっている。
ヒーロー科の友人とも連絡を取っているけれど、会って話せばどうしてもモヤモヤした気分になってしまう。羨ましい、とか、どうしてわたしが、とか。ドロドロして、どんどん沈んで行ってしまうような感情を抱きたくないのだ。
 両親も、先生も、友人も、自分だって、個性を取り戻してヒーロー科を卒業することを切望している。動かない左腕が、変化しない右手が、憎くって仕方ない。「役立たず」と言われているような気がする。随分、個性に頼って生きてきてしまった。

「今日は、特に異変も無かったな」
「コロッケ食べて終わっちゃったね」
 両親から日が落ちる前に帰って来いと言われていたから、今日はパトロールが終わったらお先に失礼することになっていた。私服に着替えてファットさんに挨拶を済ませると、環くんに声をかけられた。
「お疲れ様。あのさ……、…………すくいさんは、どうしてヒーローになりたいんだ」
 自分から話しかけたくせに、環くんはそわそわと身体を揺らす。
 志望動機は雄英に入学する前に嫌になるくらい言わされてきた。けれど、彼も丸暗記している余所行きの回答が聞きたいわけではあるまい。
 わたしは少し考えてから口にする。空回りしてると思われなきゃいい。
「憧れ、だからかなあ。人の為に一生懸命になれる生き方が格好良くて憧れて、自分がそうなれたら良いなって思ってから、ずっと目指してたから」
「……そうか」
「うん。個性が戻っても戻らなくても、あと1ヵ月お世話になります!」
 タイムリミットは、あと1ヵ月だ。それでだめなら、わたしは普通科を目指そうと思う。
 環くんはわたしの言葉に一瞬目を見開いて、何かを言おうと唇を動かした。けれどもそれが言葉になることは無く、唇は一文字に結ばれてしまう。
「したら、またね。今度数学教えてー」
「え……。まあ、善処するよ」
 最近露骨に嫌そうな顔するなあ。仲良くなった印? それとも純粋に嫌なのかな……。それはちょっと傷付いちゃうな。なんだかんだ聞いたら教えてくれるから、嫌われてはいないと思うんだけれど。
 そんなことを頭の隅で考えながら、ケーキ屋さんに立ち寄った。今日は母の誕生日なのだ。母の仕事が終わる前に帰ってくるように、と父から強く言われている。ここ数ヶ月はわたしのことで色々悩ませているからか、心なしか皺が増えたような気がする。
 店員さんが箱を開けて、注文していた品を見せてくれる。イチゴが沢山乗った生クリームのケーキは粉砂糖とアラザンが光って、とてもおいしそうだ。プレートに名前まで書いてもらって、これなら母も喜ぶこと間違いなし。いつも心配をかけてごめんねって、きちんと伝えなくちゃね。
 美味しそうな食べ物って、見ているだけで幸せになっちゃう。抱きしめるようにケーキの入った箱を抱えてバスに乗った。
 普段は電車を使うのだけれど、たまにはバスも良い。都市間バスならば1時間も揺られていれば家に着くだろう。
 夕方のバスは適度に混みあっていた。運よく席に座ることができて、わたしは徐にスマホを触る。これから帰る、と父に連絡を入れて、あとはネットニュースでも見て時間を潰すつもりだ。――と、ひとつの記事が目についた。
『服役中のヴィランが逃走。関西地方に潜伏した模様』
 そういえば今朝方警察から事務所に電話が入っていた。逃走した犯人たちは厄介な個性を持っているらしい。パトロール中もよく警察の車両が目に入った。
 江州羽市の周辺には潜んでいないのだろうけれど、きっとファットさんも環くんもこの後は警察に協力して逃走犯探しに奔走することになるのだろう。わたしが手伝えるのは事務作業とパトロールまでだ。
 ――次、止まります。止まります。
 アナウンスを聞きながら、わたしはふと異変に気づく。
バスが減速しない。
バス停で立ち止まる人々を気にも止めずに、そのままぐんぐんと加速していく。座席から首を伸ばす。信号は、赤だ。
「嘘っ……!」
横断歩道を渡っていた歩行者が驚いた顔を浮かべて―――、けたたましい音を立てて、数人が錐揉みのように吹っ飛ばされた。フロントガラスに血が張り付く。
 絶叫。悲鳴を上げる乗客を気にもせずに、バスは市街地を抜けていく。
 車内を見回す。乗客は老人や子連れのご婦人が多いようで、都合よくヒーローが同乗しているなんてことはなかった。早急に応援を呼ばなければ被害は広まる一方だろう。
(……あれ?)
先程までニュースを眺めていたはずのスマホの画面は暗いままだ。充電は十分残っていたはずである。他の乗客の通信機器も電源が落ちているようだった。
 助けを呼ぶのは二の次になった。そうなれば、運転手を止めるのが最優先だ。わたしは座席から飛び出した。
 運転手はぐったりと首を傾けているが、ハンドルを握る手には力が込められているように見える。ミラーに映る姿はまるで操り人形のようだ。
「運転手さん!! 止めて!!」
 走り寄れば、新たな異変に気づく。バスの計器が狂っているのだ。電光掲示板には文字化けしたような言語が点滅し、ナビもなにもかもがしっちゃかめっちゃかだ。
(――精神干渉、電磁操作。こら厄介な奴等が逃げ出したなァ)
 電話先と話していたファットさんの言葉が突然頭に浮かぶ。
 全身から汗が噴き出す。
 運転手の肩を掴もうと手を伸ばした瞬間、わたしと運転手の間に、身体が割り込んだ。
「お姉さん、走行中は立ちあがっちゃいけないよ」
 目の前にいたのはわたしよりも小柄な少年だった。目深にフードを被った少年は、緊迫した状況なのに白い歯を見せて笑う。
 逃走した犯罪者は3名だった。精神干渉、電磁操作、それから最後の一人の個性は……思い出した。『剛腕』だ。
 巨大化した少年の腕が容赦なく振るわれる。ぐわんと風を切る音が聴こえたと思った時には、わたしの身体は最後部の座席まで殴り飛ばされていた。背中が椅子に当たり、肺の中の空気が押し出される。
 悲鳴、悲鳴、遅れて全身に痛み。身体を起こせばぼたぼたと顔から血が落ちた。後ろの座席に座っていた少女がガクガクと震えている。
 ああ、怖い思いをさせて、ごめんね。大丈夫だから、大丈夫。わたしは全然なんともない。そう言いたいのに、呼吸ができない。
「あ、あー。皆さま本日は西共バスにご乗車いただき、誠にありがとうございます。さて、このバスは江州羽を出発いたしまして、一時間後には東京――ではなく、地獄へ到着いたします。それまで、皆さまどうぞごゆるりとお過ごしください。当車には皆さまに満足していただけるように、操り人形から爆弾、銃器まで、揃っておりますので」
 掠れた声のアナウンスが車内に響く。
 わたしは鼻血を拭う。手の甲が真っ赤に染まる。
 小さい子供を連れたお母さん。お土産の紙袋を抱えたおばあちゃんに、バス通学の小学生。車内の乗客が全員、真っ青な顔をして涙を堪えていた。
 誰一人地獄になんて行かせるものか。
 地獄に行くなら、お前達だけで勝手にいきなさい。悪党め。


prev next
back