< かみさまの匙加減 >

 周りの乗客の肩を借りて身体を起こし、状況を整理する。
 座席の前方に陣取る“精神干渉”と“電磁操作”は銃を持っている。“剛腕”は彼の腕自体が強力な武器である。”精神操作”は運転席の隣に座り、”剛腕”は乗客を見回している。銃を構えて通路を歩き始めたのは先ほどアナウンスを声高にかけた”電磁操作”だ。軽薄な性格なのだろう。
 関西地方を滅茶苦茶に走行しているであろうバスは嫌でも目立つ。そもそも接触事故を起こしているのだ。警察が気づいて追跡してくれていれば、そう時間も経たないうちにヒーローが到着するだろう。
 バスは高速道路を走行していた。インターチェンジの入口の電光掲示板が滅茶苦茶に発光している。”電磁操作”の影響範囲は想像よりも広範囲に及ぶらしい。個性を強化させる薬剤を摂取している可能性もある。
 静まり返ったバスの中で、突然泣き声が響いた。小さな女の子が泣いている。銃を構えたバスジャック犯に怯えたのだろう。隣に座っていた母親が血相を変えて女の子を抱きしめる。それでも泣き叫ぶ声は収まらない。
 乗客が親子に心配そうに視線を送る。それでも、ヴィランを前に誰も立ちあがることはできずにいた。
「うるせえなあ、クソガキ。まずお前から死ぬか」
 “電磁操作”が銃を子供の額に突きつけた。母親が子供を抱きしめる。
「お願いします、助けてください。お願いします、泣き止ませます、泣き止ませますから!」
「どうせ一人一人殺していくつもりだったんだ」
 セーフティを外す音。照準を女の子の額に合わせる。母親が子供を守るように覆いかぶさる。
 ――考えるよりも身体が先に動く。そうは中々ならない。臆病者はまず足を一歩踏み出すことから始めなくちゃならない。
 一歩踏み出せば、あとは身体を前に倒すだけで、進む。パンプスが途中で脱げた。転がるように走って、銃を持つ“電磁操作”に向けて身体ごとぶつかった。体制を崩した男の腕ごと銃を掴んで天井に向ける。発砲、それから火薬の匂いが立ち込める。心臓がけたたましく騒ぎ立てる。
「てめぇ、邪魔しやがって……!」
 馬乗りになっていた身体を蹴り飛ばされて床に転がった。
 男が銃を取り戻そうと手を伸ばす。銃を抱きしめるようにして、口を開いた。
「っ……! 乗客に乱暴しないで!!」
 声が震えた。わたしの身体も震えている。恐ろしいのだ。目の前の光景が、この状況が、怖くて堪らない。それでも、足を止めちゃ、だめだ。
「勘違いしてんじゃねえぞ、ヒーロー気取りの馬鹿女が」
 男の膝が腹部にめり込む。胃液がせり上げてきて、口の端から昼に食べたお好み焼きが飛び出した。顔を上げようとすれば今度は後頭部を殴打されて、わたしは簡単に沈む。咳き込むと血の混じった胃液が吐き出された。息をする暇もなく、殴打が襲う。相手は、わたしをいたぶって楽しんでいるようだった。
「……やめろよ!」
 頭を踏みつける脚が、持ち上げられた。
 薄目を開けて声の主を探せば、その声は学校鞄を背負った少年のものだった。
 彼はぶるぶる震えて掌をこちらに向けている。“電磁操作”は腕に刺さった五センチほどの針を引き抜いた。それは少年の個性だった。
「良い度胸じゃねえか、ガキ」
 勇敢な少年はぼろぼろと涙を流してへたり込む。嬉々として少年のもとへ向かおうとする“電磁操作”の足を掴むけれど、簡単に振り払われる。ああ、やだ、あの子が殺されてしまう。
 神さま! ううん、助けてくれるなら誰だって良い。
 もう自分が傷付くことに対して恐怖など感じていなかった。ただ、目の前の人たちを救えないことだけが恐ろしくてたまらない。
 わたしができることならなんでもする。ヒーローになんかならなくていい。“個性”も、なんにもいらないから。この人たちを助けて。ーー助けたい。
「――あぁ、っ、ああああ!!」
 身体中が痛い、骨が折れているかもしれない。口の中が血の味がする。
 今更、自分がヒーロー科を目指していた頃を思い出した。憧れだ、とか人の為に、とか耳障りの良い言葉を並びたてていたけれど。結局自分が満足したかっただけなのかもしれない。
 いまだって、自己満足だ。今ここで足を止めたら一生後悔する。わたしを助けるために声をあげてくれたあの男の子を救えなかったら、わたしは、自分を一生許せない。
 手を伸ばして、服の裾をもう一度掴む。
「うぜえ! 順番に殺してやるから、焦るんじゃねえよ」
 銃口がこちらを向く。乗客が悲鳴をあげる。対象から外れた少年に、逃げてと言いたいけれど、バスは動き続けている。逃げ場はない。
 ―――目を瞑る。弾丸が金属にめり込む音がした。衝撃を待ちかまえていたが、一向に痛みは襲ってこない。恐る恐る目を開ければ、眼前の光景に思わず笑いが込み上げてくる。
 わたしの右手はつるりとしたスプーンに形を変えていて、丈夫な金属となった掌は銃弾を傷一つなく受け止めている。
 わたしの個性ーー“計量匙”が発現していた。
(……戻って、きたんだ)
 あんなに渇望していた個性だけれど、正直今の状況を打破するだけの力はわたしの個性には無かった。けれど、長年共に居た能力が戻ってきたというだけで、心なしか安心できる。身体もなんとか動かせそうだ。
「……あ?」
 跳ねるように這いつくばっていた状態から身体を起こした。幸いなことに“電磁操作”は戦闘向きの個性の持ち主ではないことが今までの行動でわかっていた。生身の身体とわたしの“匙”ならばこちらのほうが硬い。
 銃を再度わたしに向けるまで。一秒に満たない時間だとしても立派な隙である。相手の間合いまで踏み込んで、顔面に向けて拳を叩きこむ。インパクトの瞬間に匙の重さと大きさを変えるのがコツだ。
 ゴッ、と鈍い音がして速度を纏った重い金属の塊が顔面を殴打した。“電磁操作”が後ろ向きに倒れ込む。もう二三発ぶん殴ってやりたいところだけれど、そうも言っていられない。
 乗客に彼を拘束するように指示を出す。それから、小さなヒーローに声をかける。彼の抱えていたお道具袋から一寸拝借したいものがあった。ありがとうね、と伝えれば彼は堰を切ったように泣き出した。
「みなさん、危なくないように席にいてください……!」
「……また殴られたいみたいだね、お姉さん」
 乗客に声をかければ、今度は“剛腕”がわたしを待っていた。狭いバスの中での戦闘は向いていないだろうに、少年の姿の剛腕は笑みを湛えたままこちらを見ている。
 先程殴り飛ばされた腕は脅威だ。距離をとって戦いたくとも、車内ではそうもいかない。けれど、それは相手にとっても同じ条件であった。
 何度も重ねて言うけれど、わたしのこの個性は災害時のボランティア向けなのだ。だから、考えることは戦闘に勝つことではない。わたしの目的は単純だ。
 バスを止める、それからヒーローの到着まで時間を稼ぐこと。
 いまや昏倒している“電磁操作”の個性によって、この周辺の信号や電子機器は狂わされている。
 他の車両が見えないのは、このバスが通る道路以外を封鎖させているか、渋滞を故意に起こしているかのどちらかだろう。警察による追跡も上手くいっているかわからない。バスの運転手は操られているから、無理矢理ハンドルを奪うことも難しい。
 そこで、だ。
 わたしは目の前の“剛腕”の背後、運転席の真横に視線を向ける。そこには一つのレバーがある。非常用の緊急停止レバーだ。公共交通機関にはこういった安全装置が付いているのだ。
「……やってみなさいよ、クソガキ」
「みっともなく内臓ぶちまけて、圧死しろよ!」
 ふん、と鼻を鳴らせば“剛腕”の神経を逆撫でしたようで、巨大な腕がわたしの立っていた場所を直撃する。バスが揺れ、足元に穴が開いた。大振りさせれば乗客に被害がでるのは明白だ。目を真っ赤に充血させた“剛腕”が重たい腕を持ち上げる。
 後ろに跳んだわたしは腕の変異を解き、今度は右手の親指だけを小さじの形にして握り込んでいた。匙には先ほど少年から借りたお道具袋から拝借したものが詰められている。
(ーー最大出力で、“換算”)
 わたしの個性“計量匙”は、両腕を匙に変えたり匙を出したりするだけではない。右手の匙で測ったものの質量と体積を変化させることができるのだ。
 個性の発動によって左手が膨れあがる。“剛腕”に向けて手に溜まった液体を浴びせかけた。
「は、…なんだ、これ……?」
 接着剤が少年の道具袋に入っていたのは僥倖としか言いようがない。
 “剛腕”の身体を覆うように粘着いた糊がまとわりつく。じたばたと身動ぎをするが、思うように体を動かせない。
 わたしは座席を乗り越えて運転席の真横へ手を伸ばす。表面の硝子を叩き割って、レバーを力一杯引いた。
 がくん、と盛大にバスが揺れる。緩やかに減速していくのがわかって、ようやく安堵の息を吐く。

「やるなあ、おまえ」
 声に振り向けば、運転席の隣で呑気に座っていた”精神干渉”が口を開いた。
 目を見て背筋が冷えた。この男がリーダーだ。
 視界の端で乗車扉が開いた。安全装置が働いたのだろう。この速度ならば飛び降りても擦り傷で済む。わたしは息を吸い込んでありったけの大声で叫んだ。
「逃げて!!!!」
 ぱぁん、と“精神干渉”が手を鳴らした。
 一瞬のことで、何が起きたのかわからない。
 扉に向けて足を動かした乗客たちはみな動きを止めて棒立ちになっていた。それからすとん、と座席に腰を下ろす。
「……何を」
「個性だよ。“精神干渉”だ。あいつらが逃げ出すと面倒だから、座ってもらったのさ。おれは騒がしいのが好きだ。なあ、“剛腕”?」
 振り向けば、足止めしたはずの“剛腕”が背後に立っていた。接着された部分を無理矢理動かしたのだろう。皮膚が剥がれている。目の焦点が合っていない。
「っ、が、っ……!!」
 振り降ろされた腕を避ける余裕は無かった。変化させた腕では受け止めきれない衝撃が身体を襲う。ばきばきと骨が軋む音が頭の奥で響いて、脳の芯が揺れる。
「身を挺して乗客を守ろうとしたのは立派だったなあ。個性も使い慣れてる。ヒーロー志望だったのか」
 床に転がって血を吐き出す。自分の変異が解けていることに気づく。限界が近いのはわかっていた。戦闘訓練以外で戦ったことなど殆ど無いに等しかった。身体はがくがく震えて、もう立ちあがることも難しそうだ。
「……っ、ほんもの、ヒーローが、っ……すぐ、来る……」
「そうだなあ。そこで、こいつの出番だ」
 “精神干渉”が指さす先、座席の下には黒々とした機械が置かれていた。“電磁操作”によるアナウンスを思い出す。
「ばく、だん……」
「そう。俺たちはここらでさよなら。丁度ヒーローが来る頃にはーードカン、だ」
「ふざけ、ないで……、止めなさい」
「いいね、愉快だ」
 顔を歪めて、“精神干渉”は笑った。倒れ伏すわたしを乗り越えて、振り上げた足が足首を踏みつけた。ごきり、と嫌な音が鳴る。頭の先まで痺れるような激痛が襲った。
「ほら、はやく乗客を連れ出してやらないと。みんな爆発に巻き込まれて死ぬ」
 捨て台詞を吐いて“精神干渉”と“剛腕”は気絶している仲間を連れてバスを降りて行った。
 真横で爆弾に取り付けられたタイマーが動き出す。指し示す時間は、残り3分だ。
 ―――詰み、だった。
 神頼みは、もうやめた。霞む視界に浮かぶのは二人のヒーローだ。
 やっぱりどうあったって自分の力不足を恨まずにはいられない。ファットガムがここにいたら、サンイーターがここにいたら。乗客に怪我をさせることもなく敵を拿捕することができただろう。
「……ごめんなさい」
 助けてあげられなくて、ごめんなさい。魂が抜けたように座席に座る乗客が、痛みや恐怖を感じないことを祈るばかりだ。
 タイマーの残時間はどんどん減っていく。もう、指一本も動かせない。意識もだんだんと遠のいていく。遠くで、誰かに名前を呼ばれている様な気がした。
 (痛く、なきゃいいな……)
 やがて、わたしは意識を手放した。


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