自陣の最奥、鬱蒼とした森の中でひと際目立つ巨木の枝に腰掛けて、八左ヱ門は大小様々な虫を呼びよせていた。見る者が見れば悲鳴すら上げそうな光景である。甲虫に始まり、羽虫、地を這う蜘蛛や蟻に至るまで、一つの目的を持つかのように彼の傍に集い、そして指示を待つかのように固まっていた。
生物委員会委員長代理を務める八左ヱ門は虫獣遁の名手であった。元来動物に好かれる性質の彼は、歳を経る度にその魔性ともいえる才を伸ばしていき、特技の域まで成長させた。狼や鷹のような大きな動物から、一寸足らずの小さな虫たちまで自在に操る彼の技術は、学生ながら忍術学園の教師たちもが一目を置くほどであった。
今回の演習で八左ヱ門に与えられた役割は後方支援であった。演習の舞台である裏裏山には動物が数多く生息している。獣の吐息一つ聞き逃さないように、張りつめた糸のように彼は集中していた。
ふと聴こえた羽音に八左ヱ門は腕を上げた。せわしなく飛んで来て八左ヱ門の指先に着地したのは雀であった。枝に群がる虫たちに見向きもせずに、雀は八左ヱ門の目を見て小さく鳴いた。
「良く来たなあ、すず子」
名を呼ばれると、雀は嬉しそうに飛び跳ねた。頬を撫でてやれば小さな足を向ける。そこには小さく折りたたまれた文が結ばれている。この雀は瑠璃が使役している忍鳥であった。
文を開けば、簡素な地図と×印が描かれていた。指先に血を付けて書かれた内容に、筆をとる余裕も無かったのかと自然と気が引き締まった。
演習が始まる前に、八左ヱ門は瑠璃にひとつ仕事を頼んでいた。
「敵と遭遇したあと、自陣に戻るまでの間、蜘蛛の巣を見つけたらその数と位置を教えてほしい」
視界に入った分だけでいい、と伝えていたのだが、彼女は目を凝らして探してくれたのだろう。
名残惜しいというように擦り寄る雀を放して、八左ヱ門は筆を舐めた。器用に丸めていた紙を膝の上に広げ、そこに先程の文から得た情報を書き込んでいく。瑠璃が伝えたのは蜘蛛の巣の数だけだ。けれども、八左ヱ門にとっては敵の足取りを掴む重要な情報のひとつであった。相手の潜んでいる場所を絞り、見当をつけ、行動範囲を円で囲む。瑠璃たちが遭遇した場所、勘右衛門が遭遇した場所、八左ヱ門の下に集まる情報を整理していけば、相手の行動は自然と掴めていく。
力強い筆跡で筆を走らせ、八左ヱ門は口笛を吹く。柔らかな羽音を立てて、今度は鴉が肩に止まった。主人の作業を邪魔しないように、鴉は黙って彼の手先を覗き込む。
八左ヱ門が地図を書き上げると、主君に忠誠を誓うように鴉は頭を下げて、その足に括りつけられた地図を運ぶために飛び立った。真直ぐに文次郎のもとへと向かうだろう。
森の奥へ消えた鴉を見送って、八左ヱ門は律義に待機していた虫たちに指示を出す。小さな虫に、八左ヱ門の指示を理解するような知能はない。ただ、彼は昆虫たちの習性を利用しているだけであった。虫たちが待機していたのは、彼が焚いていた香の匂いによるものである。
八左ヱ門が用意した、または引寄せた虫たちは、この場所には生息していない種である。少しでも異なる場所で虫たちが普段通りに生活するとなれば、本来住んでいた生物との縄張り争いが起きる。ほんの微々たる変化であっても、八左ヱ門にとっては十分であった。
「さあ、頼んだぜ、お前たち」
袖から出した香を仰げば、虫たちは漫ろに動き出した。
さて、これで彼の仕事はひと段落だ。八左ヱ門は腕を伸ばして、骨を鳴らす。
「よし、行くか。うちのお姫様を守ってやらなくちゃなあ」
朱色の硝煙が二発、空に揺らいだ。教師が打ち上げた脱落の合図だ。
三郎の報告から、落とされたひとつは長次、もうひとつは兵助であることが推測できた。
自陣の周りに罠を仕掛けていた留三郎のもとに戻ってきた三郎と牡丹は二人して「面目ない」と頭を下げた。普段は殊勝な表情を浮かべる後輩が意気消沈する姿は見慣れない分可愛らしく映り、留三郎は二人を笑い飛ばした。
「なに、大局を掴みそこなうのは偏に大将の力不足だ。それに。追い詰められた方がお前等、燃えるだろ?」
留三郎の瞳の奥に揺らめく炎は周りを巻き込んで煌々と燃える。あとひとり、札を奪わればこちらの敗北だというのに、彼は敗北の二文字を考える隙すらも与えない。三郎も、牡丹も、矜持の子だ。付き合いが長いわけでは無いが、留三郎はこの手の後輩を焚き付けるすべを識っていた。
この鷹揚な男に踊らされていることは、三郎も牡丹もわかっていた。それでも、彼の言葉を聞けば自然と胸の奥が熱くなった。まるで、彼の燃える瞳が火を灯したかのように。
こくり、とふたりは頷いた。
長次が三郎を逃がすために時間を稼いだことも、兵助が単身で八左ヱ門を追ったことも、無策から生じた選択ではない。忍びは合理的ないきものである。無駄な行動などするはずが無いのだ。
「さて、これからどうする? 参謀」
留三郎は三郎を見つめた。三郎は牡丹と視線を合わせる。この間、留三郎が無策でいるわけがない。彼自身もこの演習の勝利への道筋を立てているはずなのに、あくまでも「参謀」を立てるのだ。
敵わない、と三郎は息を吐き出した。
「当初のまま、進めさせてください。食満先輩の罠を掻い潜るのは例え七松先輩や潮江先輩でも容易ではないでしょう。瑠璃の捕縛が最優先です」
厄介なのは、相手がこちらの行動を読んでいることだ。八左ヱ門は森の奥へ奥へと逃げたが、今思い返せばあれは誘い込まれていたのだ。だからこそ、兵助はひとりで戦うことを選択した。
熟考していた牡丹が口を開く。
「私たちが戦った相手は、八左ヱ門くんでは無かったかもしれません。蜘蛛の巣をやたらと見かけました。きっとあれは彼の虫でしょう」
「久々知が戦った竹谷は、誰かの変装ということか?」
留三郎の問いに、三郎が舌打ちをした。
「あの狸。変装が私の十八番とわかってやったな」
「ご丁寧に狼まで連れて、芸が細かいですね」
兵助と戦ったのが勘右衛門だとすれば、彼とて無傷では済んではいないだろう。牡丹は先刻までの戦闘を思い出す。随分と上手に微塵を使いこなしていたものだ。この学年は本当に変装の技術が高い。友人に甘い変装名人と切磋琢磨しているお陰だろうか。
三郎が唇を噛んだ。
「しかし、八左ヱ門を潰せていないのは痛いな」
「私に考えがあります。任せてもらえませんか」
牡丹が声をあげた。三郎と留三郎が彼女を見つめる。
「きっと彼らは自陣に戻っています。緻密に作り上げた箱庭を崩してやりましょう」
「策があるんだな、牡丹」
「ええ、けれど、これは同学年の皆さんにも見せていないので、どうかお二人とも内密にお願いしますね」
妖艶さすらも漂わせる笑みに、三郎は思わず手に汗を握っていた。牡丹の不敵な発言に、留三郎が拳を掌に打ち付けた。
「よし、俺が十村を捕らえる」
留三郎が瑠璃を捕らえ、自陣に攫ってしまえば、相手は手出しができないだろう。それは一つの勝ち筋であった。牡丹の発言に間髪入れずに乗った留三郎の豪気は士気を上げるには十分だった。
「三郎くん、それじゃあ私たちは鬼退治といきましょうか」
「……本気か?」
返事の代わりに牡丹が微笑んだ。鬼、と彼女が指すのは可愛らしい同輩などではない。まことの鬼だ。牡丹は三郎に「小平太と文次郎を相手にする」と言っているのだ。
「おいおい、本気かよ牡丹」
「私たち二人で二人を下すことは難しいです。けれど、一人なら何とかできるでしょう。いいえ、なんとかしなくちゃ勝てないんです。手負いの勘右衛門くんと八左ヱ門くんを下しても二枚、あと一枚が足りませんものね」
牡丹たちはあくまで姫役の奪取を目指す。けれども、勝利条件が二つ用意されているのなら、もうひとつの方法を押さえておくのもまた、当然であった。結局、姫役を奪うのならば小平太と文次郎との戦闘は避けられない。避けられないのなら、自分たちから向かっていってやる。
牡丹は見た目よりもずっと気性の強い女であった。
「お前が昔、熊を蹴り殺したのを思い出すよ……」
「殺してないです」
二人の掛け合いに、留三郎が堪えきれずに噴き出した。
二人と別れた牡丹は相手の陣地へと向かっていた。
森の奥、日のあたらない場所を選んで、彼女は木の下に屈む。地面は腐葉土が溜まり柔らかく、空気は湿っていた。辺りを見回し、牡丹は左手の手首を苦無で傷をつけると、玉になった血液を地面に数滴落とした。呪言を唱え、印を組む。ざわり、ざわりと彼女の周りの木々が音を立てる。
虫獣遁を得意とするのが八左ヱ門だけだと思わせておくのも、彼女の作戦であった。牡丹が生き物を使役できることを、同学年の生徒たちは知らない。
透き通る身体を持つ大小さまざまな蛞蝓が彼女の周りに這い寄ってきていた。
牡丹は囁くように彼等に話しかける。
「良く来てくれましたね、早速ですがお願いがあるんです。邪魔な蜘蛛の巣をすべて溶かして、貴女たちの棲み処を乱す生き物がいたら、きれいに片付けて欲しいんです」
蛞蝓たちは意思があるかのように牡丹の言葉に頭を揺らす。
牡丹が両の掌を打ち鳴らした時には、幻のように蛞蝓たちは姿を晦ましていた。
(演習に生き物を連れてくる覚悟くらいはしているでしょう)
蛞蝓を好んで飼育する生徒は、一年は組の山村喜三太が知られているが、牡丹の使役する蛞蝓はその身に猛毒を宿していた。牡丹の生家である楪一族は薬学に精通する忍び里である。幼少のころから薬や毒に身体を慣らしている楪の者は自身の使役する動物や虫も毒のある生き物を選んだ。牡丹の蛞蝓は毒草や薬草を与えて育てた変異種である。
彼女の足元で、一羽の小鳥が死んでいた。嘴の端から泡を噴き出している。蛞蝓の分泌した液を口にするだけで、野生の動物なら即死するほどの猛毒だ。
「五、六年ともなれば、即死はしませんよね」
さて、と牡丹は歩きだした。一定の間隔で、懐から取り出した小石を落としていく。これも、同輩たちには見せたことのない術だ。
(まったく、大盤振る舞いですこと)
卒業まで見せることは無いと思っていた術を二つも出させるなんて、だからこそこの学園は面白いのだ。思わず浮かんだ笑みを隠すこともせず、牡丹は足を進める。
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