小平太は単身で紅組の砦に向かっていた。
 枝を力強く掴み、身体を前に進める。長次との戦闘で大きな怪我を負わなかったのは僥倖だった。藍組の要は小平太の戦闘能力だと誰もが理解していたからこそ、三郎や長次と対峙した際は小平太を温存するように動いていたのだ。
 そして、札が二枚取られ、姫役の瑠璃が奪われたこの状況だ。小平太はようやく自分の出番が来たと胸を躍らせていた。
 瑠璃を取り返さねば藍組の敗北は決してしまうが、それは制限時間まで姫役を砦に留めておくことが条件だ。先に札を奪ってしまえば勝ちなのだ。それなら、勝利に向かって動いていると思い込んでいるだろう後輩たちに教えてやらねばなるまい。
(成程。自陣にも毒を撒いたか)
 指先に僅かな痺れを感じて反射的に背後を見る。頭を引けばその目先に鏢刀が飛んだ。小平太の瞳が即座に攻撃の飛んだ方向を見据える。
「鉢屋、楪。お前たち二人か」
 声の方向には三郎と牡丹が木の上で隠れていた。鏢刀を放った三郎は小平太に気配を気取られることを覚悟していたが、殺気を消していたはずの牡丹は、小平太の勘の良さに背中に汗を伝わせ、静かに忍び刀を構えた。口調に反して、鋭い瞳はまるで手負いの獣だ。
「いいのか、留三郎を連れてこなくて」
 跳弾のように飛びかかってきた小平太が力任せに苦無を振り下ろす。受け流すために合わせた刃はもう使い物にならないだろう。流れるように刀を投げ捨てて、牡丹は呻いた。
 牡丹と三郎は、小平太の足止めに名乗りをあげた。足止めのみと言わず、札を奪う算段であったが、気を抜けば勝負は一瞬で決する。
 空を仰げば太陽は真上を過ぎたところだ。半刻は凌ぐと三郎は留三郎に宣言したが、伸し掛かる重圧に対して時の進みはやけに遅く感じた。
 どちらも現段階では札の枚数は同じである。姫役を奪われている藍組の方が劣勢だが、厄介なのは札を三枚奪われた時点で勝敗が決まってしまう点だ。
 足止めを行わなければ間違いなく瑠璃は奪還されてしまう。とは言え、三郎の札を奪われてしまえばその瞬間に敗北だ。
 小平太に隙は見当たらない。ひりついた空気が皮膚から染みていくように、緊張が牡丹と三郎を蝕んでいく。
 息継ぎをする間も無く、棒手裏剣が放たれた。目の前に鋭い切っ先が向かってくるまで、牡丹が反応できない速度で打たれるのだから恐ろしい。額を貫く前に、懐の鉄扇で叩き落とす。牡丹の表情は変わらないが、白い頬に一筋汗が伝った。
「ほお、反応できるか。楪、なかなかやるな」
「……私じゃなかったら、仏様が増えていましたよ」
「わはは! 避けられん奴にはやらんさ」
 手合わせも殆どしたことが無いというのに、小平太の審美眼は確かであった。自分の実力を高く見積もられていることに悪い気はしないが、牡丹も小平太の高い実力を痛感していた。
 幼い頃から共に鍛錬をしてきた三郎との連携は身体に染み付いている。牡丹は後ろに飛んだ。追撃しようと飛んだ小平太に向けて三郎が斬りかかる。札を狙う余裕はなかった。
「余所見はさせませんよ、七松先輩」
 無駄口を叩く余裕があるのか、三郎に目線を向ければ、彼は借り物の顔を歪めて笑っていた。
気を抜けば彼と同じ表情を浮かべてしまいそうで、牡丹は自身の頬に触れた。熱い。目の前の小平太が震えるほどに恐ろしいのに、腹の奥が熱くなるほどに昂りを感じる。この瞬間が、愉しい。愉しくて堪らない。この演習は正に宴なのだと牡丹は鉄扇を握る指先に力を込めた。



「むご」
「……目が覚めたのかよ。どんな耐性してんだ」
 紅組の砦で、縛り上げられた瑠璃が目を覚ました。猿轡をかけられた彼女は留三郎を見つめては哀愁に溢れた瞳で声をかけてくる。
「むごむんむご……」
「悪いが猿轡は外せねえ。もう暫く辛抱してくれ」
 くのいちは恐ろしい。それは忍たまたちの共通認識であった。男性よりも女性の方が精神的に早く成長するとは聞くが、くのたまたちの精神的な成熟は一層早かった
 留三郎も例外ではなく、忍たまたちは低学年の頃からくのたまたちに手酷くやられるのが常だった。うつくしい笑顔を浮かべる少女たちの作る料理を食べて、厠から出られなくなったことも一度や二度ではない。
そんな中で牡丹と瑠璃は穏やかな生徒であった。中学年になってからは忍たまの委員会にも顔を出し始めたが、彼女たちが忍たまたちに恐れられているという噂を耳にしたことはなかった。同時に、くのたまに悪さをしようと企む不届き者は上級生たちに成敗されていたので、当時から人を篭絡する術は身に着けていたのかもしれなかった。
『お人好しで、やさしい先輩』と瑠璃を知る後輩は言う。
 忍びを目指す中で「お人好し」などという評価は不名誉だ。それでも瑠璃は忍たまたちにも慕われる穏やかな人柄を崩すことがなかった。その頑なさは伊作に似ていて、ふたりの共通点が留三郎を僅かばかり不安にさせた。
(そもそも、楪の毒を盛られて目覚められるもんなのか)
「……む、むごむんむご」
「ん?」
 芋虫のように縛られた瑠璃が留三郎に何かを言った。まろい瞳が一瞬細められたことに違和感を覚え、留三郎が背後を見る。ころり、砦の入口から転がってきたのは焙烙火矢だった。
 それは立花仙蔵が得意とする火器だ。だからこそ、誰が投げ込んだのかすぐに気付いた。導火線の火を消そうと駆けるが、あと一歩足りない。
 留三郎が蹴り上げた瞬間に陶器が割れる。導火線の火は揺らいだまま、爆発を巻き起こした。火薬によって割れた破片から顔を守ろうと腕を上げるが、嘗めるような熱の代わりに吹き出したのは濃厚な煙幕だった。
(――っ、鳥の子か!)
 火薬の扱いを得意とするのは音に聞こえる立花仙蔵。それから、久々知兵助が委員長代理を務める火薬委員会の面々だ。だからといって、彼等以外が火器を使わない理由はない。留三郎は数歩下がり、瑠璃の腕を掴む。奇襲は読んでいた。逃げ出されてたまるか。
「十村! 会計委員たるものが、簡単に捕まってどうする!」
「むご!?」
「関係ねぇだろ鍛錬馬鹿がよ!」
 煙幕の中、怒声が響く。どうやら好敵手たる男は、隠れるつもりもないらしい。どこまでも忍びらしくない戦い方を選ぶものだ。留三郎は口元を歪めて鉄双節棍を構えた。当然、嫌いではない。これは任務ではないのだから。
 指先にひやりと冷たいものが触れる。
 掴んでいたはずの細い腕がぬると抜けた。留三郎の手に残ったのは包帯だけだった。
「このっ……」
「潮江先輩、ご武運を」
「十村、まだ仕事は終わってねえぞ」
「……はい!」
 文次郎が投げた苦無を受け取ると、瑠璃は出口に向かって駆け出した。痺れが残っているのか転がるように走りだす彼女の前に留三郎が立ち塞がる。
「させるかよ……っ」
「それは俺の台詞だ。馬鹿者が」
 文次郎の袋槍の切先が留三郎の伸ばした指先を遮る。
 視界の悪い中で、二人の男が対峙する。金属が派手にぶつかる音が煙の中で鳴り響く。瑠璃は文次郎が作った隙を縫って脱出に成功していた。
 砦から逃げ出した姫君が向かうのは、ある場所だ。

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