02
夢を見た。
懐かしい夢だった。
幼い頃の思い出、いつも一緒にいたあの子。
若くして倒れたお母様は静かな人だった。手先が器用で、いつも縫い物をしていた。お母様は、幸せだったのだろうか。幼いわたしは、そんなことを気にしたこともなかった。幸せだとか、不幸せだとかよりも、毎日必死で、楽しくて。
「もしも、わたしがお姫様だったら」
ふと、夢の中の台詞を思い出した。お姫様になりたがっていた少女の言葉だ。口に出してみると懐かしさに満たされた。
きっと似合うだろう、と波瑠は思う。あなたは綺麗だから。こんな襤褸布じゃなくて、真っ白いドレスを着て、素敵な男の人たちに求婚されるのだ。それでも、あなたは微笑んで求婚を断る。
「あら、私に勝てる男性じゃなくっちゃ、結婚なんてしたくないわ」
ちょっと芝居がかった口調で言い放てば、男の人たちはたじろいでしまう。それを見ている自分は、大きく口を開けて笑うのだ。お姫様は大口を開けたりしてはいけないのだから。
清潔でもない、物だって多くない。いつも空腹を感じていた。けれども何故か輝かしく懐かしい日々を思い出して、波瑠は笑う。右手で口元を隠して小さく笑っている自分に気づいて、すっと胸の内が冷えるのを感じた。
わたしが、お姫様だったら。
「ドレスも、宝石もいらない、王子様の求婚だって、いらない。ただ、しあわせが欲しい」
波瑠の知っている彼女だったら、絶対にこんなことは言わない。美しく着飾って、それでも一番美しいのは、その矜持を称えた漆黒の瞳。与えられたものを活かして、一国の姫を務めたのだろう。
そう。お姫様に憧れていたのは波瑠の親友だ。その「もしも」を聞いた時、波瑠は驚いたものだった。快活で、はきはきと物が言えて、誰にでも好かれる彼女が憧れるのが典型的なお姫様。なんだか意外で、可愛らしく思えたものだった。
「本当に、あなたがお姫様だったら、きっと、こんなことになってないんだろうね。潤ちゃん」
柔らかいベッドから降りて、波瑠は大きな姿見を覗き込む。癖のある焦げ茶色の髪に、鳶色の眼。目ばかり大きくて、不安気に揺れる。幼少の頃よりずっと背が伸びた。自信が無さそうに自分の手を握り、こちらを見返してくる自分の姿と暫く睨み合って、息をつくと、両手で頬を叩いた。しっかりすること。
これはおまじないのような物だった。自分にだけは負けないこと。波瑠はここで暮らしていく時に、それだけを決めた。
ぐいと伸びをして、乳香を焚いておいた菫色の羽織に腕を通す。そのまま流れ作業で顔を洗って、簡単に髪を結った。朝はいつも血色が悪い。唇に紅を差して目元にも少しだけ塗った。
朝の支度が終わるころに、扉が叩かれる。
「波瑠様」
扉を開ければ侍女が頭を下げて波瑠を待っていた。「おはよう」と声をかければまた深々と一礼が返ってくる。もう少し明るく接してくれたらいいのに。口には出さないようにして、波瑠は長い廊下を歩く。すれ違う宮女達はみな派手に着飾って、胸を張って歩いている。美しくあることが存在価値である宮女達は白粉の匂いを振りまきながら談笑を続ける。波瑠が近付いてもお構いなしだ。
「お姉さま方、おはようございます」
先程の侍女のように、宮女たちに深々と礼をする。返事は返ってこなかった。気にする様子もなく、肩を竦めて廊下を進んだ。
波瑠は、この国の次の王位継承権第一位の皇女の地位にあたる。けれども、彼女の立ち位置は王宮の変わり者止まりであった。何故なら、このセロシアの次の王位継承者は世襲ではなく、禅譲によって譲られるのだと誰もが信じているからだ。
血筋による継承ならば今の国王亡き後王位に就くのは間違いなく波瑠である。けれども、今この国を実質的に支配しているのは王の異母弟でもある大臣であった。
波瑠の父親でもあり、セロシア国王である冠菊はもう何年も病に伏せている。そんな兄の補佐を担当していた鶴喰は大臣の地位でありながら、外交から政治経済に至るまで、今では国のほぼ全権を掌握しているのだ。
冠菊が倒れてから、王位継承権を持つ彼の子供たちは運悪くも長く生きることができなかった。不慮の事故や病弱な子供が続き、いつの間にか冠菊の後を継げるものは弟の鶴喰しか残っていなかったのである。そこで、秘密裏に冠菊の直属の部下たちが前妃との間に残された子供を探しに向かったのだ。前妃は気の弱い人で、王宮の鬱屈した嫉妬に耐えられずに王宮を後にした女性であった。
長い廊下を抜け、中庭を通れば現国王の寝所がある。波瑠の顔を見るなり扉の前の衛兵は頭を下げた。
「冠菊国王と面会できるかしら」
遠慮がちに問いかけた波瑠に、若い衛兵から驚いたような声が上げる。
「何言ってるんですか姫様!貴女がいらっしゃるだけで、国王様も元気になられますよ。ほら」
「ありがとね、秀明」
「いえいえ」
綺麗な角度で礼をする衛兵は、幼い頃からの知り合いだ。少女の頃に王宮に入ってきた波瑠にとっては皇女や大臣達よりも衛兵たちの方が親しみやすい存在だった。
「……お父様、わたしです。波瑠です。今日はお加減、如何ですか?」
薄いカーテンによって、ベッドに横たわる国王の姿は隠されている。石畳に膝をついて、手を前に出す最高礼をして声をかければ、難なくカーテンが内側の人物によって開かれた。
「おお、波瑠か。元気だ元気!なんならこのまま狩りにでも出かけられるくらいだ。御幸から聞いたぞ。お前、弓の腕前が随分上達したそうじゃないか。一緒に出かけたいなあ」
現れた国王は半身を起こして微笑んでいる。
まだ五十にもなっていないというのに、随分窶れてしまったと波瑠は思う。明るい声や表情は自分が此処に来たばかりの頃と変わらないのに、伸ばされた腕は白く、病的に細い。
「ぜひご一緒したいです。うさぎくらいなら、簡単に仕留めちゃいますから」
王の寝室にいるのは、警備の親衛隊と、医者だけだ。少しくらい羽目を外したって叱られたりはしない。波瑠は立ち上がって弓を引く真似をする。
「わはは、言うようになったな!そういや、お前ももう十七か。初めて見た時はこれが私と捩花の子供かと疑ったものだったが……綺麗になった」
「お姉さま方のほうが、ずっと綺麗ですよ」
「あいつらは金がかかってるからな。鶴喰にいい加減にするように言わなくては……」
軽快に会話は進む。国王が自身の兄弟の名を挙げたのをきっかけに、波瑠は声を重くする。
「…お父様、おじさまを次の国王にするおつもりですか」
それなら、それでも良いのですけど。
態とらしく、明るい声で付け足した。宮内にこれ以上敵を作りたくはない。国王は呆れたような顔をして続けた。
「なんだ、私が早く死んだほうがいいような言いぐさをして。心配せずとも、まだまだ死ぬつもりはないぞ」
「死なれちゃ困りますけど」
「国王様、そろそろ身体に触りますので……」
側仕えの医者が声を掛けた。冠菊王は肩を竦めて「なんだ、皆して人を重病人扱いして」と笑った。この人の仕草が皆好きだった。
「それでは、お父様。失礼しますね」
「おお、苦労をかける。皆によろしく頼むぞ」
扉の前で深く一礼。
国王の命は、もう長くないと言われている。国の唯一の指導者が伏せている今、先導しているのは彼の弟。その政治が上手くいっているかと言われれば、酷い有様であった。
「お疲れ様です」
扉の前に立っていた秀明が、顔色を見て声をかけてきた。彼も国王の親衛隊の一人だ。
若く優秀な人材を見つける力が国王にはあった。人を惹きつける魅力を持つ人だった。誰もが彼の快活な性格を好み、民草に寄り添う誠実な政治を求めた。民の声に応えようと振るわれる手腕は見事で、宮廷の中でも国王の評価は高いものであったらしい。
今では、弟に王位を早急に譲るべきだと叫ぶ声の方が大きい。
混沌とした宮廷の現状を気に病んでいた波瑠に、秀明が心配そうに言った。
「滝川様が呼んでいらっしゃいましたよ」
教育係の名を聞いて、波瑠はしまった、という顔をする。すぐに表情に出るところは、国王と同じだ。透かすような鳶色の眼は、王族の血を引いていることを告げている。
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