テーブルの上には彩り鮮やかな料理が並べられていた。黄金色のパエリアが鍋ごと中央に置かれて、その横ではオニオンスープが湯気を立てている。茹で卵が二つも乗せられたシーザーサラダに思わず目を奪われる。
「ばっちり準備しておくからね」そう言って自分を送り出した彼女が朝から仕込んだ料理は手が込んでいて、俺が帰ってくる時間に合わせて冷蔵庫から取り出された、冷えたグラスがテーブルに置かれた。
「さあさあ、主役はお席に座ってよ」
 上品なワンピースを着た彼女に背中を押されて席に座れば、グラスにワインが注がれた。
 ―――たかが、誕生日なのに。
 くすぐったいような気恥ずかしさを覚えて、急に肩が重くなる。
 昔からそうなのだ。ヒーローを目指していた頃も、無事にプロヒーローになった今でも性格は変わらない。注目を浴びることが苦手で、どうしても周りの目を気にしすぎてしまう。恋人と二人で借りた部屋にふたりきりだというのに、彼女が用意してくれた“主役の座”に対してどうも居心地の悪さを感じてしまう。
 そんな面倒臭い性格の男を恋人に選んだ彼女は俯く俺のことなど構わずに
「環くん、誕生日おめでとう! 乾杯!」と二人きりの部屋で大声を張り上げてグラスを掲げた。慣れられている、と思った。ガラスのぶつかる音と彼女の声で下らない思考は一息で吹き飛ばされてしまう。
「あ、ありがとう……。……料理、凄いな。朝から準備してくれたのか」
 傾けられたグラスの中身が彼女の唇に吸い込まれていく。
「丁度休日だったからね。お口に合えばいいんだけど。海鮮も沢山入れたから、明日はムール貝でちょっとお洒落に戦ってきてよ!」
 にこりと笑って彼女は皿を手に取った。よそわれたパエリアには言葉どおり具が沢山入っていた。食べたものが
「個性」に直結する俺のために、彼女はいつも具材に工夫を凝らしてくれるのだ。
 街中でムール貝を纏い戦う自分が一瞬頭を過ったが、深くは考えないことにした。
 他愛もない会話をしていれば料理はすぐに空になった。いつの間にかワインボトルも下げられている。
 彼女の制止を留めて、食器は俺が洗った。机を拭く彼女の鼻歌が聴こえてくる。
 皿を拭き終わって戻れば、彼女は少し赤い頬で微笑んだ。
「じゃじゃん! お待ちかねのプレゼントだよ」
 真四角の箱が差し出される。淡い水色の包装紙に銀色のリボンが結ばれた、まるで漫画に出てくるみたいな見た目をした贈り物を受け取れば、それはずしりと重い。礼を言って箱を少し揺らしてみれば彼女は距離を詰めて俺の目を覗き込んだ。
「んふふ、今年は気合入れちゃった」
「君に祝ってもらえるだけで十分なのに、毎年気を遣わせているな……」
 細められた瞳から目を逸らしそうになるのは俺の良くない癖だ。彼女の目は澄んでいて、見つめ続けていれば吸い込まれてしまいそうだ。彼女の目の色をした宝石があればいいのに。そうしたら恥じ入ることなんてなくずっと見つめていられる。
 恋人同士という関係になったというのに未だ彼女に対しても臆してしまう俺は誰から見ても文句なしの情けない男である。そんな俺と付き合い続けてくれる彼女は変わり者なんじゃないか。そんなことを口にしようものなら頬を膨らませるだろうけど。
 案の定彼女は目を吊り上げて口を開いた。
「もう! わたしがあげたいから、あげてるんだよ」
 ああ、まずい。俺は呼吸を整えてから口を開く。
「いや、あの。毎年、君からの贈り物は凄くうれしいよ。……でも、余りに素敵なものを用意してくれるから、俺が選ぶときに延々と頭を抱える羽目になるんだ……」
 自分で言っていて恥ずかしくなる。彼女は俺の誕生日の一月前辺りから急にそわそわし出すのだけれど、俺は自分の誕生日が終わってすぐに彼女への贈り物を考えているのだ。買い物に行けば彼女の話を聞き逃すし、スマホの検索履歴は『恋人 プレゼント』で埋まっている。
「環くんのプレゼントだって毎回大感激だよ。すごく楽しみにしてるんだから」
「今からプレッシャーを与えるのは勘弁してくれ……」
 実際、彼女が俺からの贈り物を粗末にしたところなど見たことは無い。それがずっと続けばいいと願うから、俺は無駄に胃を痛めるのだけれど。
 胃のあたりを押さえれば急かすように彼女が言う。
「良いから開けてよ。環くん、誕生日おめでとう!」
 俺は言われるがまま、綺麗な包装紙を注意深く解いて、白い箱の蓋に手をかけた。


(……ゆめ、か)
 頭上で鳴り響く目覚まし時計を止めれば、表示された日付は俺の誕生日から半年も前だ。
(随分と気が早いな)
 自分の誕生日を祝ってもらう夢を見るなんて、幼い時以来だ。それも嫌になる程鮮明だった。現実に誕生日を迎える時もきっと、彼女はとびきりの笑顔で俺に贈り物を用意するのだろう。
プレゼントの中身を見ることができなかったのが残念なくらいだ。仕事の支度をしながら想いを馳せる程に良い夢だった。
 昨日は、彼女の誕生日だったのだ。友人に心配される程悩み抜いて用意したプレゼントに彼女は声をあげて喜んでくれた。一か月前から予約していたケーキもお気に召したみたいだった。
 けれど本当はもう一つ、プレゼントを用意していたのだ。それは渡せないまま、洋箪笥の奥底に仕舞い込んである。
 彼女と同棲を始めて3年になる。付き合っている年数はもっと長い。結婚式の招待状がポストに届くたび、彼女が余所行きのドレスを着て鏡の前に立つたびに、俺は彼女の華奢な指に似合う指輪を夜な夜な探したものだった。
 半年前から準備していたプレゼントとは別に、前日に密かに用意した小箱は渡せなかった。彼女に掛ける言葉さえ喉に痞えて出てこないのだ。
 今まで、ふたりの関係を進めていくための行動はすべて先手を取られていた。告白だって、くちづけだって。緊張で逃げ出しそうな俺の前で、頬を真っ赤に染めて、目を白黒させて、彼女は俺の手を引こうとする。
 恥ずかしくなるような気の小さい男の謝罪を前に、彼女は言うのだ。
「わたしがせっかちなだけだよ。環くんと一緒にいたくて、触れたくて仕方がなくて、手を伸ばしているだけ。断られたらどうしよう、って緊張はするけどね」
 俺だって、君が好きだ。傍にいて欲しくて、嫌われたくなくて、喜んでほしくて、痛々しいくらい必死になっている。いつか君を追い抜きたいのに、それはまだ敵わない。だから、今回こそはと思っていたのだ。
 気の早い奴だと思われても仕方ない。一年間あれば、俺でも彼女を驚かせられるような演出を考えられるかもしれない。箪笥の奥に仕舞い込んだ小箱のことを忘れたことは無かった。
 準備期間が沢山あるはずだったのに、仕事に追われ、時間はあっという間に過ぎていった。


「さあさあ、主役はお席に座ってよ」
 自分の誕生日というものはどうも、気恥ずかしさが拭えない。丁度休日が重なったと意気込む彼女を置いて仕事から戻ってみれば、食事の準備が整えられていた。
 テーブルの上に並べられた料理は彩り鮮やかで、休日を潰して準備したという彼女の努力が伺える。黄金色のパエリアには綺麗に海老や貝が盛り付けられていた。湯気をあげるオニオンスープ、ボリューム感溢れるシーザーサラダ。
(………既視感だ。ただの)
 偶然、似た夢を見たことがあるだけだ。
 押し黙る俺を気にせず彼女がグラスをぶつける。
 注がれたワインの色まで記憶と同じだった。
「おめでとう! ……あれ、環くん、もしかしてパエリア好きじゃなかった? 明日はムール貝でちょっとお洒落に戦ってきてもらう予定だったんだけど」
「い、いや。そんなことはないよ。準備、ありがとう」
 彼女は目を丸くして、俺のグラスにワインを継ぎ足した。
「いえいえ」
 手の込んだ料理は相変わらず美味しくて、俺は既視感を振り払おうと彼女の話題に相槌を打った。俺たちには共通の友人が多い。だから、彼女の話題に聞き覚えがあるのも違和感は無かった。
 俺は普段通りに食器を洗おうと申し出る。彼女は「誕生日なんだから座っていて」と俺を止める。食器のぶつかる音に混じって、聴こえる調子はずれのハッピーバースデーの曲。
「じゃじゃーん! お待ちかねのプレゼントだよ」
 彼女の手に抱かれているのは水色の包装紙にくるまれた箱だ。俺は、やっぱりこの箱を見たことがある。
「……毎年ありがとう。今年は何を用意してくれたんだ」
「それは開けてのお楽しみだよ。ささ、開けて開けて!」
 彼女は急かすように俺の背中を叩く。リボンを解いて、丁寧に包装紙を解いていく。ここまでは夢で見たまま、けれども俺は、箱の中身を知らない。白い箱の蓋に手をかけて――


 目覚ましの音で、目が覚めるのだ。
 日付はきっかり俺の誕生日の半年前。彼女の誕生日の翌日だ。
 俺は昨日彼女にプレゼントをひとつ渡し損ねて、後悔したまま眠りについた。仕方ない、一年越しだと決意を決めて、小箱を箪笥の奥に仕舞い込む。
 ———俺は、この日々を繰り返している。それも一度や二度じゃない。何度も、同じ日々を送っているのだ。
 これが彼女の「個性」なのだと気づいたのは、十度目の誕生日を迎えた時だった。それまでは、俺は自分の恋人の「個性」を忘れていた。いや、意識をしないようにしていたのかもしれない。
 彼女が俺に「個性」を使ったのなら、それは何らかの意図があるはずだった。彼女の個性は「箱庭」という。対象者を小箱の中に閉じ込める能力だが、実際に「個性」を使用されたことは無かったが、ここまで精巧な世界を構築できるとは知らなかった。この世界は彼女の作った非現実の空想なのだ。そして俺はその箱庭に囚われている。何度も同じ半年間を繰り返している箱庭の外で、どれだけの時間が経っているのかはわからない。そもそも、どうして自分が彼女の個性の中に囚われているのか、その原因もきっかけすらも思い出せないのだ。
 「個性」によって作られた世界というのなら、解決策はある。解除法は用意されているはずだった。彼女の箱庭を探索しながら俺は、この箱庭から脱出すべきかどうかを考えていた。この場所にいれば永遠に幸せでいられるから。
彼女が望むのなら、ずっとここに居たって良かった。
 けれど俺は一度として彼女の用意した特別な贈り物を見たことが無い。箪笥の奥に仕舞い込まれたままの小箱を渡した反応を見たことが無い。
 箱庭の外の彼女に伝えたいことがあるのだ。
 決断したのは五十回目の誕生日を終えた日のことだ。その頃俺は決まり切った半年間の内容を殆ど覚えてしまっていた。
 箱庭の中に出てくる登場人物はいつも同じで、都合の良い夢の中みたいに、誰もがご機嫌で優しい。
 これが最後だと思えば、台本通りに進む物語も名残惜しい。まるで千秋楽を迎える舞台に立つ役者のように、彼女の台詞を聞いていた。
 天気の悪い休日は二人で布団に入って昼まで寝た。休日の映画館はいつも空いていて、飽き飽きするほど見た映画を眺めながら味の変わらないポップコーンを頬張る。隣から伸びてくる指先を掴めばいつだって新鮮な反応が返ってきた。やわらかい、幸せな決まりきった日々。


 3月のカレンダーには花丸が付けられている。
 恐ろしく要領よく仕事を終えられるようになった俺を、ファットガムが驚いた表情で見送った。背中で彼から贈られた祝いの言葉を受ける。彼も毎回、俺の誕生日を覚えていてくれる。
 いつもより早く帰宅すれば、彼女はまだ料理を盛りつけていた。キッチンで換気扇が回る音が聴こえてくる。顔を出した彼女はまだ前髪をピンで留めていて、俺を見て目を丸くした。
「やだ、帰ってくるの早くない⁉ まだ準備できてないよ」
「準備ありがとう。あの、きみに話があるんだ」
 思わず拳を握る。背中に汗が伝った。胃がキリキリと痛んで、心臓が跳ねる。彼女は少し考えてから、鍋を抱えたまま言う。
「それ、急ぎの話? ごはん食べてからじゃだめ?」
 帰ってくる時間に合わせて作り始めてくれたことを知っているから、俺は彼女の言葉を無碍にはできなかった。
「……そうだな。食べた後に話すよ」
「すぐできるから、着替えて待ってて」
 テーブルの上にはまだ布巾が乗っていた。着替える前にテーブルを拭こうとすれば「お誕生日なんだから働かないで!」と叱られた。 
「環くん、お誕生日おめでとう! 乾杯!」
「ありがとう。本当に、嬉しいよ」
 少し上ずった声で礼を言う。彼女は「どういたしまして」と微笑んで俺のグラスにワインを注いだ。慌てて着替えさせてしまったから彼女の前髪はまだ先程の癖が残っている。
「買い物、大変だったんじゃないか。近くのスーパーにこんな貝売って無いだろ」
「気づいてくれた⁉ 朝から遠出したんだよ。隣の街のデパ地下まで行ってきちゃった。そこでワインも買ったの」
「これ、アサリの替わりかい」
 スプーンにムール貝を乗せてやれば、彼女はけらけらと笑った。君が許してくれるなら、俺は貝の種類なんか気にしないで戦ってみせるのに。
 食事が終われば、彼女は逃げるようにキッチンに立った。
「俺がやるよ」
「いいから、座っててよ」
 有無を言わせない口調で言われてしまえば、俺はすごすごと席に戻るしかない。
「お待たせ。……じゃじゃーん! お待ちかねの、プレゼントだよ」
 はあ、と息を吐いてから彼女がプレゼントを取り出した。受け取ってしまえば決意が鈍る。
「……その前に、俺からも君に贈り物があるんだ。受け取って欲しい」
 大きく息を吸い込んで声を絞り出した。中々大きな声が出て、驚いた彼女が固まった。
「え。環くんの誕生日なのに?」
 重たい箱を抱えたまま首を傾げる彼女はどこか心配そうな表情を浮かべている。この先の展開は俺の知る台本には無かった。
 俺は勢いに任せてポケットから小箱を出す。彼女の目線の高さまで持っていけば彼女が顔を曇らせた。眉間に皺が寄る。はっと何かに気づいたように、俺の名前を呼んだ。
「環くん」
 俺は彼女から目を逸らさない。目を逸らそうとしたのは彼女の方だった。
「きみの誕生日に、言おうと思ってたんだ。きみはいつも俺のことを考えてくれて、傍にいてくれてるのに、俺は、……甘えてばかりで、ごめん」
「…………」
 首を左右に振る彼女は涙を溜めて小箱を見つめている。小箱の中身はもうとっくに予想がついているのだろう。
 不安にさせてごめん。もっと、もっと早く伝えればよかった。彼女に相応しい人間になんていつまで経ってもなれやしないのに。隣に立つ資格だとか、自分より優れた相手がいるかもだとか、彼女を譲る気もないくせに下らないことで頭を悩ませていた自分は本当に愚かだ。
「……ずっと、俺の傍にいてもらえますか」
 彼女は黙ったままだ。
 何十回も、何百回も練習したはずの言葉は、それでも本番では震えていた。
 彼女はゆっくりと息を吐いて、それから手に持っていたプレゼントを床に置いた。透き通る瞳を覆っていた涙は頬を伝って、次から次から落ちていった。
「……受け取れない」
 がん、とハンマーで頭を殴られたような衝撃が襲った。断られることを、考えていないわけではなかった。むしろそればかりを考えていたのだ。それでも、実際に拒まれてしまうとその衝撃は計り知れなかった。
 彼女は小箱に手を掛ける。
「だって、わたしの『個性』が解けちゃうから」
 はらはらと涙を流したまま、「失敗したなあ」と彼女が悪戯がばれた子どもみたいに舌を出した。
「もう、思い出した?」
 やはり、箱庭に閉じ込めた対象の記憶から「個性」についての情報を奪うことも能力に含まれているようだ。改めて、強力な個性だと思う。
「忘れる方が馬鹿だ。きちんと思い出したよ。君の「個性」は――『箱庭』だ」
 彼女はこくりと頷いた。それからか細い声で「ごめんなさい」と俺に向けて何度も謝った。
「そう、ここは、わたしの「個性」の中なの」
 きっと、俺が出ることを望まなければ。彼女の“個性”は俺をずっとこの世界に居させてくれたのだろう。
 彼女は無理やり明るく声色を変えて、説明を続けた。
「……発動条件は、『対象が箱を開ける』こと。解除の条件は、『能力者が箱を開ける』こと。環くんにも、一度だって言ったこと無かったけど、わかっちゃった?」
 返事はしなかった。鼻水を垂らし始めた彼女にティッシュを差し出す。
「あはは……。ティッシュの箱だって、開けてもらってたんだから」
「気づかなかった。それくらい率先してやってただろ」
 三枚も四枚もまとめて引っ張って、勢いよく鼻をかんだ彼女の姿は、随分と久しぶりに見た気がする。泣き顔だって、忘れるくらい見ていなかった。箱庭の中の彼女はずっとずっと楽しそうに笑っていたから。
「プレゼントも、用意したの。環くんに驚いてほしくて、一生懸命選んだのよ」
 重たいプレゼントの中身は、今まで一度だって見たことがない。中身を聞いてしまおうか、とも思ったけれどもそれは反則のような気がした。
「君がくれるプレゼントは、いつだって俺を驚かせる。全部大事にしてるんだ」
「うん、だから、本当は見て欲しかったの。でも、そしたら個性、解かなきゃならなくなるからさ……」
 彼女はへへ、と笑ってから俺の手から小箱を奪いとった。「ねえ、環くん。これ、中身はなあに?」
「……開けてくれ」
「お願い。教えてほしいの」
 彼女は懇願するように何度も俺の顔を見る。その顔が余りにも必死だから、俺もつられて涙が出てきてしまった。
 ―――わかっている癖に。
 俺は、一瞬、いや随分長い間答えを返せなかった。
 やっぱり、開けるのをやめてくれないか。そう言ってしまおうか。返してくれ、なんて今更言えない。
 喉元まで出かけた言葉を押し留めるように彼女が急かす。
「ねえ、なあに?」
「……婚約指輪。もっと、早くに言えば良かったよな」
 結構頑張って選んだんだ。きっと君の指に似合うよ。だから、ここから出たら嵌めた姿を見せてくれよ。
 彼女は鼻水を啜って、それから顔を上げた。
「えへへ。環くんからプロポーズされちゃった。こんなの、絶対断れない」
 彼女が小箱に手を掛けた。
 開いた隙間から眩いばかりの光が漏れて、顔をくしゃくしゃにした彼女の表情だけが脳裏に残る。
「指輪、見たかったな。ねえ、環くん。わたし、ずっと、ずっと、あなたが大好きだよ」
「俺も、きみのことが……」
 大切なんだ。だから、ずっと傍にいて欲しい。喉から手が出るほど望んでいるのに、彼女はどんどんと離れていく。眩い光に目を焼かれて、彼女の輪郭がほどけていく。
 待ってくれ。行かないで!
 彼女にもう二度と会えないような気がした。不安で、彼女の名前を叫ぶ。伸ばしたその手は、届かない。


 これこそが夢ならば、どれだけ救われたのだろう。
 俺は、彼女からの贈り物を抱えたまま泣いていた。
 水色の包装紙を解いて、箱を開ければそこには新作の冬靴と紺色の小箱が入っていた。小箱の中にはふたつ、指輪が並んでいた。
 彼女は、俺の誕生日を祝う前に死んでしまった。
 隣町のデパートをヴィランが襲った。彼女は民間人を避難させるために逃げ遅れて瓦礫の下敷きになってしまった。
 ―――たかが、誕生日だったのに。
 俺の誕生日なんかを盛大に祝う計画を立てなけりゃ良かった。オシャレな貝なんかいらなかった。彼女の作る料理なら、俺はなんだって涙を流しながら食ったのに。
 仕事が終わって、すぐに病院に呼ばれた。何度か会ったことのある彼女の両親は泣き腫らした顔で、冷たくなった彼女の名前を呼んでいた。
 部屋の冷蔵庫には印刷されたレシピが貼られていて、散らかった彼女の部屋には服を選んだ痕跡が残されていた。
 遺品の整理なんて、やらなきゃよかった。
 箱の中身を見たいだなんて、思わなきゃよかった。
 残された彼女のプレゼントの封を開けた瞬間、俺は彼女の遺した“個性”の中に入ってしまったのだ。
 もしかしたら、彼女は“個性”を使うつもりなどなかったのかもしれない。ただ、最後の最後まで心残りだった。俺の誕生日を祝えなかったことが。
 だから、何度も俺の誕生日を祝ってくれたのだ。十分すぎるくらいに、準備が整えられたとびきりの誕生日を。
 俺は馬鹿みたいに泣きながら、プレゼントの箱をもう一度閉じた。けれども、もう、魔法は解けている。
 五十回だって、百回だって、彼女の演出の下で同じ舞台を観ていればよかった。彼女には誕生日の次が無かった。だから続きがなかった。それだけのことだった。
 箱庭の中では、彼女は無事にデパートから帰ってくる。時間通りに料理の準備をして、グラスを冷やす。主役の帰りを時計を見ながら心待ちにしている。幸せな夢。
 夢から覚めてしまった俺は、縋るように、彼女からの贈り物を指に嵌めた。
「…………もう一度、きみに会いたいよ」
 返事はない。独りきりの部屋に、声が響いて落ちた。
 箪笥の奥に眠っていた彼女のための指輪は、棺の中に入れた。薬指は千切れてどこかへ飛んで行ってしまったのだ。

<パンドラ、もう一度きみに>
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