スマホの振動で目が覚めた。枕もとに置いているスマホは先ほどから定期的に通知を告げている。今日は休日だ。意地でも10時までは寝てやるつもりで音量を消しているというのに、ひっきりなしにスマホは震える。
 一度は布団を頭まで被ったけれど、気になってしまい手を伸ばした。
「熱っ!」
 充電しっぱなしのスマホは熱を持ち、俺は慌てて充電器のケーブルを引き抜いた。
 そろそろ新しい機種に替えたほうがいいかもしれない。もう数年同じスマホを使っている。最新機種はカメラの画質が良いというし、今度の週末携帯ショップにでも行ってみようか。
 寝ぼけた頭でそんなことを考えて、洗面所に向かうついでにテレビの電源をつけた。
『……昨晩、……研究所にて盗難事件がありました。……警察と協力して……捜査を進める……』
 滑舌の良い壮年のアナウンサーがニュースを読み上げる。
 最近は物騒な事件が多い。ヴィランが起こした事件を聞かない日は無い。ヒーローがヴィランを圧倒して倒す時代は終わってしまったのかもしれない。正義が負けることもあるのだ。
 顔を洗って、眼鏡をかけた。洗面台の鏡には見慣れた平凡な顔の男が映っている。
もう冷えた頃かとスマホを取りに戻れば、やはり不在着信が山ほど入っていた。
 時計を見ればまだ9時過ぎだ。マナーモードを解除するとすぐに着信が来た。画面に表示された「波動ねじれ」という名前を見て、俺は咳払いをしてから電話に出る。
「もしもし」
『あっやっと出た! ねえねえどうして電話に出なかったの? わたし心配してたんだけど。それにテレビ見た? あなた有名人だよ。知ってた? ねえ聞いてる?』
 予想どおりの質問攻めだ。電話の向こうでねじれは俺が質問に回答しようとしているのに次の思い付きを口にしていく。
「テレビ、今見てるけど。局どこ?」
『全国ニュース。どこでもやってるよ』
 宝くじでも当たったか。いやそんなわけないか。なんで大々的に俺の当選が発表されるんだよ。
 チャンネルを回していると、電話の向こうでねじれが「ねえ見て!」と声をあげた。手が止まる。
 薄型のテレビの中でアナウンサーが先程のニュースを読み上げていた。海外の研究所に泥棒が入った、その類の。
『ほら。あなたが出てる!』
 画面を眺めていれば、その研究所に忍び込んだコソ泥の顔が公開されていた。監視カメラに残っている映像を元に犯人の顔写真を作ったらしい。その顔はどうに見ても、
「うわあ」
 俺だった。
『ね? 言ったでしょ。ねえねえこれからどうするの? 研究所の人たちに濡れ衣ですって謝りに行くわけにもいかないよね。とりあえずそっちに向かっても良い?』
 素っ頓狂な声を挙げた俺に、ねじれは得意気だ。電話の向こうで物音がする。彼女のことだから、こちらに向かう準備をしているのかもしれない。
 まだ寝起きのまどろみから抜けきってない俺はカレンダーを確認する。全然4月じゃない。今は7月だった。
「……どうしようかな。てかねじれ、来たらお前にも面倒かけちゃうよ」
 だから今は家で大人しくしてろよ。仕事もあるだろうし。そう続けようと思った矢先、玄関のチャイムが鳴った。
『知ってた? わたし、朝からずっと電話かけてたんだよ。知らなかったよね。さっきも移動しながら連絡してたの! だから開けて。あっ、鍵持ってたんだった』
 電話口の声が二重に聴こえる。待ってくれ、と俺が制止するよりも早く、ドアノブが回って、扉が開いた。
 俺はまだ髭も剃っていないし、なんならパンツとTシャツ1枚のままだというのに。髪をまとめてマスクで顔を隠したねじれは大きなリュックを背負って「準備万端だよ」と胸を張った。それから茫然と立ち竦む俺の姿を上から下まで眺めて言った。
「不思議。どうして当事者なのにそんなにのんびりしてるの? わたしが警察だったら大変だよ。はやく逃げちゃおうよ。ほら早く支度して!」


***



 頬を膨らませたねじれに急かされながら、俺は旅行鞄に荷物を詰め込む。どこへ行くんだ、と問えば「あなたのことを誰も知らないところ」と彼女は言った。
 俺のことを誰も知らないところ。俺は彼女の言葉を繰り返す。生憎俺は顔の広い人間でないし、親戚もいないから、そんな場所はすぐに見つかるような気がした。
「田舎にでも行こうか。人よりも牛の方が多くてさ、まわりは牧草地しかないような町」
「田舎ってわたし行ったことないの。どんな感じ?」
 ねじれと田舎は、どうも親和性が低い気がする。
 俺は自分と彼女が牧場を始める想像をしてみる。
 作業着を着こんだ彼女は嫌な顔一つせずに、むしろ楽しそうに仕事をする。けれども牧場で牛の乳を搾る姿はどうも偽物臭い。糞の匂いのついた作業服を着て額の汗を拭う姿や田舎町のスーパーで買い物をする彼女の姿は想像しにくいけれど、それだって絵になる。いつの間にか想像は広がりすぎて、彼女が「美しすぎる牧場主」としてテレビに取り上げられるところまで行きついた。
「ねじれが好きそうなものは、なんにもないよ」
 小洒落たカフェも、服屋も、雑貨屋も、カラオケだってない。映画館も無けりゃDVDだって借りられない。町を歩いているのは年寄りばっかりで、店はすぐに閉まる。
「そうなの? でも一緒にいたら楽しいんじゃない? それにわたし、動物も好きなんだよ。田んぼも好き。授業で体験学習に行った時、田植えをしたの。お尻までどろどろになっちゃったんだけど、楽しかったなあ! ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。小旅行じゃなくて“逃避行”になるけど、本当に一緒に行くのか」
「覚えてないの? 不思議! あのね、逃げちゃおうって先に提案したのはわたし」
 彼女の綺麗な指が鼻先を突いた。
「そうだった」
 呆気にとられる俺を励ますように、にこりと微笑んで、それから流れるような動作でタクシーを一台呼んだ。
「タクシーなんか使って、目立たないかな」
「堂々としてれば気づかれないよ。ほら、行かなくちゃ」
 こうして、俺たちの逃避行は始まった。
 タクシーの運転手は他愛もない雑談を振ってきただけで、俺が指名手配犯だとは気づかなかった。それよりもねじれに話しかけようと必死になっていた。俺はそれが気に食わなくて、わざと運転手に話しかけた。「この辺でうまいラーメン屋、知ってますか」興味も無いのになあ。
 目立たないようにしろ、と後部座席からねじれが俺を睨みつけているのがミラーから見えた。
タクシーから降りて、駅で一番高い切符を買った。売店で弁当と飲み物を買って、電車に乗り込む。これから逃げるというのに、混雑を避けて指定席にした。
 席に座ってすぐに、ねじれがペットボトルのジャスミン茶を開けた。喉が渇いていたのか、半分ほどを一気に飲んだ。トイレに行きたくなるぜ、と声をかければ頬を膨らませる。
 彼女は距離を詰めて俺の目を覗き込んだ。
「あのね、心配しないで。勘違いだってわかるまで、遠くで静かにしてたら大丈夫だよ。もし警察の人が来ても、あなたが犯人じゃないって、わたしが説明してあげるね。誤解だって言ったらわかってくれると思うの」
 真っ白い手が俺の手の上に重ねられる。彼女に見つめられて、花が咲いたように微笑みかけられれば、俺はすっかり参ってしまって冷房の効いた車内だというのに備えつけの冊子で顔を仰ぐ羽目になった。
 上司に連絡を入れたあと、しばらくするとねじれは眠ってしまった。彼女を起こさないように静かにスマホを取り出す。犯人の顔が大々的に掲載されていたニュースはLINEのトップニュースにも上がっていた。
 盗まれたのは、海外の医学研究所が発明した新作のワクチンの試作品が一本。それは恐ろしく貴重で高価なものだった。人類を救う可能性が秘められたものだ、と研究所の所長はインタビューに答えている。万全な警備体制が敷かれた海外の研究所に、日本人の男子大学生が忍び込んで盗みを働くだなんてことができるのだろうか。関与すら難しいだろう。その泥棒の名前まではどのニュースサイトにも載っていなかった。
 肩にもたれかかって来た彼女の寝顔を見る。長い睫毛が揺れた。本当に、彫刻みたいに綺麗だ。彼女の遺伝子は神様が気合を入れて作ったに違いない。
 コソ泥のニュースを読むのにも飽きて来たから、これからの行き先を調べることにした。彼女の好きな物があればいい。綺麗な景色でも、美味しい料理でも。ねじれはなんだって喜んでくれるけど、びっくりするくらいの田舎に連れて行ってやったらどうだろう。でも宿泊先がないと困るから、やっぱりほどほどがいい。
 財布の中身を思い出す。途中金を降ろせばこの逃避行の資金はなんとかなるだろう。
 昼頃にねじれが目を覚ましたから、弁当を食べた。
「酒でも買えばよかったかな」と俺が言えば「緊迫感がないよね」と返したねじれが鞄からビスケットを出した。
「ねえ、修学旅行みたいじゃない? 知ってた? わたしたちこうして旅行したことってなかったんだよ」
 だからちょっと楽しいね、とビスケットを俺の口に差し込んでねじれが続けた。
 旅行、行けばよかったかな。だってお前は駆け出しのプロヒーローで、雄英を卒業して鳴り物入りのデビューだったもんだから、テレビに雑誌に引っ張りだこだったじゃないか。
 俺も少しは気を遣ったんだ。
 男の我儘って、格好悪いじゃないか。だから、俺はいつも感情のブレーキに片足を乗せている。
 誰かの怒声に震えて泣きださないように、間抜けな言動が過ぎて呆れられないように、どこかの誰かに嫌われないように、「あ、やばい」と思ったらすぐにブレーキを踏む。
 こんな性格が役に立つのは運転の時だけだ。俺は自動車学校の先生には気にいられていた。
 いつから俺の右足がブレーキに掛かるようになったのか、それはきっと中学生の頃からだろう。
 中学1年の頃、俺は苛められていた。背が低くて要領の悪い田舎者だったから、クラスのガキ大将たちに目を付けられて、毎日ゴム毬みたいに蹴られていたのだ。
 「やめてくれ」とも言えずに、黙っていれば台風みたいに過ぎ去ると思い込もうとしていた。へらへら作り笑いを繰り返す俺は一向に止むことのない苛めに辟易していた。クラスのカーストは当然最下層で、それは学年が上がっても同じだった。背が伸びて、机に噛り付くように勉強に勤しんでも、俺は相変わらず蹴りとばされていた。
 ある日、隣のクラスだったねじれが俺に話しかけてきた。俺は生まれて初めて美少女に話しかけられて言葉を失った。ねじれは俺に言った。「背中に足跡が付いてる」それは心配でもなく、憐れみでもなく、ただ俺の制服に付いた盛大な足跡に対する興味から出ていた。
 けれど、彼女と言葉を交わしたことで、俺の中にひとつの変化があった。
 話したことも無い彼女に、日頃足蹴にされているような男だと思われるのが嫌になったのだ。
 悲鳴のような泣声のような大声をあげたのはそれから数日たった廊下でのことだった。
 小さな反抗に逆上したガキ大将に馬乗りで殴られていた俺は、防戦一方でたまたま通りすがったねじれに助けてもらった。思えばあの時から彼女はヒーローだった。
 そのあと保健室で治療を受ける俺を見に来たねじれは「すごかったね。大声、うちのクラスにまで聞こえたの。ねえ見た? あの子の背中に、わたし足跡つけちゃった!」と晴れやかな笑顔で言ったのだ。
 これが初恋、それから俺は彼女に猛アタックをかけた。そうしてなんと、いじめられっ子とクラスのマドンナの不釣り合いなカップルが成立したのだ。まるで昔夢中になったアニメの主人公とヒロインみたいに。
 救ってもらった。いつか俺も、どこかで彼女を救うことができたらいい。俺の家には猫型ロボットはいないし、抽斗にタイムマシンもない。過去や未来に行ってねじれを助けてやることはできないけど、俺にできる何かが、あいつを助けてやれるなら。俺はそれにすべてを懸けたって構わないんだ。


 行き当たりばったりに列車を乗り継いでいれば、いつの間にか日が落ちて、俺たちは随分小さな車両に乗っていた。尻が痛くなった辺りで終点が近付いてくる。俺たちは名前の響きが気に入ったからという理由で終点から三つ前の駅で列車を降りることにした。
 そこは無人駅だったから車掌に切符を渡して降りた。売店も喫茶店も無い閑散とした駅には、俺たち以外に制服を着た高校生がひとり座っていた。
 とりあえず、探した旅館に電話を掛けた。女将さんが駅まで迎えに来てくれるらしい。
 小型のワゴン車を豪快に運転してきた女性がその旅館の女将さんだった。おしゃべり好きの女将さんは道中に町の名産品や温泉のことについて話してくれた。俺たちのことは旅行に来たただのカップルに見えたらしい。
 宿泊者受付でねじれが名前を書けば、担当していた若い女の子が声をあげた。
「もしかして、ネジレちゃんですか?」
「そうだよー」
「ファンなんです! えー! なんでこんなところに来たんですか? お仕事?」
 テンションの上がった女の子はねじれに握手を求めて、そのあとちらりと俺を見た。「えっこれネジレちゃんの彼氏?」って顔をされた。
 ねじれは愛想良くファンの対応をこなしたあと、不服そうに「となりに指名手配犯がいるのに」と言った。
「あんなの、どこにでもいるような顔なんだよ」
「あっ、それわたし知ってる! 三人いるんだってね。そっくりな人が、世の中に。わたし会ったことないけれど」
 それから温泉に入って、部屋で食事をとった。
 浴衣姿のねじれが子どもみたいに布団に飛び込んで、彼女に布団を奪われながら眠った。



 次の日の朝はアラームよりも早く目が覚めた。天気が良かったから、あたりを散歩することにした。ねじれは髪を団子にして頭の高い位置でまとめていた。紺色のワイドパンツに真っ白いシャツがよく似合っている。
 俺たちは旅館から伸びる橋を渡って、市街地を抜けてずっと遠くまで歩いた。建物が段々と減っていって、歩道もなくなって、終いに目に映る景色はビニールハウスと畑だらけになった。
「なあ、この町で何が有名か知ってる?」
 知らない、とねじれが首を振った。
 下の道に降りてみよう、と手を引けば、軽やかにガードレールを乗り越えた。
「あ。わたしわかっちゃった。当ててもいい? あのね、ユリの花でしょ!」
 ビニールハウスの近くで、ねじれが正解を当てた。まだ花の香りもしないのに。
「御名答。こっそり入ったら叱られるかな」
 俺は人気のない畑の周りをうろついて、無人のビニールハウスを覗き込んだ。
「ちょっとくらい許してもらえるんじゃない?」
 ねじれが俺の背中を押す。結局二人してビニールハウスに潜り込んだ。ハウスの中では満開の白ユリが所狭しと並んでいた。白ユリ。花言葉なんか知らないけど、ねじれがこの花を好きなことだけは覚えている。
「ねじれ」花を見て喜んでいる彼女の名前を呼ぶ。
 ねじれは俺の言葉を遮って、両手をあげた。美しい魚のように身体を伸ばして、深呼吸をする。
「あのね、この前わたし本で見たの。ユリの花に囲まれて眠ったら、気持ちよく天国に行けるんだって」
「それ、嘘じゃないか?」
 ユリの花にそんな毒性があるだなんて、聞いたことが無い。ねじれはそんなことを気にしていないようだった。
「わたし良いんだよ。怖くないから。あなたと一緒なら」
「………嘘、つくなよ」
 俺が俯くと、ねじれは一回転してくるくるとユリの花の中で踊ってみせた。それこそ、誰かの言葉を借りれば花の妖精みたいに見えた。
 ーーー 一緒に死んでくれるなんて、言わないで欲しかった。
 俺の彼女は特別じゃない。十人いれば全員振り返るような美人だし、仕事は悪をくじき弱きを救うヒーローだ。それでも、恋人のことを心配して朝から駆けつけてくれたり、考え過ぎて夜も眠れなくなってしまうような女の子なのだ。
「ねえ、なんで“個性”を使わなかったの? わたし、ずっと不思議だったの」
 俺たちはハウスの中で腰を下ろした。ねじれは俺の肩にもたれかかり自分の手を俺の手に重ねた。
「俺が、犯人だと思った?」ねじれに問えば、彼女は瞬きもせずに俺を見つめ返した。
「ねえ、なんで?」
 普通の大学生が、どうして海外の研究所に忍び込んで研究中のワクチンを盗めるんだ。俺はそう言って笑い飛ばそうと思ったけれど、ねじれがあまりにも真剣だから言葉を選んだ。
「内緒」
 彼女は俺が本当に犯人だと思っている。
 他人の空似じゃなくて、ただの大学生である俺が、研究所からワクチンを盗んで逃げたのだと信じている。だから、俺を逃がすために沢山準備をしてやってきたのだ。ヒーローである自分の仕事も放り投げて、どこに行くかわからない電車に飛び乗って。俺のために。
 ねじれは俺に盗んだ理由を聞かない。どうして俺が“個性”を使わなかったのかを問う。
 俺の“個性”は『錯覚』。強い個性じゃない。ちょっと相手に嘘を見せるだけの力だ。その“個性”を使えば監視カメラに映らずに建物から脱出できると知っているから、彼女は俺を問い詰める。
「うっかりしてたんだよ。逃げるのに必死でさ」
「嘘、ばっかり」
 ねじれは大きな目を震わせて、それから溜息を付いてゆっくりと目を閉じた。
「ちゃんと聞いてね。わたし好きだよ。あなたのことが。だから、さっき言ったことも、全部本当なの」
 疑ってないよ。俺は、ねじれのすること全部信用してる。俺みたいな奴の為に、本当に一緒に死んでもいいと思ってることも、ちゃんとわかってる。
「……俺、ねじれのためなら死んでもいいと思ってるけど、ねじれが俺のために死んじまうのは、絶対嫌なんだよ。我儘でごめんな」俺はそう言って、寝息を立てるねじれにキスをした。
 ねじれは知っている。ずっとブレーキに足を掛けている俺は、普段スピードを出さないから、いざという時に勝手がわからずアクセルを踏みこみすぎてしまう。
 気づいた時にはもう遅い。暴走車はガードレールを突き破って地の果てまで落ちていく。だから、助手席にはお前を乗せたくないんだ。
 彼女が眠っていることを確かめて、ポケットからアンプルの入った小箱を取りだした。一つは既に空だ。
 ねじれの腕には小さな注射痕が残っている。俺は“個性”を使って、その痕を見えなくする。
「……傍にいてやれなくて、ごめんな」
 窓の外からサイレンが聴こえてくる。警察だ。
 ねじれに布団をかけ直す。掌の中の液体について最後にもう一度だけ悩んで、それから俺は部屋を出た。
「自首します」俺は泣き笑いみたいな顔で大声を張り上げた。膝は笑っていた。



 俺の起こした事件は大々的ニュースになった。
 大学生の愉快犯だとか、サイコパスだとか、人騒がせだとか、散々叩かれたけれど、盗み出したはずのワクチンが返ってきたので、俺の罪状は不法侵入と窃盗くらいだろう。情状酌量の余地もあるかもしれない。
 はて、空になったアンプルの中身は何だったのか。
 勿論それもワクチンだ。世界中にばら撒かれたウィルスに対するたったひとつの特効薬。俺は、アンプルを2本盗んでいた。“個性”を使わなかったわけじゃ無い。「錯覚」はひとつしか起こせないのだ。だから、監視カメラに映る姿を誤魔化すことはできなかった。
 どうしても手に入れたかった。けれども使う勇気がなかった、と警察に話した。
 彼らは盗んだワクチンの使い道に首を傾げていたが、俺はこれから世界中にウィルスが蔓延することを知っていた。病を治す“個性”の持ち主なんてそうそういない。
 罹患すれば致死率はほぼ100%のウィルスは、“個性”を持つ人間にだけ感染する。そんな馬鹿げたウィルスを作った奴がいたのだ。
 運が良いのか悪いのか、俺はそのウィルスの存在を知ってしまった。ついでに特効薬が完成したことも。
 俺は“個性”を使って情報屋のようなことをしていた。このご時世だ。ヒーローがヴィランに敗北することだってある。日の当たる場所しか歩けないヒーローと違って、ヴィランには水面下の情報網が五万とある。俺はヴィランが好んで利用する場所に“個性”で紛れ込んでは情報を得ていた。得た情報は警察や、ヒーローにそのまま提供する。
 けれども今回得てしまった情報は、誰にも話すことができなかった。話せばパニックになることは想定できた。それに、もうウィルスは放たれてしまっていた。手遅れだったのだ。
 だから俺は、恋人と自分だけが助かろうとワクチンを盗みに入った。結果は知っての通りだ。
 臆病風に吹かれて、結局自分には使えなかった。
 自分に使うことのできなかった残りの一本が、どれだけの人間を救えるだろうか。
 特効薬を大量に作れるようになるまで、どれだけ時間がかかるだろう。ヒーローには優先的に接種してくれたりするだろうか。俺が祈るようなことじゃないけれど、ねじれの大事な人たちが助かってくれたらいいと思う。彼女は寂しがりだから。
 一緒に生きて、と手を引っ張ってやれたら。ねじれは喜んでくれただろうか。そこまで強い人間じゃないことは。見抜かれていたかもしれない。
 本当に、ユリの花に埋もれて眠るように死ねたら、幸せだったのかもしれない。ふたり一緒に手を繋いで眠るなんて、綺麗すぎる終わりは俺には贅沢過ぎたけれど。
 ごほ、と看守が乾いた咳をした。
「大丈夫ですか」
 声を掛けると人のいい看守は口元を拭った。少し顔色が悪い。頃合いだろう。
「ああ、平気だよ。お前の風邪がうつったのかもな」
 他の部屋からも咳の音が聴こえてくる。コンクリートに囲まれた部屋で不吉な音が反響した。
 俺は狭い天井を仰ぐ。俺がここを出る頃には、もしかしたら世界は滅んでいるかもしれない。
 なあ、ねじれ。
 滅びた世界が嫌になったら、ねじれが守りたいものがなくなったら、そしたら一緒にユリの花の中で眠ろう。お前は立派なヒーローだ。守るものがある限りは、俺に泣き顔なんか見せたくないだろうから。
 お前が何より大切なのに、隣に立ってやれない俺の臆病をどうか許さないで。
 
 嫌われても、憎まれても、お前が無事ならいいんだ。


<花喰む悪童>
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