終わりを告げる音は玄関のチャイムの音に似ている。これは疫病神がチャイムを押しているからだ、とわたしは思っている。来訪者の指がチャイムのボタンに触れる前に、疫病神がタッチの差で音を鳴らすのだ。不幸を告げるために。

 環くんが亡くなったことを告げに来たのは彼の上司である豊満さんであった。ドアを開けた先で立っていた豊満さんは真夏だというのに首元までネクタイをしめてスーツを着こんでいた。頭に包帯を巻いていて、掌は傷だらけだった。血が滲んでいる部分もある。本当はまだ彼自身も安静にしていなければならないのだろう。玄関先で話すのも落ち着かないだろうから、部屋に通そうと背中を向けると豊満さんはわたしの両肩を掴んで「すまん」と呻いた。
 正直、その時は全然実感が湧かなかった。環くんが大怪我を負って帰ってくるのはまあ良くあることだったし、連絡も無いまま一週間籠城して敵と戦ったことだってある。だから、ひょっこり戻ってくるのだろうと、そんな気持ちでいた。
 豊満さんとは環くんを通じて親しくさせてもらっていた。わたしたちの結婚式にだって来てくれたし、事務所の方々と食事に行くことだってあるから、少しばかり為人は理解している。誠実で情に厚いこの人は、涙を見せないように血の滲む手のひらを力強く握りしめ、赤い目を見開き、絞り出すように環くんの最期を話してくれた。豊満さんの姿を見つめながら、わたしは(この人が、環くんの上司で本当に良かったなあ)と他人ごとのように思った。
 葬儀について、と豊満さんが静かな声で言った。死を悼む時間も必要だろうから、良ければ此方で話を進めると提案してくれた。ヒーローが殉職した際の手続は色々あるから、死亡が確認された時点で早急に動く必要があるらしい。豊満さんがわたしを傷付けない様に、細心の注意を払って言葉を選んでいるのが伝わってくる。
「……遺体は、見せてもらえないんですか」
 人の死を看取った経験は自分の祖母だけだ。病気のために眠るように病院で亡くなった祖母の表情はそれまでの闘病生活とは打って変わって安らかだった。だから、環くんの最期の表情が気になった。命を落とす程の怪我を負ったのだから、さぞ痛く、苦しく、辛かったことだろう。彼の顔を見たら、わたしもようやく実感が湧くかもしれない。
「損傷が、激しくてなあ」
 指輪くらい、見つけてやりたかった。そう口にした豊満さんは堪えきれなくなって目から大粒の涙を零した。
「すまんなあ、すまん……」わたしは豊満さんの背中をさすりながら、彼の涙につられて涙を零した。部下を喪って涙する豊満さんを見ているというのに、まだ環くんの死はわたしにとって非現実のままだ。彼は個性の関係上、手足に装飾品を付けられなかったから、結婚指輪をいつも首から下げていた。不安事があるとその指輪に触る癖が新たにできたことを、わたしは微笑ましく思っていた。
 ——週末には一緒に指輪を探しに行かなくちゃ。
 ほら、わたしの出来の悪い頭は環くんがいない週末を想像できないというのに、誰も彼の死を嘘だと言ってはくれない。


 壮大な作り話のようだと思った。空っぽの棺に美しい花を詰める作業も、少し強張った顔した遺影を抱き締めている自分も、舞台の上で演じることを突然強いられたようで、息苦しさと戸惑いにこの場所から逃げ出したくて堪らない。
 読経を聞いている間も、豊満さんが環くんの話をしているときも、ずっと彼は死んでいないような気がしていた。だって、死体は見つかっていないんでしょう。どうしてこんなにすぐ話が進んでしまうのか、わたしは不思議だった。死亡診断書に書かれた彼の名前はどこか薄っぺらく見えたし、「天喰様の親族の方」と呼ばれてわたしは立ちあがるのに随分時間を要した。まだ、彼の名字で呼ばれることにだって慣れていなかったのに。
 あっという間に、葬儀は終わった。わたしは棒読みで喪主として挨拶を済ませ、花と思い出の入った棺が焚き上げられるのをぼんやりと眺めていた。腹が立つくらい蒸し暑い日だった。雲一つない青空だったから火葬場から上がる煙がやけに鮮明に見えた。
 わたしは暑いのが苦手だったから、毎年気温が上がるたびに暑い暑い、と騒ぎ立てる。環くんはもう脱ぐものも限られたわたしに向けて短く溜息を吐いて「アイスでも買いにいくかい」と声をかけてくれる。学生の頃はコンビニのアイスを食べて、二人とも社会人になった後は週末出かけた先でソフトクリームを食べるのを楽しみになんか、したりして。
 あつい、あつい。わたしは太陽の光を掻き集めるような喪服を早く脱ぎ捨てたくて堪らなかった。葬儀会社にお礼を言って、また後日。へらへら笑うわたしは彼等にとって薄情な女に映るのだろうか。いいや、沢山の死を送ってきた人たちだから、そんな風には思わないのだろう。わたしが自分を薄情だと思っているだけだ。
 汗で背中に下着が張り付くのが気持ち悪い。喪服のまま立ち寄ったコンビニでアイスを買った。行儀は悪いけれど、歩きながら袋を破って一口齧る。
「……あ」
 ようやく少しだけ彼の死に実感が湧いた。味がしないのだ。赤い包装紙に包まれた練乳入りの甘いアイスクリームは日差しを浴びて棒を伝って溶けていく。
「たまきくん」
 彼の名前を呼ぶ。わたしは道の真ん中で泣いてしまいそうになる。あついよお、環くん。どこに行ったの。わたし、喪主なんか務まらないよ。お葬式なんてずっと先の話だと思ってたんだから。あなたの仕事が危険なものだってくらい知ってたよ。それでも、こんなに早く隣から消えてしまうだなんて思っていなかった。
 食べかけのアイスクリームを道路脇の排水溝に差し込んで、ようやくたらたらと流れてきた涙をべたつく手で拭った。タクシーを呼ぼうかと思ったけれど、歩き疲れてしまった方がよく眠れる気がした。
 自棄になって踏み出した割に足取りは重い。喪服は暑く、相変わらず汗はわたしの背中を濡らす。照り付ける太陽は弱まるところを知らず、アスファルトに光を当てては照り返しを楽しんでいる。
 とぼとぼ歩いていると、小さな端切れが飛んできた。親指の爪サイズのそれは檸檬色をした上等な和紙だった。何処かの小学校で千切り絵の制作でもしているのだろうか。掴んだ手前捨てるのも忍びなく、わたしは何も考えずにそれをポケットに入れた。


 環くんは夢によく出てきた。わたしはそのたびに枕を濡らした。彼は学生時代からよくわたしの夢に登場する。それは、わたしがそれだけ彼のことを考える機会が多かったという恥ずかしい告白に他ならないのだけれど、最近は毎晩わたしの様子を見に来るのだから、彼は本当に心配性だ。
 死人の声から忘れていく、という話を何かで読んだことがある。わたしはそれを思い出して、彼の声をもっと録音しておくべきだったと後悔した。インタビューは録画してあるし、事務所の人たちと食事会をした時の映像は動画で保存してある、けど、こちらを見て「好きだよ」なんて囁いてくれる環くんの声はもう聴けないのだ。わたしだけが聴けたのに。
 わたしは、自分が思っているよりもずっと弱い人間であった。朝起きて、環くんが隣にいない。それどころか、この先ずっと、わたしの隣に立つことはないのだという現実に打ちのめされてしまった。涙腺がバカになってしまったのか、ひっきりなしに涙が流れる。
 或る日、ミリオから「出かけよう」と連絡があった。外に出るような気分ではなかったから、断れば電話がかかってきた。電話口のミリオの声は普段よりも少し高くて、緊張しているみたいに聞こえた。彼は「環の指輪を探しに行こうぜ」と提案をしてきた。
 ミリオはレンタカーを借りて家まで迎えに来てくれた。人に会うのは久しぶりだったから必死に目元を冷やしたけれど、会って早々「ウサギみたいな顔してんね」と言われてしまったから余り効果は無いようだった。
 車内ではミリオがずっと喋っていた。わたしは何を聞いても悲しくて、ごめんごめん、と断りを入れては車に備え付けられたティッシュで目元を拭った。使い果たしてしまいそうだ、と言えば「いくらでも使ってよ」とミリオがティッシュを豪快に引っ張り出して鼻水をかんだ。
 環くんの死にミリオが心を痛めていない訳が無いのだ。それなのに彼はわたしを気遣ってこうして外に連れ出してくれる。自分の胸の傷も癒えていないのに、笑えないジョークを大声で言う。泣き笑いの車内は不思議と心地良く、わたしはミリオから聞いた話を帰ったら環くんに話してあげよう、と考えて。考えて……、またティッシュに手を伸ばした。
 環くんが亡くなったという現場に着いて、ふたりで辺りを歩いたけれど、当然指輪は見つからなかった。ミリオは慣れた素振りで奥へ奥へと進んでいくから、もしかしたら彼は何度かこの場所に来ているのかもしれない。
 帰りの車の中で、「もう探さなくていいよ」と消え入りそうな声で彼に伝えた。ミリオは窓の外を見つめたまま「ごめんなあ」と肩を震わせた。ミリオも、豊満さんも、わたしに謝ることなんか一つもないのに、申し訳なさそうに頭を下げる。わたしに謝らなくちゃならないのは、環くんだけだよ。
 道中、わたしが御馳走すると我儘を言って海鮮丼を食べるために寄り道をしてもらった。
「また誘うから。運転の練習のために付き合って」
 ミリオは傷だらけの手を大きく振って帰っていった。家の鍵を探そうと鞄を覗けば、そこにはまた小さな端切れが入っていた。今度は水色だった。


 色鮮やかな和紙の切れ端は時折わたしのもとへ降ってきた。映画館の前を通ったとき。安売りしていたアサリ貝をスーパーのカゴに入れたとき。わたしは何となく、この端切れが何なのかを理解し始めていた。
 わたしはこの端切れを瓶に入れて閉じ込めていた。ひとつ集める度に、環くんの死を受け止められていくような気がしたのだ。この欠片はきっと、彼との思い出が形になったものなのだろう。誰かの「個性」で追憶が具現化しているのか、それともわたしにしか見えていない妄想なのか、確かめる気は無かった。
 ――全部、集めたら。それはそれで、寂しいなあ。
 わたしはこの端切れに随分救われていた。環くんの好きだった食べ物、一緒に通った道。他愛の無い事象ひとつとっても、わたしが彼のことを考える度にこの端切れは降ってくる。
 これは思い出ではなく彼自身の破片なのかもしれない。
 そう思い始めていた。だって粉々になってしまったという彼の最期をわたしは見ていないから。想像は自由でしょう。


 小瓶一杯に端切れが集まった頃、丁度環くんの死から一年が経とうとしていた。
 わたしはこの美しい欠片の使い道を考えている。綺麗な大きな紙を用意して、千切り絵を作るのも良い。淡い色合いは花を表現するのに丁度良いだろう。完成したら額縁に入れて飾るのだ。友人たちは旅行の次は貼り絵が趣味になったのかと驚くだろう。でも完成したあとは、自分の趣味を作らなきゃならない。
 新しいことを始めたい。気が紛れるものが良いな。料理は、だめ。環くんのことを考えなくて済むような、がむしゃらになれるものが良いだろう。ボクシングとか。いいかも。
 考え事をしているとチャイムが鳴ったので、玄関に向かう。
 「はあい」来客の予定はないし、宅急便かな。玄関横の棚から印鑑を出しておく。
 返事は無かったから、覗き穴を見て、わたしは弾けるように扉を開けた。
「…………環くん?」
 ドアの向こうに立っていたのは、亡くなった筈の環くんだった。嘘みたい。
「生きてたの⁉」
 わたしが詰め寄ろうとしたところで、環くんが掌をわたしに向けた。「ストップ」の合図に、わたしはよく躾けられた犬のように押し黙る。ドアを閉めたあと、環くんはゆっくりと口を開いた。
「死んでるよ。きみがあんまり泣くから、このままじゃ涙で海ができてしまうと思って」
 多少、その、無理を、した。と言葉を区切る彼は当然、生きていた頃の姿のままで、わたしの記憶の中の環くんと少しも変わりがなかった。いつでも格好良くて素敵な、わたしの旦那さんになったひと。わたしは部屋着姿で、恥ずかしくなる。ちゃんとした格好をしておけば良かった。
 彼に触れないように注意を払って近づく。
 本物の環くんが目の前にいるなんて、信じられなくて涙が出てくる。わたしの声は裏返って情けない。
「環くん、たまきくん、死んじゃったなんて嘘、だよね」
「……本当だよ。俺は死んでる。こうして会って話せているのは奇跡みたいなものなんだ。身体も何もかもばらばらに吹き飛んだのに、きみが地道に集めてくれたから……」
 普通はあんなの集めようと思わないよ。そう続ける言葉が、余りにも自然すぎて、わたしは夢か現実かを見極めるために自分の頬を打った。涙でびしゃびしゃの頬は痛みもよくわからなくて、これはやっぱり夢なのかもしれないと思った。
「最後に挨拶だけ」
「いやだよ、そんなの。わたし、環くんがいないとさみしくて。苦しいの。だめ。そばにいてよ……」
 彼に会ったら伝えたいことが沢山あったのに、胸が詰まって言葉が出てこない。わたしたちがまた一緒に過ごすことは不可能だ。なぜなら彼は死んでしまったから。
 それがわかっているなら、天国から抜け出してきた彼を心配させないように振舞うべきだ。わたしはひとりでも大丈夫だよ。なんだ、またその映画かって呆れられちゃうかもしれないけれど。一緒に映画館に観に行ったよね。
 環くんは目を少しだけ細めて、鼻水を啜るわたしを懐かしそうな顔で見つめている。随分慣れた対応をするようになった。学生の頃だったら、狼狽えてティッシュを鞄から探していたのに。
「大丈夫だよ。きみは沢山の人に好かれるから。ほら、俺みたいな奴だってきみに夢中になって、求婚までしたんだ。きみが嫌ったって、周りが放っておかないよ。それくらい素敵な人だから。泣かないで」
「ぜ、全然、素敵なんかじゃない……っ。我儘で泣き虫で、環くんを、困らせて………ねえ、連れて、いってよ」
 会えるのがこの一瞬だけなら、我儘、言わせてほしい。本当はずっと、環くんが死んでしまったあの日から、彼のもとに行きたいと望んでいた。弱い女なのだ。後追いだなんて、環くんが望まないと思ったから考えないようにして、思い出を集めることに躍起になっていた。
「駄目だよ。次に会う時はきみがお婆さんになった時だ。天国にはそういう決まりがある……かもしれない」
「……ちょっと見ない間に、冗談が上手になった?」
 死んじゃったのに、こんなに綺麗に笑えるのだから、やっぱりこれは夢なのかもしれない。夢だとしたら、わたしは中々、自分に厳しい夢を見ている。環くんはわたしを連れていってはくれない。眉を顰めて、困り顔を浮かべた彼は、胸元の指輪に触れた。ああ、ちゃんと、持って行ったんだ。
 彼は真剣な顔をして、わたしの顔を見つめた。真黒な瞳と視線がぶつかって、涙の膜で彼の姿がぼやける。 
「生きて欲しい。きみは本当に素敵な人だから。幸せな家庭を築くところも見たいし、かわいいお婆さんになるのも楽しみにしてるんだ」
 そんなこと言わないで。わたしは環くんと一緒に年を取りたかったよ。
 涙で息が詰まって、言葉にできなかった。環くんだって、同じ想いだったことを知っている。
 ――もう、時間だ。環くんはわたしの言葉を待たずにそう言った。
「神様の御目溢しで来てるんだ。本当は一言交わすだけって約束だった」
「あっ、あ、待って、やだ! いかないで。あっ、好きだって言ってほしい。できるなら動画で欲しいの、ちょっと待って……」
「#なまえ#さん」
 わたしの名前を呼ぶ声に足を止めて振り向けば、優しく、やさしく抱きしめられた。一瞬で視界が極彩色に埋まる。檸檬色、水色、桃色。優しい思い出の欠片で構成された環くんはわたしの背中に腕を回して、耳元でゆっくりと囁いた。
「あいしてるよ」
 ――ああ、ずるい。ずるいひと。わたしが言葉を失っている隙に、彼の身体はばらばらにほどけてしまった。ちぎり絵のように不安定で儚い彼のまぼろしが、触れたら崩れてしまうことくらい分かっていた。だから、触れないように我慢していたのに。環くんの方が触れて来るだなんて思わないじゃないか。ばか。
 玄関の土間にはくす玉が割れたあとのように色取り取りの紙吹雪が溢れている。その中に座り込むわたしはまるで誕生日パーティーの主役みたいだ。
 わたしは紙吹雪、もとい環くんの残骸を抱き締めながら、彼の言葉を繰り返す。
「ずっとあなたを、あいしてる……」
 その言葉だけで、生きろというのだ。よぼよぼになるまで。環くんの理想のとおり、明るく元気なお婆ちゃんになって、天寿を全うして、それから会いに来いという。
 環くん、時々指示が雑なところがあるんだよなぁ。それに、お婆ちゃんになるまではあまりに長い。
 わたしは緩慢に立ちあがって箒とちり取りを用意する。二人で暮らすために借りたこの部屋は、一人で暮らすには広すぎるから、まずは引越しをしようかな。
 それから、やっぱり趣味を作ろう。ボクシング、いいかも。週末は友達を誘って、何処かへ出かける。時間がかかるかもしれないけれど、笑って過ごせるようになろう。
 わたしの好きな人が、この先ずっと、わたしを好きでいてくれるように。


<千切り絵の彼方より>
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