10.海獣は夜の海に謳う

 彼女の骨を盗んだ時から、俺の理性も共に死んだのかもしれなかった。
 巨大な魚に街が飲み込まれたあの日、彼女は炎に捲かれて亡くなった。大混乱の中、俺は白く小さくなってしまった彼女を掻き集めて、シャツに包んで逃げ出した。
 本当なら、彼女の骨はご両親に返すべきであったのだ。それをしなかったのは、俺のエゴだ。
 一瞬にして炎に捲かれた彼女は驚いた顔をして纏わりつく炎を見つめていた。長い睫毛に火を灯して、彼女は俺の名前を呼んだ。熱いだとか、苦しいだとか、そんなことは一切告げずにただ、「さよなら」と言った。
 それはさながら映画のワンシーンのようだった。火刑に処される魔女。いいや、彼女は何一つ悪事なんて働いていない。炎に捲かれて死ぬなんて、そんな亡くなり方をするべき子じゃなかった。幸せに、長生きして、欲しかった。
 熱かっただろう。苦しかっただろう。最期に映った景色が火の中だなんて随分と報われない。彼女は海が好きだった。だから、なんて言い訳にもならないけれど、海に彼女を連れていってやりたかった。本当は沖縄の海が理想だったのだけれど、交通機関が壊滅した状況では難しい。
 部屋にあった一番大きなバッグに彼女を詰めて、海を目指した。
 随分と軽くなってしまったね。そう言ったらきみはどんな顔をするだろう。
 やっとのことで辿り着いたときには日は落ちて、夜の海辺は静かであった。波打ち際の濡れた砂を手に取った。砂粒は月の光を受けて輝いている。闇色の海は穏やかで地球が滅びかかっているなんて嘘みたいだ。
 波打ち際に浅く穴を掘って、彼女の形に骨を並べた。濡れた砂をかけて、眠りにつかせるように手のひらで砂を均していく。打ち寄せる波が時間を掛けて砂を少しずつ削っていった。気が遠くなるほど時間のかかる作業だった。
 彼女の身体が海に還るまで、彼女のために祈る。膝をついて、彼女のことをひたすらに想った。それは祈りなんて綺麗なものでは無かった。醜いほどの執着、彼女のことを想っているふりをして、自分が満足するために彼女の死骸を弄んでいる。
 永い祈りの途中で、子どもの頃に近所のおばあが言っていた言葉を思い出した。夜の海には魔が潜む。死を近づけてはいけない。魔物が近寄ってきてしまうから。死者の名前を呼んではいけない。波に乗った悪魔が死者を霊界から連れてきてしまうから。
 ああ、これは呪いだったのか。死後の世界で安らぎを手に入れるはずの愛しい女性を引き戻す、禁忌のまじない。彼女への想いも、呪いへ変わる。
 それでも良かった。あの日、俺の理性も彼女と共に焼け焦げてしまったのかもしれない。
 海の向こうが白み始めた頃、海水が砂を攫い切った。
 時間が止まっているようだった。俺が言葉を紡ぐ度に、心臓が強く打つ。息ができなくなる。世の理に逆らっているのだとわかった。人ではない何かが、彼女を呼び戻すために俺の身体を解いているのだ。かみさま、いいや悪魔だって、魔物だっていい。俺の身体なんて好きに使ってくれて構わないから、あの子を返してくれ。
 指先が溶けて、爪が剥がれた。さくり、と爪が落ちた音が聞こえてから、瞼が張り付いて目が開かなくなる。どろどろと皮膚が溶けていく。声が出なくなって、こちら側の世界では意味を成さないだろう言葉が俺の隙間から漏れ出していく。

「もう一度、きみにあいたい」

 彼女の名前を呼ぶ前に、ついに身体が溶けて崩れた。 
 目が覚めた時、俺は自分の意識が残っていたことに感謝した。何故なら横向きになった視界に目を瞑ったままの女性が映ったからだ。波打つ黒い髪、柔らかな肌、命を失う前の身体を取り戻したきれいな死体が、そこにあった。

「    」

 名前を呼んで手を伸ばした。ふと、自分の掌が見慣れた形をしていないことに気づく。
 随分と青白く、皮膚に群青色の鱗や乳白色の螺鈿が混じり、指と指の間には水かきの様なものがついている。
 一度皮膚が溶けた記憶も残っているから、海の中の有り合わせの死体を繋ぎ合わせて生を繋いだのだろう。どこまでも生きることに執着する奴だ。海に潜む魔物も呆れたことだろう。自分自身が化物になってしまった。
 傍に寄って彼女を抱き起こした。冷たい身体だった。胸の中心に手を当てても心臓は動いていない。死体なのだからあたりまえだ。

「……目を、開けて」

 ゆっくりと持ち上げられた瞼の下で眠っていた大きな瞳。血の気の無い顔で俺を呆然と見つめる彼女は口を開いて、何かを言おうとする。はくはくと金魚のように唇を開閉する彼女を見て塩辛い涙が溢れてきた。
 責めてくれ、罵ったっていい。

「あ、り、り……りゅう、くん」

 途切れ途切れに言葉を紡ぐ彼女は目を細めて、俺の頬に触れる。冷たい掌だ。

「……そんな、からだに、なって」
「ごめん、」
 
 謝って済むものではない。理性は焼け焦げ、身体は溶け落ちて、人間として残っている部分は彼女への想いだけで動き続ける心臓だけだ。

「わたしこそ、おいていって、ごめんね」

 できるだけ力を籠めないように彼女を抱きしめた。柔らかくて、力を籠めればすぐに壊れてしまいそうだった。震える腕が視線の先をゆっくりと動いて、遠慮がちに俺の背に触れた。

「ふたりして、つめたいや」

 抱きしめられたまま、彼女は途切れとぎれの声で鼻歌を歌った。聞き覚えのあるフレーズ、それは俺が歌っていた曲だった。

「……わたしたちの在り方は、まちがっているかもしれないけれど、また会えてうれしい。……それで、いいよね」

 白い顔をして、きみは微笑む。
 きみは死体で、俺は海の魔物に成り下がって、それでも、傍にいたいと望んでしまった。言葉の代わりに塩水ばかりが落ち窪んだ眼窩から落ちた。それで、いいんだ。 

 醜い海の魔物になった今でも、狂おしいほどに愛している、きみのことを。

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