11.きみの悪食を愛する


 俺の恋人は食いしん坊で、いつもお腹を空かせている。食べている姿はとってもキュートで堪らない。ずっと見ていたいくらいだ。
 料理が目の前に運ばれてくると、ぴたりと両手を合わせて「いただきます」と言う。色鮮やかに纏められたテリーヌを崩さないようにそっとナイフを入れるのも、黄金色のスープを湛えるラーメンの麺を箸ですくい上げる時も、同じくらい丁寧に、唇まで運ぶのだ。
 ほんとうに美味しそうに食べるものだから、見ているこっちまで幸せになってしまう。
 ケーキのイチゴを彼女の皿に乗せてあげただけで、ダイヤの指輪をもらったみたいに目を輝かせる姿に、俺はすっかり参ってしまった。

 俺の作る不格好な手料理だって、彼女は喜んで食べてくれる。俺の料理はお世辞にも上手では無くて、見るからに男の料理と言った感じなのだけれど、一口食べて顔を綻ばせて「おいしい!」と言われたら、そりゃあ大好きになってしまっても仕方が無い。

 いつからだろう、彼女と一緒に食事をしていると、食器がいつの間にか減っていることに気づいた。ちょっとお洒落なフレンチを食べに行ったとき、上品にスプーンを口に運ぶ様を眺めていたら、彼女の口から戻ってきたスプーンの先端が消えていた。驚いた声をあげると彼女も目を丸くした。スプーンが壊れたわけではない、無意識に、彼女が食べてしまっていたのだ。

「わたし、……最近なんでも食べれるの」

 やってしまった、という顔をして彼女が口元を押さえる。俺はウェイトレスに声をかけて「壊れた」スプーンの交換を頼んだ。ウィンクも添えて。彼女は笑顔でスプーンを取り換えてくれる。
 なんでも食べれるって、素晴らしいことだ。食いしん坊な俺の恋人に、なんら問題はないよ、と伝えた。



 仕事が終わって、彼女の待つ部屋に戻れば、いつも玄関まで出迎えてくれる彼女はいない。代わりにリビングから「おかえり」と間延びした声が聞こえてくる。

「あ、またなんか食べてるな〜〜?」

 くぐもった声から彼女の口になにか食べ物が入っているのだと俺は推理する。案の定、彼女はリビングで、ノートパソコンと睨めっこをしながら口を動かしていた。後ろに回って抱き着くように腕を回すとくすぐったそうに笑い声が漏れる。

「お仕事おつかれさま。食べてるって言ってもね、ちょっとだけだよ」
「ダメ! 食あたりを起こしたらどうするのさ」
「鉄の胃袋だから、平気、平気」

 可愛らしく笑いながらも、彼女の指先はパソコンの画面に伸びる。ひょいと文字を摘んでは口の中に放り込んでいく。1センチほどの明朝体の文字は彼女の舌に絡めとられてスナック菓子のような音を立てて噛み砕かれた。
 彼女が見ていたのはサーチエンジンのトップニュースだ。大方彼女によって食べつくされてしまった見出しの記事は、歯抜けになって、不自然なほど偏った内容ばかりを残す。パンダの赤ちゃんが産まれただとか、囲碁界に天才が現れただとか、アイドリッシュセブンの新しい番組が始まるだとか、そんな幸せなニュースばかり。
 俺とユキのゴシップ記事や、悲しい事件。災害のニュースなんかを見かけると、彼女はぱくぱくとその記事を食べてしまう。優しい子なのだ。世の中には心無い言葉が溢れていて、アイドルとして大勢の前に立つ以上、好意以外を向けられることの方が多い。この部屋は彼女の作り上げた、俺たちのための小さな王国だ。下品なゴシップも、乱暴な批判も、はじめから存在しなかったみたいに、彼女の歯に噛み砕かれて飲み干されていく。

「意味のないことだってわかってるんだけど。わたしの大事なモモを貶されたくないんだもの」
「わかるよ、ありがとね」

 彼女はいつだって俺の、俺たちのことを応援してくれている。
 沢山の人たちの前で歌うようになって、大きな賞をもらって、俺たちを認めてくれる人たちが増える反面、俺たちを疎ましく思う人たちも増えていった。それは、至極当然のことだと思う。人の好みまで口を出す気は無いし、匿名の書き込みにいちいち傷つく時代は乗り越えた、はずだ。
 だから、小さな書き込みなんか気にしなくて良いんだよ。俺の悪口なんか書いてあったってちっとも気にならない。ユキを悪く言う声があったら、ムッとしちゃうかもしれないけどさ。それだって、小さな声だ。聞き流せるよ。
 それよりも、暗いニュースや下品な話題を飲み下す彼女の身体の方が心配だ。

「うーん。俺はきみに、もっと美味しいものを食べてほしいんだけどな」
「あら、ご飯にする? 今日はねえ、オムライスの予定なんだよ」

 立ちあがってキッチンに向かおうとする彼女の手を引いて、椅子に座らせる。
 彼女は聡明だ。明るくて、やさしくて、一緒にいると安心できて、……そして、ちょっぴり心配性だ。ひょうきんで、ハッピーなことが大好きな、リヴァーレの“百”を俺が“演じている”と思っている節がある。だから、俺が不幸せになるような情報を遮断しようとしているのだ。それって、すごく過保護だ。笑っちゃうくらいに効果は小さいけれど、俺はそんな彼女の気づかいが純粋にうれしかった。
 彼女の前で過去に囚われたり、暗い表情は見せていないつもりだったんだけど、気づかれてしまったのかもしれない。ポーカーフェイスの苦手なアイドルってカッコ悪いな。

「夕飯にはまだ早いだろ?」

 確かに、と振り向いた彼女の唇に自分の唇を押しつけた。柔らかい唇をこじ開けて、綺麗に並んだ歯列をなぞる。舌が合わさって、擦れて、彼女が俺の服をそっと掴んだ。
 ねえ、時間を頂戴。オムライス作るの、手伝うからさ。卵をかき混ぜてあげる。玉ねぎのみじん切りだって担当しちゃう。唇を離して、もう一度触れるだけのキスをした。彼女は深く息を吐いて、俺のことを熱っぽい目で見つめてくる。かわいいなあ、ほんとうに。
 膝に腕を差しこんで持ち上げると彼女は驚いた声をあげた。ソファとベッドどっちがいい? なんて聞くのは野暮かな。そのまま眠ってしまっても良いように、寝室に向かった。
 ベッドの上で天井を見上げる彼女のブラウスのボタンを外す。女の子の服ってどうしてこう細やかで可愛らしいのかな。好きな子が着ているから? 俺って単純で幸せな頭をしてる。キャミソールも上にたくし上げて、華やかな色の下着が露わになる。「かわいい」と漏らせば「モモがくるから、新しいのにしたの」と微笑む様はすっごくセクシーだ。首筋をなぞって、可愛らしい下着に守られた胸元に触れて、丁度お腹のあたりを撫でる。
 そこにはまあるい空洞があった。ビニールバッグのような透明な皮に覆われてはいるものの、骨も、内臓も、ない。ただ向こう側が透けて見える空洞がぽっかりと彼女のお腹にあった。そこには彼女が食べたものがぷかぷかと浮いている。小さい子が遊ぶ水の入った玩具を思い出した。
 彼女のお腹の中に浮かぶのは、ばらばらになった文字の欠片。雪のような白い粒は砂糖かな。銀色の金属はまたフォークを食べてしまったらしい。
 水槽みたいに透き通る腹部を撫でていると、彼女は「あまり見ないで」と身を捩った。

「どうして。きれいだよ」
「モモだけだよ、そんなこと言うの。きもちわるい、が正解でした」
「こら。俺の自慢の彼女を悪く言わないで」

 透明な部分は彼女の皮膚のままなのだろうか。彼女の制止の声を無視して舌を這わせれば、なんとも不思議な食感だ。

「きれいだよ。ほんとうに、きれいだ。もし、世界が終わる日が来たら、きみのお腹の中に隠れさせてよ」
「……あなたのことを、食べたりなんかしないよ、モモ」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめ合って、そんな日は永遠に来なければいいと思った。
 この部屋の中には、俺たちを傷つけるものは存在しない。彼女を傷つけるものはみんな俺が壊してあげるし、俺の嫌いなものは彼女が食べてくれる。
 ミサイルが降ってきたって、化け魚が空を覆ったって、俺たちの小さな王国には傷一つ付けられない。ここは希望的観測に満ちた脆いシェルターだ。彼女の体温を感じながら、祈りを捧げるように目を閉じる。


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