9.ベガの夜盲

 あまりにも永い間恋人を待ち続けていたものだから、最近ではすっかり目が悪くなってしまった。暗い場所では物の輪郭をはっきりと捉えることができない。
 宇宙はいつだって暗幕を掛けたような色をしているから、彼を探そうと歩き回れば隕石に躓いて転んでしまう。 散らばる星の光ではわたしの視界は広がらないから、彼が来るのを両手を伸ばして待っている。
 愛しい彼を待ち続けるには随分心許ない瞳だけれど、彼が近づけばすぐにわかる自信があった。彼の心臓は白銀に輝いて辺りを照らすから、近くに来てくれれば目が覚めるように彼の顔を見ることができるはずだ。まず彼が近づけば、宝石を砂糖で甘く煮たような、澄んだ甘い匂いが周りを満たすだろう。柔らかい羽根が空を切る音が聞こえて、 空がぼんやりと明るくなっていく。見た目がどんなに変わっていたって、わたしは彼を見つけられる。
 ――天くん。わたしたちは遥か昔から、恋人同士であった。
 気が遠くなるほどの昔、わたしはしがない機織りの娘で、彼は草原で牛を追っていた。牛飼いだなんて、彼のファンが聞いたら怒るだろうか。もっと素敵な仕事を当ててよと。わたしは馬鹿だなあ、と返すだろう。天くんは何をしても上手だったから、彼の育てた牛は従順で、銀河を素早く渡ると評判だった。
 わたしたちは仕事の合間を縫って歌を歌った。わたしの歌は下手くそで、歌えば鳥が笑って飛べなくなるような出来だったので、天くんの歌に合わせるために琴を弾いた。天くんの歌は素晴らしかった。どんな神様だって手放しで褒めたたえて、自分の傍で歌ってほしいと頼み込みに来たけれど、彼はいつも首を横に振っていた。
 ある時、天の川が増水したことがあった。川の近くで暮らしていた彼が様子を見に行き川を覗き込んだその時、誰かが彼の背中を押したのだ。丁度天の川には下界で生まれ変わるための沢山の魂が流れていて、天くんは川に落ちた拍子にその流れの一つに巻き込まれてしまった。ひとつの生を終えたあとも、彼は輪廻の輪から中々抜け出せずにいる。彼は優しいから、頼まれるがままにその歌を披露し続けているのだ。
 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
 わたしは耳を澄ます。目は悪くなってしまったけれど、耳の良さには自信があった。彼の歌ならどこにいたって聴こえる。歓声に応える彼の声は何千年経っても変わらない。
 天くんは下界で、アイドルとして人々の歓声を一身に受けて、相変わらずきらきらと輝いているのに、わたしはぼやけ始めた目と草臥れた機織り機と共に、彼を延々と待ち続けている。銀河で生けるものの寿命は長い。けれども、あまりに退屈だ。 
 わたしの織った布を必要とする星々も、殆どいなくなってしまった。もはやただの趣味となってしまった機を織る手を止めて空を仰ぐ。ごうごうと星屑を砕く音が遠くで聞こえて、目を細めると巨大な魚の輪郭が見えた。ここ最近銀河の周りを泳いでいるシーラカンスだろう。彼女の鱗は光を帯びているのでわたしでも気づくことができた。手を振ると群青色の魚は近づいてきた。礼儀正しい彼女は大きな体を揺らして会釈する。

「ねえ、どこへ行くの」
「織姫さま、ごきげんよう。私は恋人を探しに行くのです」
「恋人?」
「そうです。地球にいたころに一緒だった、私の恋人」

 こいびと。そう言ってシーラカンスは目を細めて微笑む。銀河に迷いこみ、長い間宇宙で暮らしていた彼女は普通の魚よりは随分、大きくなりすぎてしまったように見える。

「彼をずっと待っていたのだけれど、待っていても彼は宇宙にくることができないのだと気づきました。だから、迎えに行くのです」
「あなたの恋人はもう……」
「ええ、肉体はとうに死滅しているでしょう。けれども、彼は生まれ変わっているかもしれない。あなたの恋人のように」

 天くんは特別だ。彼の魂は地球に住まう生き物などとは別なのだから。可哀想な魚に反論しそうになる自分を押さえて、彼女を慰めるような口調で呼びかけた。

「あなたが地球に向かえば、生き物はみんな驚いてしまうよ。あなた、自分が思っているよりも大きいんだから」
「わかっています。驚かさないように、そっと近づきます。彼が私のことを忘れているならそれでも構いません。私は彼がどんな姿になっていたとしても見つけられます。それが愛でしょう」

 魚の分際で愛を語るか、とわたしは思わず目を丸くしてしまう。どれほどの時間、恋人を待ち続けたというのだろう。それでも彼を迎えに行くと決めた彼女の行動力が少しだけ羨ましくて、彼女の背に乗せてもらって地球に行くのもありだろうか、とまで考える。
 シーラカンスの目には涙が浮かんでいて、それを見ると急に可哀想になってしまった。わたしは意地悪な考えを捨てて彼女に声をかけた。泣かないで、かわいいおさかなさん。あなたの涙が落ちれば、わたしの星が水没してしまう。

「……見つかるといいね、あなたの大事なひと」
「ありがとうございます。織姫さまにも、幸いがありますように」

 また頭を震わせて、シーラカンスは遠い星へと向かっていった。わたしにあの子を止める権利などない。きっと、彼女の恋人は彼女がわからない。だって随分と時間が経ちすぎてしまったし、それに彼女は大きすぎる。どれだけ巨大なクジラだって、彼女の大きさの前では目を回してしまうだろう。
 彼女の決断を愚かだと思いながら、自分はどうなのだろうと胸に手を当てる。遥か遠い昔の恋人を天くんが覚えているとは限らない。天の川に流されて、彼は何度生をやり直したのだろう。彼が経験したのは人間だけではない。熊であったときもあった、イルカとして海を跳ねたことも、山鳥になり秋空を飛んだことも、蛞蝓となり地を這ったこともあっただろう。短い生を精一杯生きてきた彼が、わたしのことを忘れていないとどうして言い切れるのだろう。
 ああ、急に自信が無くなってきた。このまま暗い宇宙でひとり、機を織り続ける生き方なんて、罰を与えられたみたいだ。天くんは短い生の輪廻に巻き込まれ、わたしは彼を奪われた。嫉妬深いかみさまもいたものだ。



 シーラカンスを見送って、しばらく時間が経った。
 宇宙には幸せなニュースも不幸せなニュースも届かない。星が時々ぶつかる音が聴こえるくらいで、嫌になるくらい静かだ。最近ではすっかり星も減ってしまった。退屈を持て余した星たちは、地上から聴こえる歌に惹かれて落ちていってしまう。異常に流れ星が多いのはそれが原因らしい。わたしが琴を弾いても見向きもしなくなったくせに、なんて奴等だろう。
 薄情な星たちが消えてしまったせいで、わたしの周りは最近更に暗くなってしまった。機織り機の近くに灯る火を消せば、空からの灯りでは自分の指先すらも覚束ない。
 夜が暗くなれば暗くなるほど、待つ時間が長く感じるようになった。そういや地上から彼の声が聴こえなくなった。最近聴こえるのは、力いっぱいに歌う明るい青年の歌ばかり。
 わたしは青年の歌を子守歌代わりに眠ることにした。機織り機も琴にも布を被せて、しばらくお休みをしよう。飽きる程折った布の上に埋まるようにして横になった。夜は眠るものだ。王子様のキスで目覚めたいなんて、こどもみたいな夢を見過ぎだろうか。
 次に目覚めた時に、彼がいなければわたしも天の川に飛び込んでみようか。彼は光り輝いているから、わたしが冴えない人間に生まれ変わったとしても、一目会うことくらいはできるかもしれない。

「………お待たせ」

 遠くで羽音が聴こえた気がして、薄目を開ける。なんだか随分と眩しい。大きな羽根、やさしい声、そして眩しいくらいに輝く白銀の光。ああ、もしかして。

「こんなに長い間待たせてしまって、本当にごめん」
「………天くん!」

 ひやりと、冷たい手が頬に触れた。誰かに触れられるだなんて久しぶりの感覚だ。目を開けば、あたりは明るく、頬笑みを湛えた彼がわたしの目の前に座っていた。堪らず寝起きのまま彼に飛びついた。

「天くん、天くん、会いたかった!」
「あ、ちょっと待って……」

 抱き着いた彼はぐっしょりと濡れていた。彼はバツが悪そうに頬を掻いた。

「……キミに会えると思って、浮かれすぎた。あの忌々しい川に落ちたんだ」

 わたしの肩をぐいと押して、照れ笑いを浮かべてみせる天くんは、あの頃と変わっていなかった。わたしは彼の肩についた水草を払い落として、濡れるのも構わずもう一度抱き着いた。

「濡れちゃうよ」
「いいの! 天くん、水も滴る良い男だから」
「……本当は、花束も用意したんだけど。落ちた拍子に」
「流されちゃったのね」
「面目ない。格好つかないな」
「わたしに会おうとして急いで飛んできてくれた天くんのどこが格好悪いの? もう最高だよ、最高! ずっと会いたかった。ずっとあなたに恋してた!」

 抱き着いたまま、彼の肩に顔をうずめる。やっと会えた、と背中に回る彼の腕に力が込められて、わたしは泣いてしまいそうになる。
 彼が隣にいるだけで、宇宙はこんなにも明るい。暖かい光に目が眩んで堪らない。

「ずっと待っていてくれてありがとう。ボクの恋人」

 彼にそう呼んでもらうことを、いったい何度夢見ただろう。本物の彼は、わたしの擦り切れた想像の天くんよりもずっと、ずっと素敵だ。
 衣服をびしゃびしゃに濡らしたわたしたちは痛いくらいに互いを抱きしめて、お互いの存在を確認した。夢じゃない。わたしのぼやけた目にも彼の姿だけははっきりと映っている。
 わたしたちは眩しい宇宙の果てで、何万年ぶりかの再会を喜び合い、いつまでもいつまでも笑っていた。

prev next
back