2.腑抜けどものソナタ

 別れ話をするのは初めてではなかった。わたしの乏しい恋愛経験のなかで、別れ話をするときというのは、どちらかの気持ちがぷっつり切れてしまっているので、泣いたって笑ったって、終わりが見えているものだったのだけれど、今回ばかりは違った。
 デートとは名ばかり、別れ話をするために予約されたレストランから帰る足取りは重かった。お酒を飲む気分ではなかったので、わたしが車を出すことを提案した。
 大和くんは結局お酒を飲まなかった。やっぱり、ラーメン屋でも良かったのではないか。あんなに素敵なレストラン、あまりに最後の記念、って感じだもの。そう伝えると、彼はわたしの気合の入った格好を一瞥して「ラーメンすすりながら話す話題じゃないだろ」と困ったように笑った。 
 確かに、下ろしたてのジャケットにラーメンのスープを飛ばす勇気はなかった。
 料理の感想とお洒落な店の内装に話題を振りまくって、レストランで別れ話をされるのはなんとか避けたけれど、車の中ではそうもいかない。大和くんは助手席で黙ったまま、わたしは沈黙が嫌で、カーステレオの音量を上げた。
 今を時めくアイドルを乗せて、小さな軽自動車は夜景を横目に高速道路を駆ける。わたしの自動車はアクセルを踏むとびりびりと震える。気を抜くと後ろの車に煽られてしまうから、もうヤケだ、ってエンジンを回してスピードを出す。一定のスピードで走れなくて、先の見えないカーブを曲がるときはおっかなびっくりブレーキを踏む。
 下手くそな運転は、自分の性格をそっくり表しているみたいで、改めて彼の隣で運転するのは恥ずかしい。
 大和くんは窓の外を見つめている。東京の夜は眩しい。眩しすぎて、夜だって気を抜けない。

「なあ、おでこちゃん」

 大和くんは、わたしのことを『おでこちゃん』と呼んだ。初めて会った時、わたしは就職活動の真最中で、前髪をガチガチに固めて額を出した髪型をしていたから。それが随分気に入ったのか、彼はあれからわたしをそう呼んでいた。

「はあい」

 わたしは彼を見ない。運転中だから。動揺させたら危ないよ。

「ごめんな」

 沢山の意味を乗せたであろう謝罪を受けて、思わずちらりとミラーに視線を移した。大丈夫。右足はショックでブレーキを踏み込んだりしない。踏んだとしても、後続車はいなかった。呼吸を整えるために、わざとらしく大きな深呼吸をした。
 わたしの必死の攻防なんて、なんの意味もなくなっちゃう。謝らないで。狡いのはわたしだ。



「もう、おまえさんの傍にいられないんだ。だから、終わりにしよう」

 それは突然のことだった。その提案があった時、わたしは彼の腕の中にいて、彼は優しい手つきでわたしの髪を梳いていた。
 嫌いになったわけじゃない。他に好きな人ができたでも、仕事の邪魔になったわけでもない。彼はその理由を口にしてはくれなかった。ただ、もう一緒にはいられない、と告げた。
 ひとつの理由でも言ってくれたなら、わたしは枕を涙で濡らすだけで済んだかもしれないのに。大和くんは、大事なことはいつも、心の内側にしまいこんだまま。それに気づいてあげられる彼女なら良かった。知らないふりをして、大人ぶって笑顔でさよならを受け入れてあげられたらよかった。余裕のないわたしにはどちらもできない。
 返事を返すことができなくて、わたしは言葉もなく泣いた。好きだとか、嫌いだとか、そういう感情よりも、彼の隣にいる必要が無くなったということが悲しかった。彼に、必要とされていたかったのだ。
 先延ばしにし続けていた返事を、彼は待っている。わたしが、「いいよ」と言わなければ幕を閉じることができないのだ。
 カーステレオの音量をまた乱暴に上げた。かかっているのは決まってアイドリッシュセブンの曲だ。大和くんと、6人の歌声は明るくて、別れ話には笑ってしまうくらいそぐわない。
 彼のことが好きだった。テレビの中の彼も勿論、嘘みたいな偶然が重なって付き合うことになった等身大の彼もまた、かっこよくって優しくて、釣り合ってないなあって、いつだって思った。それでも、彼はそんなこと気にしないよって笑って、本当に、傍にいられるだけで幸せだった。だから、大事な大和くんを困らせることはしたくなかった。 
 わたしは決意を固める。息を吸った。

「いいよ! 大和くん。お別れしよう」

 変に大声を出すものだから、心臓が音を立てる。ぶるりと手が震えて、アクセルを踏み込んだ。エンジンの音と彼らの歌声で、自分の発言が掻き消されてしまえばいいのに。
 けれど、もう取り消せない。
 はらはらと涙が落ちた。
 ハンドルに大和くんの手が添えられて、彼が優しく言う。

「高速下りたら運転代わって」

 わたしはこくりと頷いて、黙ってアクセルを踏んだ。誤魔化す言葉も出てこなかった。
 わたしにティッシュを差し出して、大和くんが運転席に座る。助手席でシートベルトを巻き付けて視線を移せば、ハンドルを握る大和くんの横顔が見える。かっこいいなあ。 
 わたしの通勤用の軽自動車のハンドルを握っているだけで、映画のワンシーンみたいだ。見惚れているわたしを余所に、車は動き出す。
 何処へ行くの、とは聞かなかった。できることなら、どこへも止まりませんように。
 大和くんはけたたましい音で歌い続けるカーステレオの音量を下げて、終いにはラジオに切り替えてしまった。車の中で、ラジオのニュースだけが場を和ませようと必死に喋っている。
 正体不明の物体が地球に接近している。あまりに巨大なその物体は衛星から観測したところ、古代魚に酷似していた。専門家によると、それは不規則に地球の周りを周回しており、このまま接近し続けると地殻変動や異常気象が起こる。海外では突然変異を起こした動物や植物が発見されており、この異常が人間に及ぶのも時間の問題だろう……。
 はっきり言えばいいのに、地球は終わりだと。
 どこか現実離れてしているわたしたちは、ミサイルが飛んできてサイレンが鳴り響いても、鬼気迫ったニュースが流れてもやはり他人事を貫き通す。
 わたしだってそうだ。気になっているのは大和くんの言葉ばかりで、古代魚だって地球の滅亡だって、遠い世界の話みたいに聞こえる。願わくば、このニュースによってわたしたちの関係が世界の終わりの日まで延長できないか、そんな自分のことばかり。

「……これ、本当かな」
「まさか。そう簡単に地球は滅亡しないよ」
「……どうせ終わるなら、今日、終わっちゃってもいいのに。……なーんて」

 わたしがこんなくだらないことを言いだすだろうと予想したから、大和くんは運転を交代すると申し出たのだろうか。大丈夫、無理矢理アクセルを踏んだりはしないよ。
 きっと、世界は滅亡しない。
 滅びゆく世界で、避難所に駆け込んで、縋るようにイヤフォンから聴こえる彼の歌声に縋るなんて、まっぴらごめんだもの。
 彼の丁寧な運転に身を預けたまま、この夜が終わらないことばかりを祈る。やっぱり、なにか曲をかけて欲しい。 ラジオから聴こえるニュースは無機質で冷たいから。CDから聴こえる誰かのための歌の方が、ずっと、ずっとすきだ。

「ほんと、どうせ終わるなら、今日終わってくれたら良かったのにな」

 大和くんがあーあ、と続けた。わたしはまさか彼が同意してくれるとは思っていなかったので、驚いて彼の顔を見つめる。

「俺は、やっぱりずるい奴で、嫌われる勇気もない、お前が傷ついた顔する度に言えなくて、結論伸ばさせて、……結局、傷つけた。ごめんな」

 いいの、とわたしは反射的に声に出していた。大和くんが言っている言葉の意味は理解できていなかったけれど、彼が謝ることはない、と思った。物わかりの悪いわたしが悪いのだ。

「タイムリミットは、今日だった」
「……大和くん?」

 彼はそう言ってブレーキを踏んだ。気づけば車はわたしのマンションの前に止まっていた。彼は、どうやって帰るのだろう。タイムリミット、という言葉の意味もわからない。

「最後まで傍にいられなくてごめん、俺は、お前のことが好きだったよ」
「やまとくん、ねえ」
「    」

 大和くんが、わたしの名前を呼んだ。痛いくらいに抱きしめられる。冷たい手が、額に触れた。大和くんの群青色の瞳が、涙を湛えている。前髪を持ち上げられて、唇が触れる。

「ねえ……」
「ずっと待っていたんだ。けれど、身体が持たなくて、生まれて、また、死んで。その繰り返しだった。ごめんな、きみを、愛していたよ」

 愛している。大和くんの声は今にも泣きそうだ。わたしも、誰よりもあなたのことが大切だよ。伝えたくて、顔を上げた瞬間、大和くんと目があった。
 ふ、と目を細めて笑う彼は、誰かに呼ばれたかのように宙を見たかと思えば、テレビの電源を落とすみたいにぶつんと消えてしまった。

「…………え?」

 腕が空を掻く。確かにそこにいたはずなのに、運転席には誰も座っていなかった。シートには体温が残っている。神隠しにでもあったみたいに、彼は消えてしまった。
 きっと大和くんは、この結末を知っていた。だから運転を代わってわたしのマンションの前まで連れて来たのだ。
 あの日、別れを切り出した時から、カウントダウンは始まっていたのだろう。消えることが決まっていたような口ぶりだった。彼は、誰を待っていたのだろう。
 大和くんの目の色は、あんな色だっただろうか。彼の中に、わたしの知らない誰かが隠れていたみたいだ。彼は、呼ばれて行ってしまった。わたしの、手の届かない場所に。
 これは、夢だ。そう信じて車を降りた。部屋の電気を点けると彼と会う為に悩んで選ばれなかった服の残骸が広がっていて、それがやけに現実を突き付けてきて、わたしはようやく声をあげて泣いた。
 ああ、はじめから、みっともなくたって、情けなくたって、大和くんの前でこうして泣いて縋って気持ちを伝えたら良かった。そうしたら、彼はしぶしぶ自分の隠し事を教えてくれたかもしれないのに。彼に、あんな辛そうな顔をさせたくなかった。
 どうして彼が消えてしまったのか、原因はちっともわからない。ただ後悔だけが押し寄せて、しゃくりあげて子どもみたいに泣いた。化粧も溶けだして、新しいジャケットに染みをつくった。スカートも冷たくて、わたしもこのまま溶けて消えてしまえたら良かった。
 けれども、そう簡単に消えることはできなかった。大和くんの恋人だったわたしは溶けて消えてしまったのかもしれない。顔を洗って鏡に残るのは、恋心の残骸みたいな、目を腫らしたみにくい亡霊だ。

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