4.あのまぼろしにも孤独があるように

 夏の終わりにかけて秋に向かう準備をしているかのような冷たい雨の日、普段通りの通学路を環と一織は歩いていた。校門を過ぎると長い下り坂が続いていて、自転車で通学しているクラスメイト達が傘を差す環と一織を後ろから追い抜いていく。雨足の強さに悲鳴をあげる同級生に「天気予報を見なかったんですか」と一織が呆れたように声をかけていた。
 土砂降りと言ってもいいくらいの天候だ。天気予報は雨模様が続いていた。朝は晴れていたから、うっかり自転車で通学してきたクラスメイトは慌てて帰路につくし、雨具を持ってきた生徒たちは靴を濡らしながら憂鬱な足取りで坂を下っていく。
 坂を下れば、大きな十字路が交わる道路に出る。ガードレールが設置された部分で、環が足を止めた。

「なあ、アンタ寒くねえの」

 彼が声をかけた先には誰もいない。隣を歩いていた一織が眉間に皺を寄せて環の制服の裾を引いた。

「……四葉さん」
「なんだよいおりん。だってこの人、こんな雨の中さあ、風邪ひいちまうよ」
「そこには、誰もいませんよ」

 一織は慎重に、台詞を言うみたいに一音一音を明瞭な活舌で発言した。環が見つめている場所には、人の気配はない。ガードレールの向こう側を、泥水を跳ね飛ばしながら、トラックが一台走っていった。
 視線を移せば、少し離れた電柱の下に花束と飲み物が供えてあった。この辺りで交通事故があったのだろう。心霊話の類は一織にとっては気の乗らない話題であった。けれども、それ以上に苦手としていたのが環であったはずなのに、彼は平然と虚空に話しかけている。
 環の怪談嫌いはグループの中でも有名で、撮影のために宿泊した旅館でも、悪戯好きの大和や三月が怪談をはじめようと提案すれば、いの一番に環が反対の声をあげていたくらいであった。それなのに環は相変わらずガードレールの、少し上を凝視している。虚空を捕らえる目線が微動だにしないものだから、一織も肝を冷やした。まるでガードレールに腰かけた誰かを見ているみたいだ。

「よ、四葉さん。信号が青になりましたよ」
「いおりん、いじわる言うのやめてくれよ。この人、ちゃんとここにいるだろ」

 ――これは、まずい。非常にまずい。どうするべきか。最早手に負えないところまで来てしまった。逢坂さんに相談する? いいや、まずは最年長者の二階堂さんに相談するべきか。いや、この手の類に彼が強いとは思えない。それでは、時々虚空を見つめるうちのセンター? いいや、ミイラ取りがミイラになるだけだ。それじゃあ、一体。
 今を時めくアイドルグループ、アイドリッシュセブンの頭脳であり、冷静沈着なパーフェクト高校生とも呼ばれている和泉一織はその頭脳をフル回転させて現状を打破する方法を考えた。けれども名案は浮かばなかった。

「……うん、それじゃ、また今度。お姉さん、王様プリン好き? ……あ、そっか。うん、じゃあ、またな」

 一織が考えを巡らせている間に、環の方で話がついたらしい。冷や汗を垂らす一織とは対照的に、環は何食わぬ顔で一織の隣に並んだ。

「四葉さん、あなた……」
「いおりん、しー」

 唇の前に長い指を伸ばして、環は一織の口を塞いでしまう。一体何だというんだ。一織は環に従って、黙ったまま足を進める。先程の場所から電柱一本分は歩いた頃だろうか。

「あのさ……。やっぱ、あの人、死んでるって」
「だっ……! だから言ったじゃないですか! あなたにしか見えてないんですよ!」
「しーっ! ばっか! でかい声で言うなって。聞こえるだろ」
「聞こえるも、何も……」

 しー。人差し指を唇の前で立てる環を前に、一織は言い返せない。
 乱暴で粗野な人間だと誤解を受けやすいが、環は、感受性が豊かで、心優しい性格をしている。友人として、一織は彼の性格をよく理解していた。

「本当に死んでてもさ、嫌だろ。自分が死んでて、ここにいるべきじゃないって、他人から言われたら」

 環の目は真剣で、一織はその剣幕に押されて頷く。何も見えない。環が誰と話しているのかもわからない。彼にとっては、そこは雨に濡れた事故現場の跡地でしかなかった。



 あれから一週間が経って、環はガードレールの幽霊と再会を果たすために、仕事終わりの足で件の場所に向かっていた。あそこには近づくな、と一織に口が酸っぱくなるほど言われたにも関わらず。
 夕方の大通りにはまだ人通りも多い。環からしてみれば、周りの人々が彼女に気づかずに通り過ぎていくことが不思議であった。今だって、ガードレールに腰かけて、歩道に足をぶらつかせている。彼女は視線に気づいたのか、環に向かって手を振った。笑顔さえ浮かべてみせる女性は、紺色のスカートにクリーム色のブラウスを着て、ジャケットを羽織っている。いかにもOLという格好は仕事帰りの人たちと遜色なく見えた。

「なあ、お姉さん」

 距離を詰めて、声をかけた。
 背の高い環の行動は目を引く。さらに、アイドルとして顔の割れている彼の奇行は人々の興味を煽り足を止めさせた。

(……あなた、アイドルの環くんでしょ。わたしだって知ってる。目立っちゃうよ)
「アンタと話がしたくて来たんだ。人が居ないところなら、いいの?」

 環は平然と虚空に話しかける。おかしなことに、慌てたのは幽霊の方であった。生前はさぞ真面目な性格をしていたことだろう。幽霊は環の申し出に頷いて、彼の後ろについていく。

(あーあー、みんな見てるよ。幽霊を連れ出すなんて、勇気があるねえ)
「……あー、わかったよ。……うんうん、じゃあ、またな」

 突然話し出した環を不思議な顔で見つめる幽霊に向かって、自慢げに鼻を鳴らした環は自分の耳元からイヤホンを抜き取った。コードの繋がったスマートフォンを取り出して操作すると、彼を見つめていた人々は納得したように各自の行動へと戻っていった。電話をしていた、と思い込んでくれたのだろう。

(か、かしこいな)
「おれ、一応アイドルだから。人目は気にするもん、ってそーちゃんにもうるさく言われてっし」
(壮五くんと環くんって、やっぱり超仲良しなんだ。わたしも、二人のことテレビで見てたよ)
「ありがと」

 環が向かったのは自分の住むマンションの近くにある公園だった。夕日も沈んだ後の時間だからか、人の気配はない。環はブランコに座って、改めて自分の後ろを従順についてきた幽霊を見つめた。

「……あれ? アンタそんな恰好だったっけ」

 先程事故現場で会った時と、彼女の姿が変わっているのだ。左半身がすっかり消えていた。恐らく事故の時に損傷した部分なのだろう。割れた頭、吹き飛んだ手足を隠すように、失った身体は花によって埋められていた。

(あの場所から離れちゃうとね、生きてた頃の姿じゃいられなくなっちゃうの。……こわい?)
「なんで? 花いっぱいで、きれーじゃん」
(…………環くん、お姉さんは改めてきみのファンになっちゃったよ)

 えへへ、と幽霊は照れたように笑う。生きている人間と何が違うのだろう、と環は彼女の反応を見て思った。

「お姉さんは、なんであんなところにいんの。雨降ったら寒いし、夜は暗くて怖いだろ」

 すっかり打ち解けてしまったようで、彼女は自分もブランコに腰かけて話し出した。
 会社から退勤する途中に事故遭い、気付いたらあの場所にいたらしい。時折目が合う人は何人かいたけれど、直接話しかけてきたのは環が初めてだ、と笑った。

「じゃあ、あの場所でずっと一人? さみしくなかった?」
(人が沢山通るから、さみしくはなかったよ)
「そういうもんか? お姉さん、全然幽霊って感じしねえのに」
(……あ)
「ほら、話せるし、触れる」

 手を伸ばして、ブランコの鎖に触れていた彼女の手を掴んだ。冷たくて、重みのない掌だったけれど、確かに環の手は彼女の手に触れていた。

(……普通はあんまり、触ろうとしないんだけどなあ)
「あ。いきなり女の人の手を掴むのは、ナシか。ごめんなさい」
(えへへ……)

 幽霊の彼女は俯いた。環の側からはその表情は見えなかったけれど、泣いていたのかもしれない。まるで、生きているみたいに表情を変えるから、環はつい、「明日も来るよ」と次の約束を結んでいた。
 幽霊は何度会っても名前を教えてくれなかった。それは彼女が引いた防衛線なのだろう。環はすっかり彼女のことを気に入って、時間があれば公園に足を運んだ。彼女はいつもにこやかに環の話を聞いていたし、生前働いていた頃の話も彼にとっては興味深い内容だった。

「また、会いに来るよ。今週はツアーで北海道にいくんだ。土産話も、土産も持ってくるからさ」
(あら、いいなあ。北海道。お土産はお守りが良いな。ちゃんと、神社でもらってきたやつね)
「おー。まかせろ」

 任せろ、と言ったものの。幽霊である彼女に御守りなど必要なのだろうか。彼女と別れた後、自室に戻り、布団にもぐって環は考えた。
 ――成仏したい、とか。そういう話かな。
 彼女はやわらかい布団にもぐることも、あたたかい料理を口にすることも叶わないのだ。改めて考えると、自分は彼女にとって残酷なことをしているのではないか。生を見せつけているような、そんな感覚に陥った。それなら、と環は目を瞑る。
 ――あんな寒いところじゃなくて、うちに来ちゃえば、いいのに。いおりんやそーちゃんは驚くかもしんねーけど、二人だって話せばわかってくれる。あの人なら、みんなと仲良くできるだろうし、今度会ったら、言ってみよ……。



「これ、札幌行った時のお土産な。じゃがポックル、結構かわいいだろ」

 この場所にくるのも久しぶりだ。彼女の嬉しそうな表情を想像して、笑みを浮かべた環は供えられた花束の横にキーホルダーを置いた。供えられている花は週の初めには新しいものに取り換えられている、花を供えている人物と顔をあわせたことはないから、早朝にこの場所に来ているのだろう。

(環くん、おかえり)

 ただいま。
 ぱくぱく、と声を出さずに環は唇を動かす。
 ふたりは恒例の待ち合わせ場所となった公園へと向かう。途中、人通りが少なくなってきた道で環が彼女の方へ手を伸ばした。
 ーーばちん!
 
「痛て!」

 電気が走ったみたいに、手が弾かれた。驚いて振り向けば、彼女は手を伸ばしたまま固まっていた。その手はぶるぶると震えている。

(……ちゃんと、お守りも買ってきてくれたんだね)

 その言葉で、彼女がそれを求めた理由が理解できて、瞬間、自分の頭に血が上るのがわかった。環は大声を出していた。

「なんで、そういうこと、すんだよ!」

 彼女は動じない。片側だけしか残っていない眼は冷え切った湖の様に静かに環を見つめている。

(わたし、最近、自分がもう死んでいることを忘れそうになるの。環くんとあんまり仲良くなりすぎて、……傷つけちゃったら困るからね)
「はあ? アンタが、おれを傷つけたことなんて、一度もないだろ!」

 噛みつくように、環は叫ぶ。風ひとつ吹かない、静かな夜だった。汗をかいて、怒りを顕わにしている環の方が異端であるかのように、街は静かで、幽霊はまたぽつりと口を開く。

(これから、傷つけないとは約束できない。今度、環くんのあたたかい手に触れたら、もう離せなくなるかもしれない。環くんに会えない日を辛く思うようになって、環くんを近くで応援できるファンの子達を羨んで、あなたを、攫ってしまうかもしれない。それが、怖い)

 なんでだよ、と環はまた声を荒上げたくなるのを必死に抑えた。
 彼女の行動は、環の周りのやさしい人たちによく似ていた。相談してくれたら、自分だって役に立てるのに、環のことを想って何も言わず自分の意思を押し殺す、やさしい人たちは決まって辛そうな顔をするのだ。そんな顔、させたくないのに。

「おれは、アンタが好きだよ。ユーレイだからって、とっくに死んでるからって、わがままのひとつも言っちゃいけないのかよ。寂しいって、寒いって、つらくて、ひとりは嫌だって、声をあげることも許されないなんて、おかしいだろ……」

 鞄から神社で買ったお守りを乱暴に取りだして、地面に投げ捨てた。
 神様、ごめんなさい。一度しか会っていない、信仰心の薄い信者のことなんか忘れてくれ。
 自分と彼女のことを応援してくれるならともかく、触れる手を弾くような効力しか持たないのなら、こっちから願い下げだ。環はお守りを一瞥すると幽霊を見つめた。

「いいよ、連れてって。一緒に行けば、名前、教えてくれる?」
(……だめだよ、環くん)

 幽霊の癖に、顔をしわくちゃにして、彼女は首を振る。

「俺は、さみしいのが一番嫌だ。ガキの頃からずっと、さみしかったから。今の生活が気にいってるし、メンバーのみんなのことも、好きだ」
(うん。環くんがいなくなったら、みんな悲しむよ。メンバーも、ファンのみんなも。……妹さんも、だよ)

 妹のことを話題に出した彼女にも、家族がいたのだ。アンタを喪った人たちも、同じように悲しんだんだよ、と環は供えられた花束を思い出した。

「でも、みんなの傍には大事なひとがいるんだ。いいやつばっかりからさ、人が寄ってくるんだ」

 環は噛み締めるように言葉を続けていく。

「あの人たちは、大丈夫。ひとりじゃないから。理だってそうだ。でも、俺の目の前にいる、アンタは、ひとりぼっちだ」
(環くんはまだこどもだから、そう思うだけよ……)

 ――そういや、この人は自分より年上だった。でも、大丈夫。だってアンタは死んでいるんだから。あと5年も経てば俺だってそう変わらない年になるだろう。それまで隣で待っていて。

「ガキのわがままだと思っていいよ。一緒にいたい」

 眩しいくらい、環の言葉はまっすぐで、彼女に逃げ場はなかった。お守りに弾かれた手よりも、彼の言葉の方がよほど胸を痛める。死んでいるのに、もう充分痛みを知ったのに、しくしくと痛む部分は透明な身体のどこに存在しているのだろう。
 そんなことを思いながら、幽霊はまるで身体に重みがあるかのように、緩慢な動作で腕を動かした。片方しか残っていない腕で、生者に縋ってしまうことの愚かしさを、一人の時間何度と考えたのに、伸ばした手を止めることができない。

「ねえ、ぜんぶ、俺のせいにしていいよ」

 ああ、じれったい。環は手を伸ばす。乱暴に冷たい手を掴んで、自分の胸元に引き寄せる。
 この結末の為に、彼女は自分を待っていたのだろう。抱きしめた環にしか見えない幽霊は、女の子みたいに細くて、軽くて、冷たかった。

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