5.きみはかみさまの恋人

 僕の恋敵は音楽の神様だった。
 もしも彼に会うことが叶うのならば、一発頬を張り飛ばしてやりたい。いいやそれくらいじゃ許されない。泣いて謝ってきたって、心の狭い僕は彼を許せないだろう。
 神様は美しい少年の姿をしている、と僕の恋人は言った。作曲家として音楽に深く携わる彼女には神様の姿が見えていた。彼に特別な力はない。ただ、音楽の傍に佇むだけだ。寂しがりやで、我儘で、幼子みたいに素直な性格をしていて、美しい音楽を何よりも愛しているのだという。
「壮五に似てるよ」と彼女は言った。
 彼女の口から語られた情報によると、神様は僕の相方に似ているような気がしたが、その反論を物ともせずに、彼女はエレクトーンに指を乗せて「かわいい壮五」と笑った。子ども扱いしないでほしい、と口を尖らせたら彼女はご機嫌で十指を白黒の鍵盤の上で踊らせはじめた。
 電子音で奏でられるのは「トロイメライ」だ。



 耳が聞こえなくなってしまった、と彼女から連絡が来たのはラジオ番組の収録が終わった直後だった。動揺した僕を無理矢理タクシーに押し込んだ環くんは「めんどくせーことは全部やっとくから、さっさといけよ」と言い切ってドアを閉めてしまった。お礼も言わせてくれなかった。
 僕が病院に駆けつけると彼女は真っ青な顔をして自分の耳を両手で押さえていた。途切れ途切れに確かめるように発された彼女の言葉は揺れて、今にもばらばらになってしまいそうだった。自分の声を確かめる事のできなくなった彼女は僕の名前を繰り返した。
 何度名前を呼んでも彼女は「どうしよう」と零すばかりで、こちらを見ようとしない。手を握って、手の平に彼女の名前を書いた。そこでようやく震える声で泣き出した。
 その日から、彼女に音楽は聞こえなくなった。どこの病院に行っても突然聴力を失った原因はわからず、一時的なものだとも言われたけれど、彼女の聴力が戻ることは無かった。
 話すことが好きだった彼女はそれからあまり口を開かなくなってしまった。二人で過ごしていても背中を撫でたり腕を絡めるだけで何かを伝えてこようとはしない。それでも彼女はよく笑ったし、音が聴こえない分綺麗なものを見て欲しくて、時間があれば外に連れ出すように声をかけた。それから僕らは二人で手話を学んだ。
 彼女が聴力を失って2週間が経った頃、彼女の部屋に行くと、彼女はエレクトーンに向かっていた。コードがパソコンに繋がれている。どうやら作曲をしていたらしい。
 肩を指で叩くと、僕に気づいたのか彼女は振り向いて興奮した口調で言った。

「壮五、聞いて! 音が見える! 演奏すると、色とりどりの音符が浮いて、流れていくの。それを目で追っていくと、きちんと曲になるの。あ、……変なこと言ってる自覚はあるんだけど……。でも、曲はちゃんとできてるでしょ。仕事、穴開けなくて済んで安心」

 嬉しそうに楽器に触れる彼女を見るのは久しぶりだった。彼女が喜ぶことならなんだってしてあげたいのに、僕には空中の音符は見えなかったから、素直に同意することはできなかった。

「……見える、気がするだけ」

 訝し気な顔をしていたのが彼女に見えてしまったのだろう。彼女は念を押すように言って、それからまた作業に戻ってしまった。聴力を失ったとは思えないほど正確に、パソコンに音符が打ち込まれていく。僕はもう一度目を凝らして空中を見つめてみたけれど、やっぱり音符は浮かんでいなかった。
 彼女の音楽の才能はとても素晴らしいものだった。彼女の十本の指からは胸を躍らせるような楽曲が次々に生まれていく。彼女もまた、音楽が好きなのだ。僕が作曲に興味があると漏らした時も、手放しで応援してくれた。
 音楽を愛している人たちの奏でる音はやさしくて、出来立ての彼女の楽曲を耳にするときは、いつも泣き出しそうになってしまうのだ。
 普通の人間である僕ですら感嘆する才能だ。音楽の神様は彼女に夢中になって、ゆっくりと手招きを始めていた。

 それから何日か経ったある日の夜、彼女の悲鳴で目が覚めた。何事かと思って寝室の灯りに手を伸ばせば、隣で眠っていたはずの彼女は身体を起こして手をバタつかせている。落ち着くように抱きしめたが、彼女は首を振るばかりだ。シャツの胸元が濡れて、彼女が泣いていたことがわかった。

「暗い。目が、見えない。聴こえない、見えない……。そうご、どこにいるの。壮五、電気を点けて、おねがい」
「ここに、います」
「壮五、電気をつけて」
 
 脳裏に最悪の展開が浮かぶ。空を掻く彼女の手首を掴んで、俺は彼女の目の前で手を振るが、視線はどこか遠くを見ている。掌にゆっくりと文字を書いた。灯りはとうに付いている。彼女は焦点の合わない瞳からはらはらと涙を流した。

「……こわい。こわいよう」

 子供のように声を上げて泣き出した彼女を抱きしめていると、僕にまで涙が滲んできた。かける言葉が見つからない。もし見つかったとしても僕は上手く伝えられなかった。目でも耳でも、僕のものをあげることができるなら、喜んで差し出すのに。どうして彼女なんだろう。
 神様はいつもそうだ。僕から大切なものを奪っていく。
 音楽を愛した叔父、音楽に愛された彼女。僕だって、二人を愛していたのに。
 折角覚えた手話も使えなくなって、彼女と会話することはとても難しくなった。いつでも傍にいたいのに、家にいる時間の方が少ない仕事柄、そういうわけにもいかない。 田舎の両親や、僕に迷惑をかけるのも嫌だから、という理由で彼女は病院に入院することになってしまった。
 見舞いに足を運べば、彼女は病室のベッドの上で退屈そうにイヤフォンを弄っていた。

『そうごです』

 ベッドに近寄り、彼女の手を取って、指先で言葉を一文字一文字書いた。

「来てくれてありがとう。でも、お仕事は大丈夫?」
『だいじょうぶ。たまきくんが、がんばってくれてます』
「よかった。ね、なにか音楽かけてくれる?」

 耳が聴こえなくなって、目が見えなくなっても、彼女は音楽を離さなかった。
 病室は一人部屋だから、小さな音ならば許されるだろうと、ベッドサイドに置かれていたスピーカーとウォークマンを繋ぐ。ウォークマンの中身を覗けば、僕らの曲ばかりが入っていた。思わず微笑んで、折角だからとMEZZO”の新曲をかけた。

「いいよねえ、新曲。環くん、歌上手になった」
「………どうして」
「音楽って、味がするの。今回の曲はチョコミントみたいな味がする」

 ーー神様は、いる。
 僕はその瞬間に確信した。神様は、彼女を攫うつもりだ。
 聴力を奪って、視力も奪われた彼女は神様に愛されている。愛されすぎて、神様のいる場所へと連れ去られようとしているのだ。

「……いかないで」
「壮五?」

 思わず、引き留めるように彼女を抱きしめた。薄い背中、柔らかい髪。僕の恋人は、確かにここにいるのに、僕の声は届かない。

「……あったかい。音楽って、溢れているのね」

 細い指が、頬を撫でた。いつから、こんなに痩せてしまったのだろう。
 神様、お願いだから、彼女を連れていかないでください。彼女を奪われないためなら、僕はなんだってするから。



 僕の願いもむなしく、余りにも呆気なく彼女は僕の前から消えてしまった。
 ツアーが終わって、まっすぐ病院に駆けつけた時には、彼女の姿はもう病室にはなかった。
 ああ、かみさま。お前は本当に意地悪だ。僕の一番大切なものを奪っていく。わかっているんだ。僕らの欲しいものは分けられない。子どもみたいに両方から手を引こうとするけれど、好きな人に困った顔をされたくなくて僕は手を離してしまう。どちらかを選ぶ権利は彼らには与えられない。神様は何も与えてはくれないけれど、我儘を通す子どもみたいに、仕方ないなあ、と思わせて愛した人を攫って行ってしまうのだ。
 その手法だって褒められたものじゃない。彼は魔法をかけたようによく響く音で彼らの演奏に拍手を送る。神様に無邪気に手を叩いて、称賛を送られれば、演奏家たちは最高の観客に逆に魅入られてしまう。
 僕だって、叔父さんの熱烈なファンだった。彼女の曲を誰より愛していた。頼まれなくたって手を叩いて、鬱陶しがられるくらい熱心に曲の感想を伝えた。それなのに、二人とも、神様に連れられて、遠くへいってしまったのだ。
 僕を置いて。



 彼女が僕に残したのは、広い部屋とパソコンの中に入っていた一枚のCDだけ。表面には彼女の文字で「壮五へ」とだけ書かれていた。恐る恐る読み込めば、

「星を降らせるように、虹をかけるように歌う、鮮やかな七人に捧ぐ」

 と、簡単な文章と一曲の音楽データが入っていた。
 なにか自分へのメッセージが残されているかもしれないという期待は裏切られた。震える手でカーソルをファイルに乗せる。彼女がアイドリッシュセブンのために曲を作っていただなんて知らなかった。いつ作ったのだろう。パソコンに向かっている姿を最後に見たのは随分と昔のような気がする。
 再生ボタンを押せば、鼓膜に残るメロディーが流れた。曲の主旋律を伴奏なしで歌うのだろう。ゆったりと主旋律を聴かせたあと、横殴りにするような和音が鼓膜を叩いた。ピアノを基調とした曲調は、彼女の得意なバラードではなかった。華やかな伴奏に調和しながらも、メロディーラインは主張を忘れない。変則的な曲調は聴衆の興味を掴んで離さず、自分の鼓動も曲と共に早くなっていく。盛り上がりに向けて曲は足早になっていき、一拍、息を吸い込む間を与えて、はじめのメロディーが満を持して流れる。勢いがあるのに、どこか物悲しい。半身を喪ったことを嘆くような、胸を締め付けられる曲だった。
 気づけば涙を流していた。歌詞もついていないのに、曲が意思を持っているかのように胸を打つ。余韻を残して後奏が消えた後も、涙を拭うことさえできなかった。

『……壮五、気づいたかな?』

 彼女の声が聴こえて、パソコンの画面を掴むように、顔を跳ね上げた。音楽ファイルはまだ再生を続けていた。曲の残り時間はあと少し残っている。彼女はぽつぽつと話し出す。

『最後まで聴いてくれてありがとう。曲の感想はいつか、会った時にでも聞かせてね。みんなで歌ってくれたら、わたしのいるところまで届くだろうから。わたしのこと、大事にしてくれてありがとうね。壮五の恋人でいれて、幸せだった。本当に、壮五が大好きだった。だから、……音楽の神様が、あなたの姿をしていて、よかった』

 ずず、と鼻を啜る音を最後に、今度こそ曲は終わった。
 恐ろしいくらい静かな部屋に僕は改めて一人きりになる。彼女は遠い場所へ行ってしまった。別れの言葉を告げないあたりが、彼女らしい。
 僕に似た神様なんかに、きみを任せたくなかった。誰もいない部屋で、独り事を言った。

「……僕が素直になって、子どもみたいに駄々をこねる。やだやだ、行かないで、傍にいて。って大声を出して、誰よりも好きだって伝えてたら、……なにか、変わっただろうか」

 希望的観測だ。今までのことすべてが夢だったらいいのに。いつか弾いてくれたトロイメライの演奏はとても綺麗だった。
 神様に連れられて辿り着いた先の暮らしはどうだろう。つらいことは無いだろうか。身体の痛みに苦しんではいないか、そこにはあなたの好きな音楽が溢れているだろうか。
 我儘ばかりの僕に似た神様はあなたを困らせてはいないだろうか。
 僕は天国に近況を届ける方法を知らないから、あなたの残した曲を大声で歌おう。汗と涙で顔をぐちゃぐちゃにして、必死で歌うみっともない僕を見たら、あなたはきっと褒めてくれるだろうと信じて。
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