6.月面への逃避行

 月まで届く梯子を作ったとナギが自慢げに言いに来た。半信半疑で外に出てみると成程、本当に細い梯子が月まで届いている。
 驚いて声をあげるわたしに手を差しのべて、童話に出てくる王子様のように彼は微笑む。

「折角ですから、一緒に月に行きませんか」

 遥か月まで延びる梯子を見ていたら俄然興味が沸いてしまった。ナギの手を取って、「是非」と言えば彼は目を輝かせて「あなたならそう言うと思いました」と言った。
 まあるい月が美しく輝く、こんなに良い夜だというのに、街にはわたしたち以外人の気配はない。わたしたちは手を繋ぎながら踊るように道路を渡り、彼が架けた梯子の元まで向かう。

「ここが月の真下です」

 案内されるがまま、街の外れの丘まで歩いてきた。彼の言う通り、小高い丘から遥か彼方の月にまで梯子が架けられていた。目を細めても梯子の先端は映らない。わたしは意を決して梯子を掴んだ。なにかしらの金属で作られた梯子は不思議と温かく、月の光を浴びていたからでしょうね、とナギは答えた。
 カンカンと小気味いい音を立てて梯子を上っていく。

「わあ、すごい! こんな長い梯子、よく架けられたね」

 前を行くナギは振り返って自慢気に鼻を鳴らせて見せた。茶目っ気溢れるその様すら月の光を浴びて驚くほどに綺麗だ。時折、気をつけてと伸ばしてくれる手を掴んで一休みする。振り返って足元を見れば街並みはずっとずっと遠く、小さくなっていた。

「月に行ったら何がしたいですか?」
「うーん。なにがあるのか見当もつかない」
「まず兎がいるでしょう。彼等の搗く餅は頬が落ちてしまうくらいに美味しいのです」
「本当? わたしお餅大好き」
「ふふふ、そう言うと思いました。あとは、星を拾いましょう。月には沢山星が落ちてくるんです。沢山拾って紐を通してネックレスにしたらどうですか。どこのプリンセスだって持っていない一品です」

 溜息を付いてしまいそうな程素敵だ。ナギの話はいつだって魅力的で、わたしを掴んで離さない。
 わたしは手を叩いて相槌を打つ。彼は手を離したわたしの腰に手を回して支えてくれる。お互い目下を見て、それから顔を見合わせて笑った。落ちてしまえばまた初めからこの梯子を上らなくてはならない。それは随分と草臥れる作業だ。

「もう直ぐ着きますよ。気をつけてくださいね」
「ありがと」

 どれだけ上ったのだろう。初めは梯子の数を数えていたけれど、街が小さく見えた辺りから数えるのをやめてしまった。
 先に月面に到着したナギが差し出した手を掴んで、上に引き上げてもらう。

「わあ! ここが月なのね!」

 月の表面はまるで大理石みたいに白く、つるつるとしていた。その上に光り輝く五角形の星がごろごろと転がっている。拾い上げてみればそれはまだ熱く、五角形の内側で七色の火が燃えていた。流れ星が落ちてくる、というのは本当らしい、空を眺めていれば次々と星がつるつるの地面に不時着して転がった。

「これだけ星が落ちても、まだ空には星が有り余っているの、不思議だね」
「そうですね、星は次々と生まれていきますから。ワタシたちもいつか星になるでしょうし」
「うふ、ナギなら綺麗な星になるね。夜空を見上げたらみんなの目を奪っちゃう、一等星だわ」
「あなたの方がずっと綺麗な星になる。他の恒星が輝きを失ってしまうくらい、夜空で輝くでしょう」

 真面目に互いを褒め合っていることに気恥ずかしくなって、我に返ると微笑むナギの顔が見れなくなってしまう。不安に思ったのか、覗き込んできたナギと目が合って、照れ隠しにうふふと笑いあっていると、杵を持った兎が私たちの目の前を駆けていった。彼らは「餅が固まるぞ!」と大慌てだ。
 ほら言ったとおりでしょう、とナギが胸を張る。本当に、全部彼の言うとおりだ。
 ごうごうと音がして、また上を向くと、空は綺麗な闇色で、星が近い。音の正体は、赤い大きな星が燃える音であった。あれが火星だろうか。氷の星だと聞いたことがあった様な気がしたけれど、兎に話を聞いてみればあそこで燃えているのが本当の火星らしい。
 月はわたしが思っているよりも小さな星だった。観光がてらに一周して、途中で気に入った形の星をいくつも拾った。兎たちともすっかり仲良くなった。
 梯子の場所まで戻ってくると、ナギはポケットから針と糸を取り出して拾った星をちくちくと縫い合わせて一つのネックレスにしてくれた。それを頭から被せてもらって、わたしの首にはちかちかと輝く星が光る。彼は満足げにわたしの手に唇を落として言った。

「ああ、やっぱりお似合いです。ワタシのプリンセス」

 童話から抜け出してきた王子様みたいな風貌でそんなことを言うものだから、わたしは火星よりも真っ赤になってしまって、周りの兎たちもわたしたちを見てざわついた。
 それから、兎から頬が落ちそうなほど美味しい餅を貰って、二人で座って食べた。
 遠くに私たちの住んでいた星が見える。随分遠くまで来た。帰るのが惜しい、けれども月でずっと暮らしていくのは難しいだろう。兎の搗く餅はおいしいけれど、そればかり食べていては飽きてしまう。
 どちらともなく、「帰ろうか」と言いだした。兎たちは涙を流して見送ってくれた。ポケット一杯にお土産のお餅を詰めて、わたしたちはまた梯子を下りていく。



 月旅行を満喫して、気が抜けていたのだろうか、まだ月が間近に見えている辺りで、わたしは足を滑らせた。

「危ない!」

 ナギが手を伸ばした時、わたしの身体は完全に宙に浮いてしまっていた。思わず彼の手を掴んだことで残りの手も梯子から離れ、わたしたちは真っ逆さまに落ちてしまった。
 ああ失敗した、と舌を出すナギに「ごめんね」と言えば彼はウインクして大丈夫、とわたしの残った手を取った。
 私たちは両手を繋いで、くるくると夜空を落ちていく。
 遠くに光の粒が見える。地球までははるか遠い。落ちていく途中で夜空を泳ぐシーラカンスを見つけた。悠々と地球の周りを泳いでいく。通った後には光り輝く鱗が残り、それが雪の様に地球に落ちていく。綺麗だ、と思った。
 あのシーラカンスはどうやってここまで来たのだろう。誰かが宇宙に持ち出して、太古の姿のまま生き続けていたのだろうか。

「梯子は危ないですね、次はロケットでも作って火星に行くのはどうでしょうか」

 ナギなら、火星へ飛び出すロケットだって用意してしまうだろう。銀河は近い。キスできそうなくらいの距離にある彼の顔にはめこまれた瞳は星空が映って値段の付けられない宝石のようだ。

「あなたとなら、どこへだって」

 わたしたちの身体がいつ地面にぶつかるかは解らない。ただ、それは酷く遠い未来のような気がする。


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