7.スピカの標本

 目覚ましのような汽笛の音で、意識が引き戻される。瞼を跳ね上げて辺りを見回せば、陸がいたのは列車の中だった。近代的なデザインの車両は音を立てて走り続けている。窓の外は夜空が広がっていて、不思議なことに、その列車を乗せた線路は空中に引かれているようだった。真っ赤なモケットが張られた座席は柔らかく、背中を預ければ深く沈む。備え付けのテーブルに置かれたグラスには冷たい水が注がれている。どこかに旅に出るのなら、優雅な旅行になるだろうけれど、生憎旅行の予定はない。乗車した記憶もなかった。
 そもそも、ここに来る前、自分は何をしていたのだろう。思い出そうとすると頭が痛んだ。つま先と視線がかち合う。新調したばかりの靴の向かいには、女性もののサンダルが爪先を内側に向けて佇んでいた。

「大丈夫? 陸くん」
「……え?」

 向かい合わせの座席に、いつの間にか人が座っている。
 陸の名前を呼んだ女の子は心配そうにこちらを覗き込んで、狼狽する彼の額に手を伸ばした。

「熱はないみたいだけど、薬とか持ってきてる?」
「あ、えっと……、大丈夫。具合が悪いわけじゃないんだ。君は……」

 女の子はガラス玉みたいな目をして、自分の名前を告げる。

「昔、陸くんとおんなじ病室にいたんだよ。覚えていてくれたらうれしいな」

 覚えている。眼前の霧を払ったように、陸の喉からは自然と彼女の名前が飛び出した。
 陸が入院していた頃、同じ病室で過ごした女の子。確か、臓器の機能低下で長く入院していた。一つ彼女に関することを思い出すと、次々に過去の記憶が蘇る。まるでアルバムを捲るみたいに、二人は幼い頃の入院生活について言葉を交わす。

「次は、銀河ステーション……。次は、銀河ステーション……。乗務員がお客様の切符を拝見に参ります」

 長かった入院生活の話題に花を咲かせていたところに乗務員のアナウンスが聞こえて、陸は思わず自分のポケットを探る。彼はその身一つで列車に乗っていた。財布も、携帯もない。切符を買った記憶もない。ポケットの奥底の紙きれに指が触れて、ガムの包み紙か捨て忘れたレシートか、掴みだすと、それは行き先が書かれていない切符であった。

「陸くんは、どこまで行くの」

 購入した記憶のない切符を握りしめていたところに彼女から質問をされて、陸は言葉を詰まらせる。

「どこまで、って。……オレ、この列車にどうやって乗ったかも覚えてないんだ。君は?」
「わたしはずっと、終点まで」

 彼女は自分の小さな鞄から切符を取り出した。横長の長方形をした切符は光沢のある緑色の用紙で、銀色の文字で今日の日付と、それから『天上行き』と書いてあった。
 ――ああ、もしかして、ここは。
 陸は彼女が見せてくれた切符を見つめて、それから窓の外を見た。ごとごと動く列車の外は、小さな惑星に差し掛かったところだった。空中に走る線路の下には海があって、粉砂糖のような白い砂浜に波が押し寄せる。見たことも無い小さな生き物が海上に顔を出して、こちらに向けて身体を動かしている。隣で、彼女が生き物に向けて手を振った。
 ――夢か、現か。オレは、銀河鉄道に乗っているんだ。
 「銀河鉄道の夜」は彼の大好きな作品だった。幻想的で、美しくて、けれども物悲しい。病室で何度も読んだ童話の世界に、自分は入り込んでしまったらしい。

「切符を拝見します」

 大きな帽子に外套を羽織った添乗員が、金属のパンチを構えて声をかけてきた。
 彼女は用意していた自分の切符を差し出して、陸の方を見つめている。陸は一か八か、ポケットに入っていた切符を差し出した。

「これ、使えますか」
「……大丈夫ですよ。良い旅を」

 添乗員は優しい声で告げると、二人の切符に穴をあけた。

「よかったね」

 乗務員が去ったあとで、彼女は陸の手を取った。その手は暖かい。

「君は、天上に行ったらどうするの」
「星になるんだよ。この列車で綺麗なものを沢山見て、美味しいものを沢山食べて、胸の中を綺麗なもので一杯にして、終点で降りるの。そうしたら、新しい名前をもらって、星の地図に書かれた場所で毎日灯りを灯して暮らす。……ステーションのパンフレットに書いてあったけれど、陸くんは読まないで乗っちゃったんだね」

 当たり前のように、彼女はすらすらと語りだした。
 ほら見て、と彼女は窓の外を指さした。彼女の言ったとおり、この列車から見える風景は胸が痛くなるくらいに美しい。光り輝く硝子の森、繊細な細工の枝の先では砂糖菓子の鳥たちが羽を休めている。街灯代わりに永劫燃え続ける蠍の灯に、銀河を泳ぐ虹色鱗の魚たち。
 極上の景色を二人で暫く眺めた後、彼女が言った。

「陸くん、わたしと一緒にいく?」
「……それも、いいかも」

 陸の返事を聞いて、ガラス玉のような瞳がいっぱいに見開かれた。やがて瞳はゆるやかに細められて、口角があがっていく。彼女は桃色に染まる頬を手で押さえて、唇を噛みしめた。
 陸にはその表情の意味がわからない。数秒の沈黙の後に、ぱしん、と膝が叩かれた。

「…………もー、嘘だよ! 簡単に答えちゃだめ。陸くんの心臓は、まだ燃えてるんだから」

 ほら、見てよ。彼女は明るい口調のまま、自分のブラウスのボタンを外し始めた。

「わ、ちょっと! だめだめだめ!」

 顔を真っ赤に染めた陸の制止の声も聞かず、彼女はブラウスの生地を掴んで胸元を露わにした。「陸くん、見て」その声があまりに真面目だったから、陸は薄く目を開ける。
 柔らかそうに膨らんだ胸の間にぽっかりと穴が開いていた。その穴の中は暗く、目を凝らすと小さな星が点滅を繰り返しているのが見えた。

「わたしの心臓に火を灯してくれたのは、陸くんの歌だよ。小さいころ、あなたの歌を聴いて、心臓が燃え出したのがわかった。それ以来、ずっと、ずっとあなたのファンなの」
「オレは、……」

 もう一度、彼女を見つめる。痩せた手足、柔らかそうな胸の上の鎖骨は痛々しい程に存在を主張している。清楚なブラウスに水色のロングスカートはよく似合っていたけれど、華やかなサンダルを履いて、外に出歩いた彼女を見たことは一度も無かった。
 陸と同じで、音楽と物語が好きな少女だった。陸が先に退院すると聞いたときも、自分のことのように喜んでくれたのを覚えている。
 窓の外に視線を逸らして、彼女は深く息を吐いた。
 陸は、自分の掌の中の切符を握りしめていた。彼女と同じ場所に行ったって、構わない。だから、白紙の切符を持っていたんじゃないか。幼い自分の歌に拍手を送ってくれた彼女のためなら天国だって、地獄だって一緒に行くのに。
 掛ける言葉を考えている陸の次の言葉を封じるように、彼女が続けた。

「あのね、あなたが灯してくれた大切な火だから。消さないように大事に生きて、生きて、奇跡みたいにここで会えたんだよ」

 それってすごいことだよねえ、と彼女は笑う。記憶の中の少女よりも、随分と饒舌だ。

「もう、消えかかっちゃってるけど、良かったらもらってほしいな」

 彼女は突然、胸にぽっかりと開いた穴に右手を深く差し込んだ。腕が引き抜かれて、握られた指の隙間から光が漏れている。
 差し出された拳の中に入っている物を受け取れなくて、陸は俯いたままだ。

「一緒に、……乗っていけないかな」

 彼女が望んでいないであろう言葉を絞り出した。この美しい列車は彼女を天上に送り届けるだろう。けれど、そこで彼女はひとりになってしまう。

「だめ。わたしはひとりでも平気だよ。だって、陸くんの歌が聴こえるから」

 俯いた陸に痺れを切らして、彼女は腕を伸ばして陸の胸を拳で叩いた。触れられた部分が温かくなる。
 解かれた掌にはもう、なにも入っていなかった。空っぽになった胸元を隠すように、ブラウスのボタンが閉じられていく。

「……さ、降りなくちゃ。陸くんのお仲間が首を長くして待ってるよ」
「でも、切符が……」
「切符?」

 小首を傾げた彼女は、陸の手から奪い取るように切符を抜き取ると、一息に破ってしまった。小さな欠片になった切符は千切られた傍から、光の粒となって消えていく。

「ねえ陸くん。切符なんか、はじめから持ってなかったんだよ」

 彼女はそう言うと手品師のように陸の前で両手を広げてみせた。広げた掌が陸の頬を挟んで、引寄せられる。彼女の顔が間近に近づいた。懐かしい、消毒液の匂いが鼻を擽る。

「さよなら、わたしの一番星」

 はたり、と離れた彼女の瞳から涙が落ちた。涙は空気に触れたそばから大粒の真珠になって、ぽろりぽろりと零れていく。真っ白い真珠は次々と産み落とされて、彼女のスカートの上に落ちて、溢れた分は座席の下に音を立てて落ちていった。
 彼女の涙を拭おうと伸ばした手は、空を切る。



 涙を流していたのは、陸の方だった。頬を伝う涙の冷たさを感じて、徐々に意識を取り戻していく。瞬きを何度かして、ぼやける視界で声をあげたのはマネージャーだった。潤んだ目で陸を覗き込む彼女の後ろに映るのは頭上を覆うほどに張り巡らされた電線に、巨大なスピーカー。それに鳴り響く自分たちの曲。
 陸はライブの途中で倒れたのだ。記憶が急に戻ってきて、半身を起こせば、驚いたマネージャーが制止の声をかける。

「陸さん! 起き上がってはだめです。まだ休んでいてください」
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね、マネージャー」

 安堵からか涙を零す彼女の頬に触れる。暖かい涙は陸の手でせき止められた。
 舞台袖の様子を伺っていた一織が陸の姿を見つけて、「出てくるな」というジェスチャーをする。陸が舞台裏に運ばれたあと、6人は穴を必死で埋めてくれたのだろう。思わず涙が滲んで目元を拭うと、衣装のポケットの中に何かが入っているのに気づいた。
 ――あれは、夢なんかじゃない。
 熱の残る真珠を握りしめて、陸は舞台に向かって駆け出した。

 観客の視線は、熱を帯びて彼を打ち抜く。舞台に上がる時はいつだって緊張でいっぱいだ。鼓動が伴奏に合わせてリズムを刻む。思い切り息を吸って、声を出す。この日のために用意された曲は、まるで彼が歌うことが初めからわかっていたみたいに、喉に馴染んだ。どれだけ息を吸っても、高い声を出しても、陸の喉が痛む気配はない。それどころか、歌えば歌うほど、胸が熱くなるのだ。自分の中にある、星が燃えているのだと気づいた。
 祈るように、誓うように、ここにいる人たちのために、顔の見えない誰かのために、そして、星を灯す少女のために、陸は歌う。
 ――遠い空へ旅立った君よ。この歌が君のもとまで届きますように。どうか、オレに、君のさいわいを祈らせて。
 
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