8.ゆびきりの国

 シーラカンスが上空に現れた時、わたしと楽はわたしの実家へ向かうために新幹線に乗っていた。急停止した新幹線の中で、アナウンスがかかり、スマホの警報が一斉に鳴り出した。乗客が窓に張り付くようにして外を覗いていたのが印象に残っている。
 楽はわたしの手を握っていてくれた。だからかわたしは突拍子も無い災害に見舞われたというのに、ちっとも恐怖を感じなかった。
 「泣いている」と誰かが言った。どうやら巨大なシーラカンスが泣いているらしい。窓に群がる人たちはスマホを乗り出して写真を取り出した。地球最後の日だ、なんて盛り上がっておきながら、思い出の写真を残すのだろうか。 緊迫した車内の中で大勢がスマホを掲げている様は異様に見えた。
 シーラカンスの涙は東京を直撃したらしい。都心は水没してしまった。車内放送に繋げられた緊急速報によって、ヘリコプターから映された都内はどこかの湖のようだった。
 わたしのアパートも、きっと水浸しになっていることだろう。家電は全て買い替えだろうけれど、何か保険に入っておくべきだった。今回の騒動で、保険会社もてんてこ舞いだろうけど。あまりに非現実的な出来事に気が動転しているのか、どうでも良いことばかりが頭に浮かんだ。
 速報を伝えるアナウンサーの口調は世界の終わりを悟ってしまったかのように諦めを含んでいる。

「私たちの首都が水没しました。上空から降り注ぐ水の塊は未だ降り注ぎ、水は川のように流れ続けています。みなさん、出来るだけ、高さのある場所へ避難してください」

 放送が終わったかと思えば水の流れてくる音が聞こえた。今から外に出ては流されておしまいだろう。わたしたちは電気を落とした新幹線の中でひっそりと息をしながらその時を待った。
 水が窓の外まで迫って、車内に入ってくる。水が腰の高さまでやってきて、ついに死を覚悟して走馬燈を見かけたところで、なんとか水の勢いは止まった。
 どうしよう、と乗客は顔を見合わせる。
 東京と実家の丁度真ん中で降ろされたわたしたちは2泊3日分だけの荷物を持って、見知らぬ街の避難所に駆け込むこととなった。

 わたしたちが逗留した場所は小さな町だった。腰まで水に沈めながら延々と線路を辿り続けてくたくたになったわたしたちは、どうにか町に辿り着き、丘の上に建てられた高校の体育館に案内してもらった。
 小さい町だからか、避難している人たちは老人が多いように見えた。体育館の一角を与えてもらい、泥水まみれになった服を、なけなしの一張羅に着替えた。

「これ、お前の親父さんに会うために下ろしたスーツだぜ」
「やだ、すごいかっこいいのに体育館とミスマッチ」

 スーツを纏う楽は惚れ惚れするくらい格好良くて、風変わりな映画の撮影だと言われれば信じてしまいそうだった。
 化粧も取れて、身体中泥と汗まみれで、互いの家族の安否もわからない。けれどもわたしたちは疲れた顔でくすくすと笑い合った。暗い顔していたって仕方がない。
 保健室のパーテーションで仕切られた急拵えのわたしと彼のためのスペースは周りの音がよく聞こえる。
 楽は、くしゃみを繰り返すおばあさんに自分のジャケットを貸してあげていた。



 避難所での暮らしもすっかり板について、この町にきてから2ヶ月が経とうとしていた。楽は持ち前のリーダーシップを活かして若者たちの指針になっていたし、わたしは看護師という職業柄、多少は人々の役に立つことができた。
 シーラカンスが撒き散らした水は塩を多く含んでいたから、畑を含めた土壌はすっかり壊滅してしまった。
 町役場に残された備蓄は町民の人数分、節約して使用しても6ヶ月が限度であった。災害に見舞われた際はどこから 救援が来ることを想定しているのだから、備蓄は有限だ。

「食料を探しに行かねえと」

 楽は真剣な顔をしてわたしに言った。
 何人かの若者たちが話していたのを小耳に挟んでいたから、わたしは頷いた。余所者の彼が食料確保の動きに賛同しないわけには行かないだろう。

「……わたしも行っていい?」

 行っていいわけないか。わたしたちは目を合わせて黙りあった。この町には医者がいない。病院に勤める看護師も年齢が高く、老人や病人のいるこの場所をわたしが離れるのは望まれない。

「行くのは男だけだ」
「浮気の心配はしてないよ」
「俺の方が心配だ。お前、ロマンスグレーに気をつけろよ。爺さん方のアイドルって呼ばれてる」
「アイドルは楽だよ。おばあちゃんたち、みんな楽さまって呼んでる。戻ってきたら演歌歌ってあげて」

 指切りをしよう、と楽が言った。
 この人は男らしい見た目の割にロマンチストなところがある。そういうところも堪らなく素敵だと思っていた。

「……戻ってきたら一緒になろう」
「………はい」

 両親に挨拶はまだだけど、と彼は続けた。
 わたしは彼がうちでどんな評価を得ているかを話していない。うちは家族揃ってトリガーのファンで、八乙女楽推しなのだ。父は毎回DVDまで購入しているし、母の車ではいつもトリガーの曲がかかっている。弟は先日ライブに行った。
 結婚の話をしたら、泣いて喜んでいた。父は厳格な父親の演技をするのに鏡の前で奮闘していると連絡が来ていたくらいだ。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら、……だーめよ」
「なんだそれ」
「針千本なんて飲まなくていいから、無事に早く帰ってきてよ」

 楽は少し考えて、それから指切りをしたばかりの左手の小指をすぽん、と取り外した。

「えっ」
「交換しよう。返しに来るよ。だからオレの小指を持っててくれ」

 わたしは恐る恐る彼の小指を受け取って、自分の小指を引っ張った。つるりと根元から取れて、彼に渡すと不恰好な互いの小指は在るべき場所に収まったではないか。

「約束ね」

 わたしたちは戦友のようにお互いの肩を小突いて、それから痛いくらいに抱きしめあってさよならをした。



 若者たちが町の外に出て3ヶ月が経った頃、わたしたちの避難所に来客がやってきた。

「星を落とすお兄ちゃんが来たよ! お姉ちゃんに用事があるんだって」

 両親を亡くした男の子はわたしの手を引いて、来客の元まで連れていく。玄関先で待っていたのは、アイドリッシュセブンの和泉三月くんであった。

「はじめまして」
「うわあ! 三月くん! 無事でよかった!」

 わたしと三月くんは面識がなかったけれど、楽と仲が良くて、テレビで良く見ていたものだから友達みたいに話しかけてしまった。失礼だったか、と思ったけれど、彼は嬉しそうに笑った。

「あはは! 明るい人だ! 八乙女の奥さんにぴったりだな」
「えっ」
「あいつから、預かりものをしてきたんだ。開けてみて」

 三月くんはリュックから大きな包みを取り出した。小柄な彼の背負う大きなリュックの中身は殆ど楽の預けた荷物が占めていた。
 ニコニコしている彼を立たせるのもなんなので、使われていない教室に案内して二人で開封した。
 中に入っていたのは、ルビーのブローチに、たっぷりした生地の真っ白いワンピース、それにダイヤの指輪だった。
 あっけにとられるわたしを覗き込んで、三月くんが説明をしてくれる。手紙の一枚も入っていなかったから、楽は彼に伝言を頼んだのだろう。

「なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの。花嫁のための4つの贈り物。……青いものが中々見つからなくて困ってたから、これはオレから!」

 幸せな花嫁のための4つの贈り物。結婚式の時にそれらを身につけると幸せになれるのだと聞いたことがある。
 三月くんはリュックの底から群青色の宝石のついたネックレスを出して、わたしの手のひらに乗せた。よく見ればそれは魚の鱗に似ている。

「お守り。その青いの、人魚の鱗なんだって」
「大切なものでしょ、貰えないよ」
「いいのいいの! 幸せなふたりに、オレからもなにかプレゼントさせてくれよ」

 三月くんはわたしに人魚の鱗を握らせるとその手をぎゅうと握って、わたしの目をじっと見つめた。

「八乙女、もう少ししたら帰ってこれるから。ひとりで頑張ってるあんたのこと、滅茶苦茶心配してた。あいつ本当に良い男だからさ、あんたのこと絶対幸せにしてくれるよ。寂しくて、大変だろうけど、あと少し頑張れ!」

 ああ、この人は、ほんとうのアイドルだ。
 握られた手も、胸の奥もじわじわと熱を持って、思わず泣いてしまった。
 三月くんはわたしが泣き止むまで側についてくれて、それから避難所の人たちのために歌を歌ってくれた。
 食料は少しずつ減っていったけれど、人々は彼のおかげで口々に「がんばろう」と声を掛け合うようになった。



 それから1ヶ月が経って、2ヶ月が経っても、彼らは戻ってこなかった。わたしは道化のように明るく振舞った。 泣いている人たちを励まして、子供たちのために下手くそな歌を歌った。
 わたしも、彼らも頑張ったけれど、ついに食べるものが尽きた。まだ元気の残っている人たちは自分たちも町を出る、と決心した。
 声をかけてもらったけれど、わたしも出てしまえば、動けなくなった人たちを置いていくことになってしまう。わたしは首を横に振った。楽を待っていたいから、と告げるとみんなは悲しそうな顔をした。
 わたしは彼の小指を握りしめる。早く帰ってきてよ。
 動けなくなった人たちを残して、5ヶ月が経った。わたしはさらに明るく振る舞った。
 9ヶ月が経って、避難所に人はわたしだけになった。

「あなたの笑顔に救われたわ。あなたがいてくれて良かった」とすっかり薄くなったおばあちゃんは最後に言った。
 本当は、楽の好みの女の子を目指しただけだった。彼は明るくて優しくて、逞しい女の子が好きだと聞いたから、無理をして演じていたのだ。彼の隣にいれば、なんだってできるような気がした。彼の隣で胸を張っていられる女の子になりたかったのだ。
 けれど、もうわたしのことを見てくれる人はいなくなってしまった。
 それでもわたしは待ち続けた。
 明るく振る舞う必要が無くなったから、ようやく涙を流せた。いつからか、空腹も感じなくなった。
 ふと、楽からの贈り物に袖を通そうと思った。これだけ待たせたのだから、結婚式は彼が戻ってきたらその場でやりたいくらいだ。ワンピースを纏って、ブローチを止めた。指輪も嵌めて、お守りを首から下げる。
 自分で言うのもなんだが、よく似合っていた。
 1年、2年が経っても、彼は戻ってこなかった。食べ物を探しに行った人たちも、誰一人として帰ってこなかった。迎えにいく気には、なれなかった。

 どれだけ時間が経っただろう、わたしはある時、自分の小指が真っ白な骨になっていることに気付いた。
 ……本当は、とっくに気づいていたのかもしれない。気づかないふりをしていたのだ。
 彼が亡くなっているだなんて、考えたくもなかった。だってわたしは幸福な花嫁であるはずだった。4つの贈り物を身に纏った花嫁は、素敵な花婿の隣で微笑むのだ。人々はわたしたちを祝福して、かき集めたお花をわたしたちの上から降らせる。楽のご両親は厳格な表情のままこちらを見つめて、けれども影では泣いていたのだろう。本当は涙脆いことを教えてもらった。わたしの両親は涙も隠さない。両家、顔を見合わせて笑ってしまうと良い。
 飢えを知らず、年を取ることも無くなったわたしの身体は夢を見ることもない。幸せな想像は、想像のままだ。

「…………約束、したのにな」

 真っ白い小指は動きやしない。軽く引っ張ればころりと取れた。この場所に埋めてあげようかとも考えたけれど、彼の唯一残したものは全てわたしが持っていたかった。力を入れると骨は脆く崩れたから、さらさらと喉に流し込んで飲み下した。
 楽は約束を守ろうと躍起になったのだろう。彼はそう言う人だった。彼に預けたわたしの小指は、最後まで彼と一緒にいられたのだろうか。それなら、少しは報われる。
 ――もしかしたら、楽に預けたわたしの小指が、這ってわたしの元に戻ってくるかもしれない。そしたら、わたしは その小指を踏んづけてしまうだろう。
 約束ひとつ守らせられない小指なんて、いらないから。

prev next
back