You may also die

『ちょ、ま、や、やめてぇえ!』
『うへへ、ええではないか〜』

激しく水を叩く音が響く。悲鳴は織乃のものだ。悪乗りしているのはリカだろう、奇妙な笑い声を上げている。

そして、そんなやりとりが行われている一方で、壁一枚隔てた男湯では。

「……」
「…………」
「………………」

ただひたすら、気まずい沈黙が空間を支配していた。

女湯にいるマネージャーたちは、男湯に声が筒抜けになっていることに気付いていないのだろう。
現にああして、女子ならではの──男子の前では確実にしないだろう、話やじゃれ合いをしているのだから。

「……役得って考えれば良いんだよな? この状況」
「やっと喋ったと思ったらそれか!」

ややひきつった笑顔を張り付けて呟いた一之瀬に、風丸が器用に小声で怒鳴る。
そしてちらりと彼はサウナ室の方に目を向けた。
円堂は1年生たちを引き連れ、「我慢比べしようぜ!」と先程湯船を飛び出したばかりだ。戻ってくるにはまだしばらく時間が掛かるだろう。

「リカさんはスキンシップの激しい人なんだねぇ……」

ぽややんとした口調で言ったのは吹雪だ。
頬は綺麗にピンク色になっていたが、壁の向こうの会話のせいでなく、単に元々の色白さのせいで熱の赤みが目立っているだけのようだ。
「だからと言って、過剰すぎやしないか……」小さく返した鬼道は、赤い瞳を宙に必死に押し留めながら無心を装っている。

「円堂たちが戻ってくる前に、話題が変わってくれりゃ良いんだけど」

1年生たちにあの会話はまだ毒だろうと、ペタンとなった髪をカシカシ掻きながら土門が苦笑いで壁を見上げた。

「姉、もしくは妹、そして巨乳ときましたか。全く、御鏡さんのスペックはどんどん高くなりますね」
「うわっ、……あ、いたのか目金」

「いましたよさっきから」驚いた風丸に、目金はブスッとしながら口を尖らせる。

「妙な言い方をするな、目金」
「妙とはなんですか。これは立派な解析ですよ、現に秋葉名戸の人たちも……」

土俵の違ううんちくをつらつらと語る目金はさておき、鬼道は秋葉名戸≠ニ言う名前に反応していた。
女湯の会話を聞いてしまったせいなのか、その瞬間鮮明に脳裏に甦る、短いスカートにウサギの耳を模したカチューシャ、背中にぶつかる柔らかいもの。
そこまで思い出して、彼は顔を瞳に劣らず真っ赤にして湯船から立ち上がった。

「……少し、逆上せた。先に上がるぞ」
「ああ、分かった」

ふらふらと脱衣場に向かう鬼道に、風丸は「あいつ大丈夫か?」と気遣わしげに呟く。
あいつも色々あるんだよ──そう言った土門の携帯のフォルダに、帝国と秋葉名戸との試合の際に成神がこっそり撮って彼に送った、メイド姿の織乃の写真が未だ残っていることを、鬼道は知らない。




「……はぁ」

誰もいないベンチに腰掛け、鬼道は疲れの見える溜息を吐く。
どうもうまくいかない──織乃が絡んでくると、とことん思考がおかしな方向に行ってしまう癖がつきつつあった。

「(いや……このままではダメだ。御鏡にも申し訳ないし……)」

はぁ、ともうひとつ溜息を吐いて、鬼道はふと壁にかかった時計を見上げる。
いつのまにか、浴場から出て10分が経っていた。そろそろ、他のメンバーも戻ってくる頃だろう。

「あ」

ふと、か細い声を耳が拾って、鬼道は少し肩を揺らして振り返った。
そして、ギョッとしそうになった表情を慌てていつもの無表情に固定する。

そこには、洗面器を両手に抱え、少し驚いた顔の織乃がいた。
髪は乾かしたばかりのせいか、ひとつに結われた普段の髪型とは違い、その髪は無造作に下ろしてある。

「御鏡か。春奈たちはどうした?」
「休憩室で遊んでますよ。卓球台があったから」

思わず尋ねると、そんな答えが返ってきた。
耳を澄ませてみると、確かに廊下の奥にある休憩室から妹たちの楽しげな声がする。

「お前はやらないのか」
「私は、今日のデータを編集したくて」

重ねて続けると、少し真面目な顔になって彼女は言う。
そうか、と返した鬼道は、どうも気持ちが落ち着かずに小さく俯いた。上気した頬や僅かに湿気った髪は、どうも思考の方向音痴を増長させてしまうようだ。

「鬼道さんは?」織乃は沈黙が気まずいのか、爪先を擦り合わせながら尋ねる。
彼はハッと顔を上げて言った。

「少し、逆上せてしまってな。涼んでいたんだ」
「そうなんですか……」

ふと、浴場での女湯の会話を思い出す。
鬼道は内心申し訳ない気持ちになりがら、また俯いた。

ふいに外のどこかで、クラクションがパパーッとけたたましく鳴り響く。
その喧しい音に何故か急かされたような気分になった鬼道は、俯いたまますっくと立ち上がった。

「──一緒に、戻るか」
「あ、はい……」

やっと噛み合った視線に、心臓がドキリと音を立てる。
銭湯を出ると、一定感覚で設置された街灯が緩やかに頭上を照らした。




街のネオンが眩しくて、月の光は目立たない。
しかし、鬼道はそれよりも隣にある熱に意識を持っていかれないように、半ば必死にポーカーフェイスを保っている。

ちらりと気付かれないよう織乃を見下ろすと、考え事でもしているのか、彼女は何やら難しい顔になっていた。

「(……そう言えば)」

彼女たちは、少し恋愛の話もしていた気がする。
好きな人はいるのかと、リカの質問に彼女はどう答えていただろうか。その後の会話はトーンを落としていたのか、あまり聞き取れなかった。

「(──いるんだろうか)」

やはり彼女にも、恋慕う人間が。
初恋は終わっていると言うから、恋愛未経験というわけではないのだろう。ひょっとすると、今この瞬間も彼女には心に決めた異性がいるのかもしれない。

それじゃあ、もし。
もしもそれが、自分だったら。

「(……バカか)」

あまりに都合の良い妄想だ。頭を振ったところで、ふいに後ろから聞こえたベルの音に彼はハッと我に返る。
振り返ると、会社帰りのサラリーマンが自転車に乗って寸前まで迫ってきていた。

織乃はまだ自転車に気付いていない。
鬼道は思わず、彼女の肩に手を伸ばした。

「──御鏡」
「は、はい!」

余程驚いたのか、織乃は目を丸くして飛び上がる。
そして鬼道は勢いのままに、その肩を抱き寄せた。

「後ろから自転車が来てる」
「は……」

途端、軽快にベルを鳴らしながら、自転車が1台、織乃たちの直ぐ横を通りすぎて行く。
いつもの彼女らしくない。風に吹かれた前髪を押さえ、まばたきもせずに静止した織乃に鬼道は少し怪訝そうに眉根を寄せた。

「お前も少し逆上せたんじゃないのか?珍しくぼんやりしてるな」
「……そう、かもしれません」

どこか熱に浮かされたような覚束ない声で、織乃は小さく頷く。
下ろした髪に隠れて、その表情は見えない。

「(……小さいな)」

1年生の頃は、ここまで身長差はなかったのに──そこまで考えた鬼道はハッとすると、縮こまった織乃の肩から弾かれたように手を外す。

「御鏡?」
「あっ」

織乃は小さく声を上げて、半歩後ずさった。
珍しい反応を不思議に思いながら「大丈夫か?」と尋ねると、織乃は少し気まずそうに頷いた。

「はい──大丈夫、です。すいません」
「いや……なら、良いんだ」

ほっと息を吐いて、鬼道は自分の頬が少し赤らむのを感じながらも小さく微笑む。
髪が風に吹かれ、露になった織乃の顔が月明かりに照らされた。

──瞬間、はっと僅かに息を呑んだような音が彼女の口から漏れる。
すると織乃はきゅうっと唇を引き結び、ふいに彼の目を見つめてきた。

どこか真剣なその表情に、またひとつ、大きく胸が高鳴る。

「(御鏡……?)」

何故か声をかけることも出来ず、鬼道は彼女を見つめ返した。
月の白い光に照らされた頬が、色付いた気がする。

「──ねぇ、鬼道さん」
「ん?」

徐に、落ち着いた声で語りかけてきた織乃に鬼道はついキョトンとした。
織乃は少し顔を赤らめ、すぅっと小さく息を吸う。
そして彼女は、幸せそうに──はにかんだ。

「今日は、月が綺麗ですね」

──その瞬間、鬼道は反射的にある有名な小説家の言葉を思い出す。

「……そう、だな」

勿論、彼女はそんな雑学は知らないだろうから、ただ会話を繋げるために言ったに過ぎないのかもしれない。
だけど、それでも。

「(嬉しい──なんて)」

再びキャラバンへ足を進め始めた織乃に気付かれないように、鬼道はたちまち真っ赤になった顔を手のひらで隠すように覆ったのだった。