After a calm comes a storm

その日夏未は、朝からことある毎にどこか物憂げな溜息を漏らしていた。

「夏未さん、どうかしたんですか……?」
「えっ?」

ベンチに腰掛け、旅から戻った後も引き続き使用しているモバイルを手に、織乃は本日何度もかも分からない溜息を吐き出した夏未を見上げる。
夏未は一瞬訳が分からないような顔をした後、困ったような苦笑を浮かべた。どうやら自分が溜息を吐いている自覚がなかったらしい。

「いいえ、何でもないわ。ただみんな、今日もうるさいくらい元気ねって……そう思ってただけ」

そう答え、織乃から外れた視線はゴール前で大きな声を上げる円堂に向けられている。
嘘だな。織乃は反射的にそう思った。
確かに言っていることはいつもの彼女らしいやや辛口な答えだが、それだけのことでこうも延々と溜息を吐いているのは明らかにおかしい。

「──ねぇ、夏未さん。1人で抱え込まなくたって良いんですからね」
「……? 御鏡さん?」

モバイルに再び目を落とし、数字を入力しながら織乃は独り言のように言った。
何事も、相談できることはどんどん話した方が身のためだ。本人のためにも、周りの為にも。
それは、キャラバンに参加してから嫌と言うほど痛感したことだった。

「話したくなったら、聞きますから」
「──ええ、ありがとう」

言外に悩みがあると言うことを、夏未は否定しない。つまりそう言うことなのだ。
彼女は何かと不器用なところもあるが、聡明だ。1人で抱え込んで自爆してしまうようなことは、まず有り得ない。

「御鏡先輩、御鏡先輩! さっきの技のことなんですけど……」
「うん? どうしたの少林くん」

練習を一時中断して駆け寄ってきた少林に、織乃は視線を下げる。
彼女が護身に武術を習っていると知ってから、少林は1年生の中で (春奈を除き) 一際織乃に懐いていた。

「威力は大分上がったんですけど、打った後に上手く足が動かなくって……」
「うんうん……ああ、本当だ。少しもつれ気味だね」

モバイルで録画しておいた映像を少し巻き戻し、スロー再生しながら織乃は考え考え言葉を続ける。

「ここ、技の発動前にワンクッションってことで、一度スピードを落としたらどうかな?」
「そっかぁ。ちょっと試してきます!」

「ありがとうございます!」と、少林は小さな頭を下げてフィールドへ駆け戻って行く。手を軽く振り見送る織乃を眺め、夏未は思いついたように口を開いた。

「何だか御鏡さんの仕事は、マネージャー業から逸脱してきたわね」
「そうですか?」

薄いキーボードを叩く手を止めないまま、織乃は首を傾げる。
彼女自身あまり自覚はなかったが、最近の織乃はマネージャーとしての雑務の他、先程の少林のように選手の技の精練や鬼道とのゲームメイクに関しての話し合いをする機会が前よりもぐんと増えてきていた。

「私としては、みんなの役に立てるならそれで良いんですけど……」
「……ええ、そうね」

目を瞬き、夏未は緩く破顔する。
みんなの役に。それは織乃がマネージャーをしている中で口癖のように言う言葉だ。けれど最近はその『みんな』の中により特別なものがあるからこそ彼女は──彼女も、頑張っているのではないかと感じるようになった。
自分と、同じように。

「フィジカルコーチ≠セな」
「ふぃじ……え?」

ふと傍らに佇みフィールドを見ていた響木が、ふいにそんなことを言った。
首を傾げた2人に、響木は「聞き慣れないか?」とたっぷりと蓄えた口ひげを震わせて笑う。

「まぁ簡単に言えば、スポーツトレーナーのことだ。日本ではまだあまり需要はないが……御鏡の仕事は、それと少し似ているかもしれん」
「ふぃじかるこーち……」

将来目指してみるのも良いかもしれんな、と笑う響木に、織乃は先程とはまた少し違う真剣な眼でモバイルの画面を見つめた。

「みんな、おまたせー」
「ドリンクの用意が出来ましたよーっ」

その時、部室でドリンクの準備をしていた秋と春奈が、ジャグの詰まった籠を抱えてグラウンドにやって来た。
お疲れ様、と声を掛けた夏未が、短くホイッスルを鳴らす。

「みんな、練習は終わりよ! 集まって!」
「おー」

手の甲で汗を拭い、或いはユニフォームの泥を払い、選手たちは夏未と織乃からタオルを受け取り、秋と春奈からドリンクを受け取った。

「もうこんな時間か」

グラウンドに座り込み、何となしに校庭の隅に建つ大きな時計を見上げた円堂がぽつりと零す。
時計の針は午後6時丁度を過ぎている。授業を終え放課後から練習を始めて、早くも3時間が経過していた。

「俺はまだまだこーんなにピンピンしてるのになぁ……」
「そんなこと言って、どうせ後から鉄塔広場で特訓するんでしょ?」

練習時間の長さに不満を漏らした円堂に対し、秋が慣れたように笑って小首を傾げる。
「円堂の元気は底無しだなぁ」からからと笑った一之瀬が、疲れた様子で汗を拭った。

「体力バカだな」
「あーっ! バカって何だよ、バカってぇ!」

一言言い添えた鬼道に、円堂は元から丸めな顔で更に頬を膨らませ、頬袋をパンパンにしたリスのようになる。

「まぁまぁ、元気なのは良いことじゃない?」
「そーそー、誇れよ体力バカであることをさ!」
「何だよも〜、土門まで!」

どうせバカだよ、と拗ねた風に手遊びにタオルでボールを拭き始めてしまう円堂に、「そのタオルで拭かないで頂戴!」と夏未の引き攣った怒号が飛んだ。
夕暮れのグラウンドに笑いが満ちる中、秋はふと一之瀬の横顔を見て少しだけ首を傾げる。

「……ん? どうかした、秋?」
「あ、ううん。……一之瀬くん、何だかいつもより疲れが溜まってない? 大丈夫?」

秋の何気ない問いに、一之瀬は一瞬目を瞬いた。
そしてちらりと土門と視線を交わすと、やがて溜息交じりにこう答える。

「やっぱりバレた? 最近ちょっと睡眠時間が短くてさ……ほら、休み明けからテスト勉強期間に入るだろ?」

その言葉を聞いた何人かが、ギクリと身を竦ませたのを夏未は見逃さなかった。

「……知らない人がいると思うから言っておきますけどね。赤点を3つ以上取った人は、1ヶ月部活動停止よ」
「えーーーーッ!?」

真っ先に驚愕の声を上げたのは、当然の如く円堂だった。その他には壁山も含まれ、後の何人かは何とか目を丸くする程度のリアクションに留めることに成功する。
「当たり前でしょう!」と夏未は先程の憂いを帯びた溜息はどこへ行ったのか、眦を吊り上げ円堂に人差し指を突きつけた。

「点が取れないってことは、勉強する時間が十分に取れていないってことなのよ。来月もサッカーをやりたければ、赤点を取らないよう努力することね」
「そんなぁ〜……」

がっくりと肩を落とした円堂は、どうやら部活停止を免れる自信が十分にないらしい。
ちらりと彼の視線が向いたのは、1人喧噪とは無関係のような涼しげな表情で織乃と練習メニューについて話している鬼道だった。

「鬼道! 俺に勉強を教えて下さ──」
「断る。俺は1人でやる方が捗るからな」

にべもなくバッサリと懇願を切り捨てた鬼道に、円堂はその場で崩れ落ちる。仲間内で1番頭が良いのは鬼道であり、教え方が上手いのもまた彼だ。ただし、その内容が人一倍スパルタであることも周知の事実である。

「そっか……」
「? 何だ、御鏡」

小さくぽつり、独り言ちた織乃の声を鬼道は耳敏く拾い上げる。
ハッとした織乃は、「あ、えっと」と口籠もった後、もごもごと恥ずかしそうに答えた。

「その、理科でどうしても分からないところがあったから、今度時間があったら鬼道さんに教えて貰えないかと、思ってたんですけど……」
「…………小此木先生の授業は時々分かり難いからな。俺で良ければ教えよう」
「何で俺はダメで御鏡は良いんだよぉ!?」

一転態度を変えた鬼道に、当然納得のいかない円堂は頭を抱えて悶絶する。
それでもそれ以上食って掛からないのは、口で彼に勝てることなど万が一も有り得ないことを分かっているからだった。

「それなら、木野や雷門に教えて貰えば良いんじゃないか?」

なぁ、と話の矛先をマネージャー2人にさり気なく向けたのは豪炎寺である。
2人ともここでまさか話を持ち掛けられるとは思わなかったのだろう、えっ、と短く声を上げ、少し赤くなった顔を見合わせている。

「秋、夏未ぃ……」

その瞬間、秋と夏未は思わず円堂の頭に垂れ下がった犬の耳を幻視した。

「しっ──仕方がないわね! サッカー部のキャプテンが赤点で活動停止じゃ示しが付かないもの。やるわよ、木野さん!」
「え、ええ! 頑張ろうね、円堂くんっ」
「!! ありがとう2人ともー!」

やっとこさ味方を得て顔を輝かせる円堂、そして早くもそわそわし始めた夏未と秋に、提案者の豪炎寺はやれやれといった風に小さく肩を竦める。
諸々の関係を察している仲間たちは、彼のフォローの手際の良さに舌を巻いた。

「これは面白いことになりそうですねぇ……」
「音無、顔がゲスっぽいぞ」




着替えと片付けを済ませた頃には、赤くなった太陽はすっかり山間に隠れ町並みは夜の幕に覆われる。
いつものようにバスで鬼道と別れ、ぽつぽつと建つ街灯に照らされた歩道を歩き、織乃は我が家へと辿り着いた。

「お姉ちゃんおかえりーっ」
「ただいま、和樹、良樹」

内側から鍵を開けるなり跳び出してきた双子をどうにか受け止め、織乃は苦笑を浮かべる。
小さかった弟たちは成長期で随分大きくなって、そろそろ2人いっぺんに受け止めるのも一苦労になってきた。

「お母さんは?」
「リビングにいるー」
「ご飯作ってるー」

性格の違いも大きくなってきたが、こういう所は阿吽の呼吸だ。手洗いとうがいを済ませ、織乃は自室の階段を上がる前にリビングに顔を出す。

「ただいま、お母さん」
「ああ、お帰りなさい織乃ちゃん。待っててね、もうしばらくしたらご飯出来るから」

シンクの水を止め、肩越しに振り返った母は夕飯を催促する双子に纏わり付かれながら柔らかく微笑んだ。

「そうだ──織乃ちゃん宛の手紙が届いてたから、部屋に置いておいたからね」
「うん、ありがとう」

「こら、大人しく待ってなさい」双子が軽い調子で叱られる声を背に、織乃は部屋へと向かう。
大樹はまだ部活が終わっていないのか、隣の部屋に人の気配は感じなかった。

「──あ、あった」

鞄を椅子の上に置くと、視線の隅に薄い雲で覆われたような空色の封筒が目に入る。
御鏡織乃さんへ。小さく収まった綺麗な字には見覚えがある。裏返すと、やはり予想通りの送り主の名前が綴ってあった。

「やっぱり、冬花さんからだ」

久遠冬花。それが手紙の主、織乃の友人の名前だ。
冬花から手紙が来る回数は決して多くはなく、リカたちのそれと比べれば少なすぎる程である。しかしその内容は、毎回便箋10枚近くに及ぶ超大作だ。
普段は控えめで大人しいのに、時々大胆になる。手紙のやりとりはそんな彼女の性格を表しているようで、織乃は小さく微笑む。

「(今回はどんなことが書いてあるんだろう)」

封は糊の他に、小さな白い花のシールで閉じられていた。
それを破かないように丁寧に剥がして、織乃は夕飯の時間が間近に迫っていることも忘れて手紙をじっくりと読み始める。

それはまだ、彼女が与り知らないこと。
彼らが世界へ向けての第一歩を踏み出す、ほんの2週間と数日前の出来事だった。