Excuse of a romance

ネオジャパンとの試合から一夜明け、午後1時。真昼の日差しがグラウンドに降り注ぐ中、ボールの転がる音がこだまする。

「お弁当の後も練習を続ける人は、ドリンク補充するので声かけてくださいね〜」

めいめいに青い弁当箱を抱えた選手たちからバラバラと声が返ってくるのを確認した織乃は、傍らで大きな保冷ボックスの紐を肩に掛けた女性を振り返り小腰を折った。

「ありがとうございます乃々美さん、またお弁当作っていただいて……」
「いいのいいの、気にしないで! 私も好きでやってるんだから」

そう言って快活に笑うのは、虎丸の実家の隣にある弁当屋の一人娘、乃々美である。彼女は昔馴染みのよしみに、と度々虎丸の応援に来るついでに、こうして選手たちの弁当を提供してくれているのだ。

「──っと。そろそろ午後の仕事が始まっちゃう。それじゃあ、またね!」
「はい、お疲れ様です」

手を振りながらグラウンドを後にする乃々美に手を振り返し、織乃はさて、とベンチに乗せた空のボトル入りの籠を持ち上げた。
今日の買い出し当番は秋と春奈だ。まだマネージャー業務に不馴れな冬花と2人での作業となると少し忙しくなることを予想していたが、乃々美のおかげで昼食を作る時間が省けたためそれも杞憂に終わりそうだ。

「(そう言えば、冬花さんは……?)」

ふと何となく辺りを見回したが、ラベンダー色の姿は見当たらない。
首を傾げつつ更に視線を移動させると、階段上の方で応援に来ていたらしいリカと何か話し込んでいるのが見えた。目を凝らすと何故かその手にはメモ帳が握られており、冬花はリカの話を聞きながら熱心に内容を書き取っている。

「……いや〜な予感……」
「? 御鏡さん、何か言った?」

リカがあんなに生き生きとしていると言うことは、内容は大体想像できる。それでどうして冬花があそこまで真剣なのかは分からないが。
小さな呟きを拾ってこちらを見上げてきた木暮に「ううん、何でもないよ」と苦笑して、織乃は冬花の背中へ声を掛けた。

「冬花さん、私先に戻ってますね!」
「あっ……はい!」

どうやらまだリカの話は終わっていないらしい。冬花は肩越しに頷くと、再びリカの講義に集中する。一体何が彼女をああまで熱心にさせるのか。考えても答えが出るわけではない。

「御鏡さん……」
「わっ!? あ、ああ……飛鷹さん」

その時、突然背後からひっそりとした声が聞こえて織乃は小さく飛び上がった。
振り向くと、一瞬申し訳なさそうな顔をした飛鷹は「すいません」と一言謝罪した後で言葉を続ける。

「トレーニング室行くんで、ドリンクの補充お願いしたいんですけど……」
「ああ、分かりました。準備出来次第持っていくので、先に行っていてくれますか?」
「はい。ありがとうございます」

ポンパドールを小さく揺らして頭を下げた飛鷹は、小走りで校舎へ戻っていく。
先日のネオジャパン戦を経てから、飛鷹は今まで以上に特訓に集中しているようだった。技こそまだきちんとした形にはなっていないが、あの活躍は彼の意欲に火を着けるには十分だったのだろう。
織乃は周囲を見回したが、他にドリンクの補充を希望する選手はいないらしい。空のジャグを積んだ篭を抱えて織乃は一足先に校舎へ戻る。

次の試合相手、すなわちアジア大会決勝戦の相手が決まるまであと少し。
それに勝てば、次は世界各国の強豪が相手だ。夢のような話が間近に迫り、皆落ち着いてなどいられないのだろう。今日の分の練習はとっくに終わっていたのに、ああしてこぞって自主練に参加しているのがその証拠だ。約1名例外はいたようだが。

「次は世界、か……」

ぽつりと独り言ちて食堂の扉を開けると、途端、ゴトンと何かが引っくり返るような音が聞こえた。
反射的に顔をキッチンへと向けた織乃は、音の正体に目を丸く見開く。

「あ」
「……げ」

苦虫を噛み潰したような顔でキッチンに立っていたのは、グラウンドにいなかった約1名こと不動だった。
織乃は数度のまばたきの後、「どうしたんです、不動さん」と戸惑いながらも声を掛ける。

「お腹が空いたのなら、何か作りますけど」
「ちげーよ。……ドリンク粉、どこ」

手持無沙汰な風に引き出しを開けたり閉めたりしながら、不動は居心地悪そうに尋ねてきた。
よくよく見れば、その手にはジャグが握られている。円堂たちとの練習には参加しなかったようだが、大方裏手の林で自主練でもしていたのだろう。
得心がいったようにああ、と相槌を打ちながら、キッチンへ入った織乃は冷蔵庫からタッパーを取り出した。

「実は、今朝からドリンク粉切らしてて……今秋ちゃんと春奈ちゃんが買い出しに行ってるんです。ジャグ、貸してください」
「あ?」
「新しいの作りますから」

「ドリンク粉ねえんだろうが」そう言いながらも、不動は大人しくジャグを渡してくる。キッチンはマネージャーたちの領域だ。いくら文句を言ってもこの場で選手がマネージャーより優位に立てることは分かっているのだろう。
織乃は手早くジャグを洗うと、タッパーから朝の内に切り分けておいたレモンを取り出してハンドジューサーに掛ける。

「午前中に作った分は、時間が無かったからみんな同じ味で作ったんですけど……不動さんは甘いのと酸っぱいの、どっちが好みですか?」
「あァ? 別にどうでもいい──」
「本当に?」
「……あんまり甘くすんなよな」

皮肉が出るより先に念を押せば、不動は顔をしかめてそう言った。はいはい、と答えながらも手は止めない。こしたレモンの搾り汁に砂糖と塩を適量混ぜる。砂糖はやや少な目に。
カラカラとスプーンで混ぜ合わせた搾り汁を、冷やしておいた水をたっぷり注いだジャグに入れて「どうぞ」と手渡せば、不動は目を眇めながらもそれを受け取った。

「あ、飲む前によく振ってくださいね」
「……どーも」

一瞬疑うような視線をくれて、不動は踵を返す。
遠ざかる足音に、織乃は篭からジャグを1つずつ取り出しながら小さな溜め息を吐いた。
どうも不動と話すときはついつい身構えてしまう。それも彼が過去しでかした事が原因なのだが、一度選手は平等に扱う≠ニ決めた以上、今更それを覆すのは憚られる。

「(そう言えば……久遠監督は、いつ不動さんを試合に出すつもりなんだろう)」

ふと今までの試合で一度も不動がフィールド入りしてないことを思い出した織乃は、もう一度新しいドリンクを一人分用意しながら考えた。
確かに不動はチームの和を乱す存在ではあるが、あの久遠が今さらそれを理由に彼を延々とベンチのままにしているとは到底思えない。性格に問題があれど、彼の能力は申し分無いことを一番分かっているのは久遠のはずなのだから。
それなのに、一体どうして彼は頑ななまでに不動をフィールドに投入しないのか──それを考え付くほどの思考能力は、今の織乃にはまだ備わっていない。

「──ん。よし」

ジャグについた水滴を布巾で拭い、中身が混ざるように軽く振る。
残りのジャグはランドリー室での用事を済ませてから片付けよう──頭の中でいくつか予定を組んで、織乃は中身の入ったジャグを片手にトレーニング室へ向かった。

サッカー協会と雷門財閥の提供もあって、合宿所はキッチンは勿論、トレーニング室もかなり充実している。何度か使用したことのある帝国学園のトレーニング室にもひけを取らないレベルの設備は、イナズマジャパンへ向けられる大人たちの期待値そのものと言っても過言ではないだろう。

「飛鷹さん、ドリンク持ってきましたよ」
「! ありがとうございます」

トレーニング室へ入ると、飛鷹は丁度背筋をしているところだった。
立ち上がった飛鷹は、乱れた髪をサッと櫛で整えてジャグを受け取る。足元にはいつか織乃が作って渡した筋トレのメニュー表だろう紙が落ちていた。それを拾い上げながら、織乃は尋ねる。

「どうですか? 調子の方は」
「悪くない、と思います……前よりも、長く続くようになってきたんで」

自身の成長を確かめるように掌を握り締め答えた飛鷹に、織乃はふむと考え込む仕草をした。
元々飛鷹の身体能力は低くない。それもあってか、基礎トレーニングでの成長は織乃の予想を上回る早さだ。ボールでの特訓も最近はうまく行っているようだし、と織乃はメニュー表に目を落としながら続ける。

「じゃあ、近い内にメニューを新しくしてみましょうか。フィールド入りする機会もこれからどんどん増えるでしょうし、次からは大殿筋やハムストリングスなんかの下肢を鍛える方に重きを置いて……」
「だい、はむ、……?」

後半はほとんど独り言だった。聞き慣れない単語に首を傾げた飛鷹は、それでも織乃の指示に従うことを決めたのだろう。真面目な顔つきで「お願いします」と頷いた。
じゃあ今週中には、と答えながらメニュー表を渡し踵を返した織乃は、やや駆け足でトレーニング室を出る。次の行き先はランドリー室だ。

このチームのトレーナーになる──そう密かに心に決めて幾日。
まずは手始めにと響木から託された飛鷹の育成は、彼が真面目な性格をしているのもあってか概ねうまく行っている。
イタリア在住時代、トレーニングの知識を実践込みで教え込まれた織乃自身の経験も思わぬ形で助けになった。実際にトレーナー≠ニいう肩書きは立場上名乗れないが、能力としてはかなり近付いてきたのではないだろうか。

「(この調子で頑張らないと……!)」

よし、と頷きながらランドリー室へ入ると、そこには既に戻ってきていたらしい冬花がいた。
淡々とタオルを畳む彼女はどうやら何か考え込んでいるようで、妙に難しい顔をしている。織乃がやって来たことにも気付いていない様子だ。

「冬花さん……? どうかしました?」
「……あっ。織乃ちゃん」

ハッと慌てて顔を上げた冬花は、かぶりを振り「少し考え事」と微笑む。
一体リカに何を吹き込まれたのだろう。それとも、その件とは全く別のことを考えていたのだろうか。首をかしげ、織乃は冬花の隣に並び洗濯物を畳み始める。

それから10分ほど他愛もない雑談をしながら洗濯物を畳み終わり、次の洗濯が終わるのを待っていた頃。
ふと冬花が、あのね、と控え目に声を掛けてきた。

「私、ちょっと守くんを誘って町に出掛けてこようと思うんだけど……この後って、まだ他に仕事残ってるかしら?」
「え? いえ、今回ってる分を干せば後はもう夜まで何もないし、構いませんけど……円堂さんと一緒に、ですか?」

確認を取る織乃に、そう、と冬花は神妙な顔つきで頷く。

「何だか守くん、新しい必殺技のことで悩んでるみたいで」
「はい」
「私、何か力になってあげたいんだけど、どうすれば良いか思い付かなくて」
「はい」
「そしたらリカさんが、2人で町に行けば新しい必殺技に関するアイデアになるものが沢山あるって、色々教えてくれて……」
「はい、……はい??」

一拍空け、織乃は困惑気味に大きく首を捻った。
そして次の瞬間、自分の『嫌な予感』が見事的中したことを理解する。彼女が先程リカから聞いていたのは、この話だったのだ。

「あ、あの〜、冬花さん……」
「あっ、守くん!」

恐らくリカに教え込まれたであろう間違った知識を正そうとしたその時、間の悪いことに円堂本人がランドリー室の前を通り掛かった。歩きながらずっとブツブツと何か呟いており、確かに冬花の言うように悩んでいるのが見て分かる。

「じゃあ行ってきます、織乃ちゃん! 夕飯までには帰るから……!」
「え、あっ、冬花さーん!?」

言うが早いか、冬花はいつものおっとりとした雰囲気はどこへやら、素早い動きでランドリー室を飛び出した。

「──ん? フユッペ、どうし……うわっ!?」
「守くん、一緒に来て!」

「どうしたんだよ〜!?」円堂の悲鳴と慌ただしい足音が廊下にこだまし、遠ざかっていく。ポカンとしながらそっと廊下へ出てみると、やはりそこに2人の姿はなかった。

「行っちゃった……」
「──よっしゃよっしゃ、上手くいった! さあ、追いかけるで塔子!」

額を抱えて溜め息を吐くと、先の物陰からリカと彼女に首根っこを捕まれた塔子が姿を現す。察するに、ずっと円堂を着けていたらしい。
どうも織乃が背後にいることにはまだ気が付いていないようだ。織乃はもう一度溜め息を吐くと、大股で2人に近付いた。

「リカさん……」
「うげっ、織乃!?」

地を這うような声にギョッと振り向いたリカは、思わずといった風に数歩後退る。どうやら要らないことをした自覚はあるらしい。
視線をあちらこちらに泳がせて、「どないしたん、そない怖い顔して〜」と彼女は少しずつ織乃から距離を取っていく。

「どうしたもこうしたもありません。リカさん、冬花さんに変なこと吹き込みましたね!? あの子、真面目だからすっかり信じ込んじゃってるじゃありませんか!」
「へ、変なこととは何やねん! うちはなぁ、ただ友達の悩みを解決してやろうと」
「冬花のこと獲物扱いしてたぞ、こいつ」

塔子の横槍に、「塔子コラ!」と吠えるも時既に遅し。
ジト目でこちらを睨む織乃にあはは〜、とから笑いしたリカは、即座に塔子の首根っこを掴み直して走り出した。

「ぐぇっ」
「うちらには2人の行く末を見守る使命があるんや! ほな!!」
「あっ、リカさん!!」

その素早さは脱兎の如く。流石の健脚でリカは塔子を引摺り廊下の先へと姿を消す。
伸ばし掛けた手をゆるゆると下ろした織乃が「もーっ!」と思わず声を地団駄を踏んだのと、洗濯機から洗浄終了のアラームが鳴ったのはほとんど同時だった。




「ホントにもう……冬花さん、大丈夫かなぁ」

ぱん、と皺を伸ばし1枚1枚丁寧にユニフォームやタオルを干しながら、織乃は1人中庭でぼやく。
冬花は真面目だが、それ故に冗談を真に受けてしまうことが多い。 リカにどんなことを吹き込まれたのかその詳細までは分からないが、今頃その巻き添えをくった円堂と一緒に町を駆けずり回っていることだろう。

「(本当にデートで必殺技のアイデアが生まれるなら苦労しないんだろうけど……)」

そもそも、冬花は円堂のことをどう思っているのだろう──リカの恋愛脳に当てられたわけではないが、ふとそんな考えが織乃の頭を過る。
彼の力になりたい、と言っている辺り、少なからず好意はあるのだろうが、それが恋愛感情なのかはどうかまではまだ分からない。

ただ、問題は秋のことだ。今は海外にいる夏未のことも考えると、このままでは三角関係どころか四角関係になってしまう。
この中の誰か1人だけを応援するつもりではないが、この関係を把握している以上、織乃は3人との友情に板挟みになる形になる。

「……それもこれも円堂さんがモテるのが悪いんだ……」

どうしようもない愚痴を誰にでもなく呟いた、その時だ。
キィッ、と校舎に繋がる扉が開く音がして、まさか円堂たちが帰ってきたのかと織乃は思わずおっかなびっくり振り返る。

「何だ、誰かと思ったら御鏡だったのか」

そこにいたのは円堂ではなく、豪炎寺と鬼道だった。密かにホッと胸を撫で下ろした織乃は、「どうかしました?」と辺りを見回しながらこちらへやって来た2人に尋ねる。

「円堂を見ていないか? 次の試合に向けて少し話したいことがあったんだが、探しても見つからなくて……」
「あ、ああ〜……」

答えた豪炎寺に、織乃はつい苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。その顔を見て、何か知ってるのか、と鬼道が首を傾げた。

「円堂さんは、冬花さんと町でデート中です……」
「は?」
「デート……?」

かくかくしかじか。顔を見合わせる2人に、冬花がリカに唆されて円堂を町に連れ出したことを伝えると、真っ先に鬼道が溜め息を吐いた。

「なるほどな……リカの恋愛脳にも困ったものだ」
「全くです……」
「生き甲斐みたいなものなんだろう」

その生き甲斐で他人を巻き込むのは如何なものか。額を押さえる織乃に続き、思わぬ形で予定が狂い少しばかり機嫌を損ねたらしい鬼道がやれやれとかぶりを振る。

「大体、デートしたからと言ってそれで必殺技のアイデアが生まれるなら苦労しないだろう」
「ですよねぇ」

ついさっきまで似たようなことを考えていた織乃は強く同調しながら最後の洗濯物を物干し竿に掛ける。
陽の光に晒された、背番号14番のユニフォーム。それを見上げ、一息吐いて。

「……試してみますか?」
「え」

一拍間が空いたのを見計らったかのように、緩い風が吹き抜ける。
一瞬、豪炎寺が無言で2人の顔を見比べてから一歩遠退いた次の瞬間、織乃は我に返ったようにハッと目を見開いた。

「なっ……何ちゃって!! そそそそれじゃあ私はこれで失礼しますね!!」
「お、おい御鏡──」

真っ赤になった顔で音が出るほど激しく首を横に振り、洗濯篭を抱えた織乃は転がるように校舎へ駆け込んでいく。
バタン、と扉の閉まる音がけたたましく響く。豪炎寺はしばし無言で扉を見つめた後、制止しようとした手を浮かし口をパクパクとさせながら立ち竦む鬼道の肩をポンと叩いた。

「鬼道……」
「っ分かっている」

皆まで言うなとでも言いたげに食い気味に返した彼が大急ぎで校舎へ駆け戻るのを見送った豪炎寺は、やれやれと肩を竦めた。




「一体どこへ行ったんだ、あいつは……!」

僅差で校舎に入ったにも関わらず、織乃の姿は既に廊下にはない。唸るように呟いた鬼道は、一先ず手近な部屋を順に覗き込む。
ランドリー室、資料室。1階端のトレーニング室に差し掛かった所で、彼はふと足を止めた。トレーニング室の扉の前で、飛鷹が困ったように右往左往していたのだ。

「──飛鷹、どうした?」
「あ……御鏡、さんが」

ぴく、と鬼道の眉が動く。どうやら織乃はこの中にいるらしい。
御鏡がどうした、と続けて尋ねると、飛鷹は中を窺いながらボソボソと続ける。

「いや……急にふらふらしながら入ってきたと思ったら、何か様子がおかしくて。理由を聞こうにも聞き辛く……」
「そ、そうか……」

心底困った様子の飛鷹は、「どうすればいいか」と目で訴え掛けてくる。鬼道は空咳で喉を整えると、扉へ手を掛けながら肩越しに答えた。

「御鏡のことなら大丈夫だ、俺が何とかする」
「じゃあ……頼みます」

こっくりと頷いて、飛鷹はちらちらとこちらを気遣わしげに振り向きながらも自室へと戻っていく。
無人になった廊下で1人深呼吸を繰り返した鬼道は、ややあってゆっくりとトレーニング室の扉を開けた。

「…………」

トレーニング室の最奥。黒いサンドバッグにすがり付く織乃の後ろ姿が見える。
彼女はまだこちらには気付いていないらしく、サンドバッグに額をぐりぐりと押しつけながらブツブツと何か呟いていた。

そう言えば彼女は、考え事をすると周りが見えなくなるタイプだった──そんなことを思い出しながら、鬼道はそっと織乃の背後へ近寄る。

「──御鏡」
「ひぇッ!?」

短い悲鳴を上げた織乃がようやくこちらを振り向いた。
赤い顔で「きききき鬼道さん!?」とこれでもかと言うほどにどもった彼女に少し懐かしさすら覚えながら、鬼道は小さく溜め息を吐く。

「落ち着け。……何も逃げることはないだろう」
「すっ、すみません。えっと、その、慣れない冗談を言ったものだから……自分でも恥ずかしくなっちゃって!」

ははは、とから笑いしながら、織乃はサンドバッグをペチペチと叩く。視線は所在無げに床をさ迷ったままだ。
鬼道がその視界に入るように一歩前へ進み出ると、強張った肩がビクンと揺れる。

「……試してみるか」
「………………へぇっ?」

あまりに間の抜けた声に、つい笑ってしまいそうになる。ようやくこちらを見た織乃の目を見据え、鬼道は一息に続けた。

「次にお前が買い出しに行く時は、俺が荷物持ちに着いていこう。……デート、ではないが……その、2人でいれば、本当に何かアイデアが生まれることも、あるかもしれない」

お前とサッカーについて議論するのは良い刺激になるしな、と早口で付け足された部分を、織乃は何とか聞き取る。
何度か口を動かした後、耳まで真っ赤になってしまった彼女は、声を震わせやっとの思いでこう言った。

「……じゃあ……その時は、よ、よろしくおねがい、します……」
「…………ああ」

赤いマントが大きく翻る。彼女にもっと余裕があれば、トレーニング室を出ていく鬼道の足取りがどこかぎこちないことが分かっただろう。
廊下に出た鬼道がピッタリ閉じた扉の前で長い息を吐き出した直後、行き場のない気持ちをぶつけたのだろうサンドバッグを殴る凄まじい音が聞こえてきたのだった。