With the decision

アジア大会予選決勝までの3日間、選手たちは久遠の言う通り足場の悪い泥のフィールドで懸命に練習をこなした。
砂よりは重く、雪よりは軽い。今までにないフィールドでの練習は選手たちの体力を瞬く間に削っていく。グラウンドでの練習が終われば、選手たちは次の自主練やトレーニングの為にしばしの休息を取り、マネージャーたちはその間、いつもの倍はあるだろう泥だらけの洗濯物と格闘する。

そしてそんな練習を続け、イナズマジャパンたちがようやくぬかるんだ地面に慣れてきた3日目の朝──決勝当日がやって来た。

「タオルよし、ドリンクよし……準備オッケーです!」
「うん。皆さんも忘れ物はありませんか?」

キャラバンに荷物を積み込み、自分の持ち物をチェックする。
いつも通り元気一杯な春奈に相槌を打った織乃が振り返り様に確認を取れば、それぞれから返事が返ってくる。あとは円堂を始め、まだ構内にいる選手が出てくるのを待つだけだ。

「──御鏡」
「はい?」

名前を呼ばれて振り向くと、鬼道が数枚の書類を片手に立っている。
こほん、と小さく喉を整えるように咳払いした鬼道は、その書類を織乃に手渡した。

「これを。先日借りたデータだ、今の内に返しておく」
「ありがとうございます、……あの、鬼道さん?」

受け取った書類を鞄に仕舞いながら、ふと何か違和感を感じて声を掛けてみると、鬼道は一瞬唇を引き結んだ後「何だ?」と尋ね返す。
その表情からはいつもと変わった様子は見て取れず、織乃は慌てて首を横に振った。

「あっ、いえ。お役に立てたなら何よりです」
「……そうか」

短く返して、鬼道はキャラバンのタラップを上がっていく。
その背中をじっと見送る織乃に気付いた春奈が、「織乃さん?」と彼女の制服の袖を引いた。

「お兄ちゃんがどうかしましたか?」
「うーん……何か、いつもと雰囲気が違うような気がしたんだけど」

やっぱり気のせいだったかも、と苦笑を浮かべる織乃に、春奈は顎を摘まみながら成る程、と頷く。ちらりとキャラバンの窓から覗くドレッドを見上げ、彼女は言った。

「今日のゲームメイクのことを考えてるんじゃないですかね? ここ3日くらい、ずっと何か考え込んでましたもん」
「あ……そうだよね。決勝なんだからいつもより念入りに考えないといけないもんね」

ここ数日忙しさに追われてまともに鬼道と会話していなかった織乃は、春奈の見解に納得する。やはり共に過ごした年数が浅いとは言え兄妹だ。兄のことをよく見ている。
──実際のところ事実は全く違うとは露知らず、織乃は自分の心配が杞憂と知りホッと息を吐いた。

そうこうしている間にメンバーは揃い、最後に荷物を抱えた円堂がやって来る。

「監督と冬花さんは?」
「先にスタジアムへ行ってるわ」

久遠は諸々の手続きの完了に、冬花はその手伝いに。2人が合宿所を出たのはしばらく前であるし、既に会場に着いた頃だろう。そっか、と頷いた円堂は、改めて仲間たちを見回した。

「これで揃ったな。じゃあ出発だ!」

「お願いします!」運転席の古株に声を掛ければ、任せておけ、と彼は力強く頷いてアクセルを踏み込む。
スタジアムへと町を走り抜けるキャラバンの中は、適度な緊張感を保ちつつも和やかだ。

「今日の試合に勝てば、FFI世界大会へ行けるのね!」
「ああ!」

夢にまで見た世界への道が目前にある。それを考えると、全身の血が熱く滾るようだ。秋の言葉に円堂がぐっと拳を握り締めたその時だった。

「──うわっ!?」

突然の急ブレーキにキャラバン全体が大きく揺れる。短い悲鳴とブレーキ音が重なり、車内は小さなパニックに陥った。
真っ先に冷静さを取り戻したのは秋だ。慌ててシートベルトを外し、彼女は急いで運転席へ向かう。

「どうしたんですか!?」
「あ、ああ、すまない……」

上擦った声で相槌を返しながら、古株は驚きからか僅かに震える手で前方を指した。
落ち着きを取り戻した他の仲間たちも、何事かと外を窺う。そこにあったのは、誰もが予想していなかった光景だった。

「あいつらは……!」

目をすがめた円堂が、ハッと声を上げる。
車道の真ん中を陣取りキャラバンの進路を塞いでいたのは、派手な装飾を施した自転車に乗った、黒いフードの少年だった。

「え、円堂さん、知ってるんですか?」
「えっと……」
「──俺の、昔の知り合いです」

織乃の問いに言い淀んだ円堂の代わりに答えたのは、険しい顔をした飛鷹だ。その目は少年を射殺さんばかりに睨め付け、噛み締めた奥歯からぎりりと小さく音が聞こえる。
「あっ、飛鷹!」キャラバンの外へ飛び出す飛鷹を弾かれたように円堂が追い、穏やかではない雰囲気を感じ取った綱海と土方が追いかけた。

「お久しぶりですねぇ、飛鷹せーんぱい?」

タラップを駆け降りた飛鷹を見るや否や、少年は楽しげに目を細め唇を曲げる。

「唐須! テメェ何のつもりだ!?」
「今から大事な試合だそうじゃないですかぁ。だから応援に来たんですよ」

せせら笑うように言う唐須の声には、言葉とは裏腹に欠片の尊敬の念も感じない。ほら、と彼は肩越しに振り返りながら背後を指差した。

「先輩に世話になった連中も、こんなに沢山集まってくれましたよ〜?」

それを合図にしたのだろう、茂みからぞくぞくと姿を現したのは柄の悪そうな少年たちだ。面倒なことを、と飛鷹は小さく舌打ちをする。
円堂は飛鷹の隣に追い付くと、そんな少年たちにも怯まず声を上げた。

「そこをどいてくれ。スタジアムに急がなくちゃいけないんだ!」
「えェ? せっかく応援に来た友達を追い返すんですか、せんぱぁい」
「何が応援だ、質の悪い嫌がらせじゃねえか!」

青筋を立てて拳を固める綱海に、唐須は一瞬目を細めて「お、いいんですか?」と肩を竦めながら鼻で笑う。

「喧嘩なんかしちゃったら、せっかくの決勝戦……出場停止処分になっちゃいますよ〜?」
「っくそ……!」

──最初からそれを分かっていてここに陣取っていたのだろう。一時の感情で世界大会への切符を逃すことは出来ない。綱海は苦虫を噛み潰した表情になって、半歩後ずさった。

「どうしても僕たちをスタジアムに行かせないつもりですね……」
「う〜っ、織乃さんならあんな人たち一捻りなのに!」

扉から顔を覗かせ呟く目金に、春奈がその場で地団駄を踏む。当の織乃は今にも飛び出していきそうな体勢ではあったが、マネージャーがここで手を出して選手たちに迷惑を掛けるわけにも行かず、中途半端に動きを止めている。

だが、このまま睨み合いを続けていては試合が始まってしまう。時間内に選手がスタジアムに入らなければ、どんな理由があっても容赦なく試合放棄≠ニ見なされてしまうのだ。
行動しあぐねる仲間たちを背後に、やがて飛鷹は一つ息を吸い込んで、凛と言い放つ。

「──お別れです、皆さん」
「飛鷹!?」

それは、別れの言葉だった。突然の宣言に驚く円堂を庇うように前に進み出た飛鷹は、唐須を睨み続けながら言う。

「行ってくれキャプテン。俺がこいつらの相手をする」
「そんな、飛鷹さん! 今までずっと頑張ってきたじゃないですか、ここで抜けたら……!」

目を見開いた織乃が、思わずと言った様子で叫ぶ。飛鷹は軽くかぶりを振ると、落ち着いた声音で答えた。

「すまねえ、御鏡さん。散々特訓に協力してもらったのに……けど、元々は俺が招いた問題だ。こんなことで、みんなの夢を台無しにしたりできねえ」

そう告げた飛鷹の目に迷いはない。
また一歩、前に進み出る飛鷹に唐須は自転車のハンドルを握り締めた。

「へぇぇ、やるんですか」
「……ああ」

唐須たちを睨みつけ、飛鷹は更に前に進もうと足を踏み出す。──しかし、円堂がそれを許すわけがない。

「やめろ、飛鷹」

しっかりと掴まれた肩に、飛鷹の動きが止まる。それでも前を向いたまま、彼は唸るように言った。

「大丈夫ですよ。こんな連中、俺1人で……」
「違う。お前も一緒に試合に出るんだ」

力強い言葉は、頑として譲らない意思を感じさせた。見開いた目を肩越しに向けた飛鷹に、円堂は続ける。それは、自分自身に言い聞かせるような声にも聞こえた。

「誰1人欠けちゃいけない。俺たちは、全員でイナズマジャパンなんだ!」
「……!」

車内で事の成り行きを見守っていた豪炎寺が一瞬反応を示したことに、今は誰も気付かない。
キャプテン、と僅かに声を震わせた飛鷹を眺め、唐須はおざなりに手を叩きながら溜め息を吐いた。

「美しい友情ッスねー。──そんなもん、全部俺たちがぶち壊してやるぜェッ!!」

「やっちまえ!!」唐須の叫びを皮切りに、少年たちは挙って雄叫びを上げながら殴りかかってくる。
あわや殴り合いの喧嘩が始まろうとしたその瞬間、横の茂みからスケートボードに乗った集団が2組の間に割り込む形で飛び出して来た。

「こ、今度は何だ!?」

身構えた円堂たちや、ついにキャラバンから飛び出した織乃の驚いた視線を受けながら、第3勢力のスケートボード軍団は飛鷹を振り返る。

「間に合ったみたいですね……!」
「す、鈴目?」

あの人たちは、と秋が小さく呟く。現れたのは、いつか合宿所にやって来た飛鷹の後輩たちだった。
彼らは唐須の前に立ちはだかると、バリケードを作るように体を寄せ合う。

「飛鷹さん、ここは俺たちに任せてください!」
「これ以上、唐須の好き勝手にはさせませんよ!!」

「お前たち……」行ってください、と背中を押される飛鷹の足は根が張ったかのように動かない。飛鷹は知っているのだ。地元じゃ負け知らずの飛鷹を尊敬して付いて回ってきた彼らが、とんと喧嘩が弱いことに。

「急いでください……試合に遅れちゃいけません!」
「鈴目……」

迷いの消えない飛鷹に、鈴目が一瞬振り返る。いつか飛鷹に助けてもらった次の日から彼とお揃いにした髪を揺らして、彼は笑った。

「俺たちの夢、消さないで下さい。飛鷹さんが活躍するのが、俺たちの夢なんです。羽ばたいてください、飛鷹さん……世界に!」

──その言葉で、飛鷹の意思は決まった。
唇を噛み締めて、彼は踵を返して円堂たちと一緒にキャラバンへ駆け戻る。

「ありがとよ、お前ら……!」

飛鷹たちを乗せて、キャラバンは睨み合う少年たちを避けるとスタジアムへ向けて再発進した。
リアガラスに張り付いて飛鷹は鈴目たちの様子を窺おうとしたが、キャラバンはみるみる内にスピードを上げてそれは叶わない。
溜め息と共に座席に深く座り込んだ飛鷹に、一緒になって窓に張り付いていた円堂がその肩を叩いた。

「あいつらの夢、叶えてやんないとな!」
「……うっす」




腕時計の文字盤を一瞥し、久遠は冬花と並んでスタジアムの入り口に立っていた。
もう予定の時間はとっくに過ぎていると言うのに、選手たちはまだ現れない。刻一刻と迫るタイムリミットに、久遠の眉間の皺が深くなっていく。

「みんな、遅いね…………あっ」

冬花が呟くのと、曲がり角の向こうから激しいエンジン音が近付いてきたのはほぼ同時だった。
車体を傾かせんばかりの勢いをつけてスタジアムの門を潜ったキャラバンは、タイヤを跳ねさせ2人の前に急停止する。

「──遅くなってすいません!」

慌ただしく登場した円堂たちに冬花がホッと安堵の息を吐くその傍ら、久遠は僅かばかり眉間の皺を緩めつつニコリともせずに踵を返した。

「全員揃っているな。行くぞ」
「はいっ!」

久遠に続きスタジアムに入った一同が向かうのはまず控え室だ。マネージャーたちは荷物を一度そこに置くと、選手たちの着替えが始まってしまう前に廊下へ出る。

「あっちは試合前から大にぎわいですよ!」
「う、うん……」

ピッチへの出入り口の方へ顔を覗かせた春奈が言えば、釣られてそちらを見た織乃が小さく唾を飲んだ。
これが決まれば次は世界。興奮を押さえきれないのは選手だけではないのだろう。うねるような歓声は廊下まで響いている。
モニターの大画面には観客の待ち時間を潰すためだろう、それぞれのチームの選手たちを撮した紹介映像が流れている。遠くに見えるそれを眺めていた織乃は、ふいに「ん?」と怪訝そうに眉根を寄せた。

「? どうしたの、織乃ちゃん?」
「いえ……今何だか、一瞬見覚えのある姿が見えたような……」

尋ねてきた秋に答えながら、織乃は目を細めてモニターを見直す。
だが、既に選手の紹介映像は終わったらしく、モニターはスポンサー会社のCMを流すばかりだ。気のせいだったのかな、と織乃は首を傾げた。

「──準備は出来たか」

話って入るように聞こえてきた久遠の低い声にマネージャーたちがハッと後ろを振り返ると、着替えの終わったらしい選手たちが控え室から続々と出てくるところだった。

「壁山、トイレは大丈夫でヤンスか?」
「はっ! い、行ってくるッス!!」

猛スピードでトイレに向かった壁山に、手早くな、と綱海が笑う。皆それぞれ緊張はあれど、調子を欠く程ではないだろう。予想外のトラブルに巻き込まれはしたが、コンディションにも変わりはない。
皆ならきっと大丈夫──緊張した面持ちで深呼吸をした織乃は、ふとあることに気が付いた。
辺りを見回すと、丁度曲がり角の向こうに赤いマントの端が消えたのが見える。あちらは確か手洗い場があったはずだ。駆け出した織乃に、冬花が声を上げた。

「織乃ちゃん?」
「すぐ戻ります!」




冷水を顔に浴びせて頭を冷やす。試合をするに至ってはさほど緊張はない。だが、用心は念入りに重ねるべきだ。試合中に関係のないことを考えてしまっては勝てるものも勝てなくなってしまう。
タオルで顔を拭いゴーグルを装着し直した鬼道は、ゆっくりと深呼吸する。伏せた目を開けると同時に、廊下に自分以外の足音が響くのが聞こえた。

「──鬼道さん?」
「!!」

聞き慣れた声に一瞬肩を揺らし、鬼道は振り返る。
そこにいたのは、鬼道がいないことに気が付いて様子を見に来た織乃だった。おずおずと遠慮がちな足取りで近寄ってきた織乃に、鬼道は平静を装い声を掛ける。

「御鏡か。どうした?」
「あ……いえ、その……」

困ったように言葉を濁して、織乃は顔を伏せて口を噤む。
数秒の間が空いたのち、彼女は思いきったように顔を上げてこう尋ねた。

「鬼道さん、何だか元気がないような気がして……私の勘違いなら、良いんですけど」

恐らく、出発前にも同じようなことを尋ねようとしたのだろう。不安の滲む目でこちらを見つめてくる織乃に、鬼道はしばしの間無言になる。

「…………はーー……」
「!? ど、どうしたんですか!?」

答えの代わりに出てきた地を這うような特大の溜め息に、織乃はギョッと目を見開いた。
やはりどこか体の具合が悪いのでは、と慌てる織乃を宥めつつ、鬼道はふと思い付いたかのようにこんなことを言う。

「──御鏡、手を貸してくれないか」
「はい?」

言われるがまま、反射的に織乃は利き手を差し出す。
そしてその手を、鬼道はぎゅっと両手で包むようにして握り締めた。

「へぁッ!? 」
「…………」

つい手を引っ込めそうになったが、鬼道はそれをよしとせずにより強い力で握り締めてくる。それでも、痛みを感じさせない程度にではあるが。
そのまま沈黙する鬼道に、織乃も何か感じ取ったのだろう。視線を右往左往させながらも、やがて大人しくされるがままになる。

その様子を、鬼道は彼女に気取られぬようゴーグルの奥でじっと見ていた。

『どんなに強くなって、遠くへ行ってしまっても、あなたが私を見てくれなくても……手が届かなくなる最後の時まで、好きでいさせてください……』

──あの晩は就寝時間を過ぎても中々寝付くことが出来ず、以降の3日間も時折その事が頭を過り、上の空になっては仲間たちに心配された。織乃本人にその様子を見られなかったのは不幸中の幸いだろうか。

よく考えがネガティブな方向に走る彼女のことだ、もしかしたらまた何か悩み事があって、あんなことを言ったとしたら。あの言葉には特に深い意味はなくて、あくまで友人としてと言う意味だったのかもしれない。
けれどその一方で思う。では、何故あの時織乃の声は震えていたのか。どうしてあんなに酷く寂しそうな声だったのか。

──だから、可能性を捨てきれないでいる。
ひょっとしたら彼女も、自分と同じ気持ちなのではないかという淡い期待。

じわりと、目の前にある顔が白い布に赤い染料を垂らしたように鮮やかに染まっていく。握った掌は熱いのに、指先だけが妙に冷たい。
やがて、辛抱できずに俯いていた織乃の面差しが僅かに持ち上がる。
耳まで真っ赤になって、潤んだ瞳と目が合ったその瞬間、鬼道はストンとその感覚を受け入れた。

「(──ああ、そうか)」

彼女は、その目にずっと自分を映してくれていたのだ。選手としてだけではなく、1人の異性として。
鬼道さん、と小さく動いた艶やかな色の唇に、ぞくりと背中が粟立つ。ゆっくりと手を解くと、今まであった温もりが一気に離れて行くのを感じた。

「……突然、すまなかったな。ありがとう、御鏡」
「い、いえ……あの……大丈夫、ですか?」

織乃は鬼道が手を握ってきた真意を知らない。想像もしていないだろう。顔は赤いままだが、その真剣な表情に鬼道は軽く頭を振って、ぽんと彼女の頭に手を乗せる。

「ああ、平気だ。……行こう、みんなを待たせている」
「はっ、はい……!」

柔らかな笑みを向ける鬼道に、首を傾げながら織乃も頷く。歩を進めれば、半歩後ろを着いてくる足音。
鬼道は薄く唇を開き、織乃に気取られぬよう深く深呼吸をした。心に1つ、新しい決意を秘めて。