Guidepost of light
「──本当にこれで良かったのか」
「ええ」
日本対アルゼンチン戦が行われているのと同時刻。久遠と響木は共に大会運営本部の小さな会議室に缶詰になっていた。
影山に関する情報を報せる、ただし直接対談と言う形で──そんな風にこの場所へ呼び出されたのは3時間ほど前のこと。
しかし待てど暮らせど指定の場所に担当者は来ず、これこそ影山の策の内と気付いた頃には既に試合開始30分前を切っていた。
それでも、船をチャーターさえすればギリギリ試合開始に間に合わなかったわけではない。
それをしなかったのには、久遠にある思惑があったからである。
「今までのイナズマジャパンは、鬼道が作戦を立案し、円堂が精神的支柱となることで強くなってきました」
ノートパソコンに映る試合を見つめ、久遠は険しい顔つきで言う。
仲間を支えるキャプテン、そしてチームを指揮する司令塔。彼らを軸に成長してきたことが切っ掛けで、イナズマジャパンは無意識の内にこの2人に頼ってしまっている節がある。
事実、この劣勢の局面で画面越しに見る選手たちの表情からは、徐々にいつもの覇気が感じ取れなくなってきていた。
ここに鬼道がいてくれたら、円堂がいてくれたら──そう意識しているにしろいないにしろ、彼らが似たようなことを考えているのは明白だ。
「2人に頼っている限り、例えこの試合に勝てたとしても──」
「……イナズマジャパンは世界の頂点に立つことは出来ない」
勿論、世界大会に参加したチームの中には、特定の選手に頼ることで力を発揮してきたチームもあるだろう。
だが、それではダメなのだ。
世界の荒波を乗り越えていくには、個々が力を伸ばさなければならない。特定の誰かに頼らずとも勝てるほどの自力を着けなければならない。
彼らが自らの力でこの窮地を乗り越え、あの必殺タクティクスを破らない限り、イナズマジャパンが未来のビジョンを見ることは出来ないのだ。
「やっぱり、無理だったんですよ。監督もキャプテンも無しで戦うなんて……」
わあわあとうねるような歓声の中で、ベンチで項垂れた目金がぼそりと呻く。
いつもならここですかさず反論する秋や春奈だったが、今回ばかりはそれも出来なかった。
何度ドリブルで切り込んでも蟻地獄に捕らわれ、抜け出したところでシュートを放っても必ずテレスに止められてしまう。
同じことの繰り返し、縮まらない点差。身動きのとれない状態は徐々に、しかし確実に選手たちの気力を削ぐ。
「俺たち、このまま負けちゃうんスかね……」
小さな壁山の弱気な発言は一滴落とした薄墨のように広がって、1人、また1人と俯いていく。
変化のない展開に、歓声にブーイングが入り交じり始めたその時だった。
「──っみんなどうしたんですか!」
突如としてフィールドに、小さな声を精一杯振り絞るような冬花の叫びが響く。
ライン際まで駆け寄った冬花は緊張で震える手を握り締め、驚いたようにこちらを振り向いた選手たちを見つめていた。
「まだ試合は終わってないんですよ。なのに諦めてしまうんですか……!?」
「……でも、あのディフェンスが崩せないんじゃ」
冬花の尤もな言葉に木暮がぼそぼそと言い返す。
だったら何なんです、と頭を振った冬花は、語気を強めた。
「何があっても諦めない……それがイナズマジャパンのサッカーじゃなかったんですか!?」
秋と春奈はそこでハッと俯かせていた顔を上げる。
冬花はマネージャーの中でただ1人、ここまでの窮地に陥った選手を見たことがない。
彼女の知るイナズマジャパンはいつだって、どんな危機に立たされても決して諦めず、最後の最後まで全力で戦って勝利を掴み取る──そんなチームだった。
「だから予選大会にも勝てて、ナイツオブクイーンにも勝てたんじゃないですか!」
冬花の切な声を、スタジアムのマイクが拾うことはない。
フィールドにしか届かない彼女の願いは、少しずつ暗い色に染まり始めていた選手たちの心を晴らしていく。
「お願い……もう一度立ち上がって! そして戦って!」
「──そうですよ! 冬花さんの言う通りです!」
「やりましょう、最後まで! イナズマジャパンのサッカーを……!」
「秋さん、春奈さん……」隣に並び立った2人に、冬花はホッとしたように表情を緩めた。いつもなら真っ先に選手を励ましていくはずの彼女たちが動かなかったことが、冬花とって何よりも悲しかったのだ。
「何があっても諦めない……」
「だからここまで勝ってこれた……」
冬花の言葉を反芻して顔を見合わせたのは、立向居と彼の特訓に付き合った壁山と栗松、そして木暮だ。3人は頷き合うと、栗松がセンターサークルの傍にいたヒロトへ声を掛ける。
「ヒロトさん! 俺たちに任せて欲しいでヤンス!」
「お前たちに?」
出来るのか、と言いたげな土方の視線に、彼らはしっかりと頷いた。
「要するに、あのテレスがいない所に打てれば良いんだろ?」
「豪炎寺さんたちはそこで待ってて下さいッス。俺たちがそこまで持っていくッスから!」
先程の落ち込んだ様子とは打って代わり大きく出た後輩たちに、持っていくったってなぁ、と染岡が困ったように顔をしかめる。
「あれはそんな簡単に破れる必殺タクティクスじゃねえんだぞ? それにお前らが上がったらディフェンスががら空きになって、カウンター受けたら終わりじゃねえか!」
「──大丈夫です」
ハッキリとよく通る声が響く。立向居だ。
立向居はゴールから出て仲間たちの元へ歩み寄ると、力強い笑みを浮かべて言った。
「ゴールは、俺が守ります!」
「立向居……」
その表情に不安や迷いはない。友人たちなら必ずあの必殺タクティクスを破ってくれると信じているのだろう。
──それならば、先輩である自分たちがその心意気を否定するわけには行くまい。ややあって、ヒロトは小さく頷いた。
「……分かった、その作戦で行こう。立向居くん、ゴールは頼んだぞ!」
「はい!」
試合はイナズマジャパンのスローインで再開する。
ジ・エンパイアのゴール付近で待機する豪炎寺たちを見て、テレスは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「そっからシュートを打とうってことか? けどあいつらじゃ、ボールを前線まで繋げないぜ」
ホイッスルと共に飛鷹がボールを投げ入れる。
綱海から回されたボールを受け取り、背後に壁山と栗松を追走させた木暮がドリブルで駆け上がり始めると、待っていましたと言わんばかりに『アンデスの蟻地獄』が発動した。
「お前らなんかに取られるかよ!」
果敢に走り続ける木暮はそのままボールをキープする。
包囲網の外から壁山と栗松の大きく張り上げられた声が聞こえた。
「真ん中に寄ってるッス!」
「もっと右でヤンス!」
「……!」
その指示に従い、木暮は包囲網の中を機敏に動き回る。
周囲を囲まれているため動きはかなり制限されてしまうが、ジ・エンパイアの選手たちも接触は極力避けたいらしく、木暮が動く度に包囲網も少しずつ移動していく。
「あそこだっ──」
「甘いんだよ!」
後方に見えた隙間に咄嗟に飛び込むと同時に、ゴルドがスライディングを仕掛けていく。だが、そこで易々と捕まる木暮ではない。
転倒する寸前に地面に手を突いた木暮は、持ち前の身軽さを生かしそのまま倒立すると、器用にボールを足で軽く挟んでサイドを走る壁山の方へと寄越した。
「壁山ぁ!」
「絶対に持っていくッス! 豪炎寺さんのところへ!」
ボールを受け取った壁山が走り出すと、アンデスの蟻地獄は彼を標的に切り替わる。
目の前に立ち塞がる人の壁に、壁山はボールを守るように体を丸めた。
「渡さないッス……! 栗松!」
大きな体によるチャージをジ・エンパイアたちが反射的に避けた一瞬の隙を突き、ボールは更に前方の栗松へと繋がる。
3人のプレーヤーによる力業。僅かだが確実に前線へ繋がっていくボールに、余裕だったテレスの表情にも微かに焦りが見え始めた。
「負けないでヤンス〜!!」
展開される包囲網に一瞬怯みながらも、栗松は必死にドリブルで駆け上げって行く。
もっと中だ、とテレスが声を上げると、包囲網は彼を中央に誘導するべく更に狭まった。
「真ん中に寄ってるぞ!!」
「ダメでヤンス、そっちはダメでヤンス〜!」
「栗松くん……」制限される視界と行動範囲、四方から加わるプレッシャーに負けそうになりながらも走り続ける栗松に、冬花は祈るように手を握りしめる。
「右へ行くでヤンス、右へ──」
「貰った!!」
あと少し。あと少しで前線へ辿り着く──その刹那、栗松の疲労を感じ取ったエステバンが真正面に飛び出してきた。
足元から離れ後方へ弾かれるボール。しかし彼はまだ諦めなかった。
「繋ぐでヤンス──! 豪炎寺さぁん!!」
咄嗟に方向転換した栗松は、軌道上に身を投げ出すようにしてボールをヘディングで弾いていく。
着地に失敗し、その場に倒れ込んだ栗松は見た──豪炎寺が、自分たちの繋いできたボールをしっかりと受け止めるのを。
「っ豪炎寺くん、虎丸くん!! 新必殺技だ!!」
「はい!!」
ヒロトの号令に、サイドで待ち構えていた虎丸が応える。
アンデスの蟻地獄を発動していたために、彼らのプレーを阻害できるジ・エンパイアの選手はいない。想定していなかった位置からのパスに舌打ちしたテレスは素早くゴール前へ飛び込んだ。
「お前たちが繋いだこのボール──無駄にはしない!!」
豪炎寺が弾いたボールはフィールドを弾むと、一気に炎に包まれる。
ゴールへ繋がる軌跡は導火線。助走を着けた3人は渾身の力でボールに脚を叩き込み──その炎を線へと点した。
「グランド──ファイア!!」
直進的な軌道は一点の揺らぎもなく、ゴール前に飛び込んでいったテレスに技を発動させる暇も与えず彼を突き飛ばしていく。
そのまま業火のシュートは繰り出されたキーパーのミリオンハンズを打ち砕き、ジ・エンパイアのゴールネットを貫いた。
鳴り響く得点のホイッスル。体を起こしたテレスは、信じられないように目を見開いた。
「そんな……俺たちの必殺タクティクスが、破られた……!」
自分たちの必殺タクティクスに絶対の自信を持っていた彼は、呆然と1対2に切り替わったスコアボードを見上げる。
これまで無失点を誇っていたジ・エンパイアのゴールを抉じ開けた──ヤマネコスタジアムは本日一番の歓声に大きく揺れた。
「っやりましたね、豪炎寺さん、ヒロトさん!」
「ああ……!」
頬を喜色に染める虎丸に、2人は息を整え頷く。
これも木暮たちが体を張ってここまでボールを繋いでくれた介あってこそ。後方を見ると、木暮たち3人は嬉しそうにハイタッチを交わしていた。
「よーしみんな! このまま逆転してくぞぉ!!」
「おーーっ!!」
必殺タクティクスを破ったことで勝ち筋は見えた。雄叫びを上げた染岡に応え、仲間たちが拳を突き上げた次の瞬間だった。
──空に繰り返し鳴り響くホイッスル。
彼らは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「……試合が……」
「……終わった?」
突き上げた拳をゆるゆると下ろし、一同は目を丸くしてスコアボードを見上げる。
刻まれた時間は0。スコアは1対2。
その数字は、イナズマジャパンの敗北を意味していた。
「そんな……」
やっとの思いで必殺タクティクスを破り、まさにここから反撃と言うタイミングだったのに。
風丸はベンチに崩れ落ち、ヒロトはキャプテンマークを握り締める。スタジアムは両チームを讃える拍手が鳴り響いていたが、イナズマジャパンは初めての敗北にそれぞれ苦い表情を浮かべていた。
:
:
試合を終え、重苦しい空気を引きずったまま一同は日本エリアの宿福へと戻ってくる。
結局負けてしまった──あちこちから出る溜め息に辟易していると、遠くから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「──みんなーっ!!」
「!」
街の方から走ってくるのは円堂だった。
その後ろには、同じように不在だった鬼道たちの姿も見える。
「キャプテン!」その瞬間、少しだけ晴れた表情になった仲間たちに円堂たちは申し訳ない気持ちになりながらも、合流した彼らはイタリアエリアでミスターK──影山と遭遇し、彼の策略に嵌まりヤマネコ島へ行けなかったことを掻い摘んで説明した。
「影山が……!?」
「そうだったのか……」
影山の悪行の数々を知っている仲間たちは、得心が言ったように顔をしかめる。
間に合わなくてごめん、と頭を下げる円堂に、軽く頭を振った豪炎寺が一歩前へ進み出た。
「……すまない、円堂。勝てなくて」
「……」
「みんな……」俯いてしまった仲間たちに、円堂は眉を下げる。
試合に出れず、悔しい思いをしたのは円堂たちも同じだろう。だからこそ、再会した時に良い結果を聞かせたかったのだ。
ややあって、円堂は落胆する仲間たちに笑い掛ける。
「──元気出せよ、みんな! 決勝トーナメントに行けなくなったわけじゃないって、まだ決まったわけじゃないんだからさ!」
「え……?」
「確かに一敗はしたが、残りの試合に全勝すれば可能性は十分残っている」
鬼道の言葉に、仲間たちはハッと顔を上げた。
トーナメントは加算式、一度の敗北が全てを決めるわけではない──初日にマネージャーから受けた説明だ。
円堂もまた試合が終わった直後は同じように放心していたのだが、織乃からこの説明を受け元気を取り戻したのである。
「そうか、全勝すれば……」
「ああ! それよりスゴいじゃないか、あの新必殺技、グランドファイア! 立向居も……やったな、ついに魔王・ザ・ハンドを完成させたんだな!」
「は、はい!」
現場にいられなかった分、伝えられなかったことが山程ある。弾けるような笑顔で向けられる賛辞に、仲間たちは嬉しそうに笑った。
「それに、栗松に壁山に木暮も──何たって、あの必殺タクティクスを破ったんだからな!」
「ふ、冬花さんのお陰ッス」
「フユッペの?」思いもよらない名前が出て、円堂は丸くした目を冬花に向ける。
「冬花さんが思い出させてくれたでヤンス。最後まで諦めないことを……!」
「……! それじゃあ、あの時に」
試合の中で、円堂たちには一度だけ何が起きているのか分からないシーンがあった。冬花がライン際まで飛び出したあの場面である。
「そっか……あの時の冬花さんは、みんなを励ましてくれてたんですね」
「あ、ううん……私は、ただ」
あの時は必死でそれどころではなかったけれど、改めて言われると何て大胆なことをしたのだろう──照れ臭そうに頬を赤らめた冬花は、もじもじと指を重ね合わせる。
俯く冬花に、円堂は屈託のない笑顔を向けた。
「流石はイナズマジャパンのマネージャーだな!」
「! 守くん……」
赤いままの顔ではにかむ冬花に、秋と春奈が左右で顔を見合わせ微笑む。
円堂は改めて仲間たちを振り返ると、拳を突き上げ声を張り上げた。
「よーし! 残りの試合、全勝目指してまた明日から練習だ!」
「おーーっ!」
夕暮れに選手たちの気勢が木霊する。
その様子を、響木と久遠は遠目から穏やかな表情で見守っていた。
敗北を知らずして勝利は掴めない。彼らはこれを機に、もっと強いチームへと進化できることだろう。
:
:
「──それにしても、一体どうして試合に出てない織乃ちゃんまでこんなにボロボロになってるの?」
「お、お手数お掛けします……あ、いててて」
宿福へ戻り約1時間。
夕食作りに取りかかろうとしていた織乃は手首や頬の怪我を見咎められ、自室にて秋から治療を受けていた。
「織乃ちゃんも色々あって疲れてるんでしょう? 今日の夕飯は私たちに任せてゆっくり休んでて」
「え、で、でも──」
言い掛けた言葉を遮るように、ふいに控えめなノックの音が響く。
はい、と反射的に声を返すと、扉越しにくぐもった声が聞こえてきた。
「鬼道だが……今、入っても大丈夫だろうか?」
「鬼道さん?」
瞬間、救急箱を閉じた秋がさっと立ち上がり、織乃が行動するより早く扉を開ける。
鬼道もまさか秋が応対するとは思わなかったのだろう、ゴーグル越しでもキョトンと目を丸くしているのが部屋の奥からでも分かった。
「鬼道くんからも織乃ちゃんに言ってあげて? 夕飯に呼ぶまでしっかり休憩しておくようにって」
「え、あ、ああ……?」
「それじゃあ2人とも、ごゆっくり!」
最後ににっこりと微笑み、軽く手を振った秋は部屋を後にする。──鬼道をしっかりと部屋の中に押し込んで。
「……あ、えっと。隣、どうぞ……」
「ん、ああ……お邪魔します」
しどろもどろしながら織乃が自分の腰掛けていたベッドの隣を叩くと、鬼道もまたぎこちなく頷いてそこに座った。
くうくうと鳴き声を上げながら、海鳥が夕暮れの空を泳いでいく。
しばし間を空けて、鬼道はようやっと口を開いた。
「──今回はすまなかった、御鏡」
「え?」
唐突な謝罪に、織乃はぱちくりと目をしばたく。
足元に視線を落としたまま、鬼道はぽつぽつと続けた。
「俺が奴の策略に嵌まらずに……冷静さを失わなければ、お前を巻き込むこともなかったのに」
「そんな……鬼道さんは何も悪くないです! 私が勝手に巻き込まれに行ったようなものなんだから……」
織乃だけではない。佐久間や、そして円堂もそうだ。自分さえあの時冷静に行動していれば、もしかしたら円堂だけでも試合に出られていたかもしれないのに。
顔を上げた鬼道は、織乃の両手首に巻かれた白い包帯、そして頬の絆創膏を見て眉間にギュッと皺を寄せた。
「……少なくとも、俺があそこでお前とはぐれなければそんな怪我をすることはなかった」
「え、あー、こ、これは……完全に自業自得で出来た怪我なので……」
織乃は頬の絆創膏を掌で隠すようにしながら苦笑いする。
やや乱暴な手で捕獲はされたものの、影山は恐らく織乃があのままあの部屋で大人しく試合が終わるのを待ってさえいれば、危害を加える気は特になかったのだろう。
織乃の役割は、あくまで鬼道をイタリアエリアに留め置くための餌でしかなかったのだから。
強引に縄から抜け出し、窓を破ってでもあそこから脱出したのは、いち早く鬼道の元に駆け付けたかったから。彼に声を届けたかったから。
「しかし──」
「っああもう! しかしも何もないんです!!」
更に謝罪を重ねようとする鬼道に、織乃はたまらずその頬を両手でギュッと挟む。
うぎゅ、と不格好な顔になって困惑する鬼道を、「良いですか?」と織乃はそのまま睨み付けた。
「鬼道さんを追い掛けてイタリアエリアに行ったのも、あそこから飛び出して行ったのも、全部私の意思です! 私がそうしたかったからです! だから……だから、謝らないで下さい」
影に捕らわれていく背中をそのままにしていたくなかった。
声の届かない暗闇に、独りでいてほしくなかった。
言ってしまえば、それは全て織乃のわがままだ。鬼道が受け入れて、初めて叶うものだ。
それを彼に否定されては、その気持ちは行き場を失い燻ってしまう。
「御鏡……」
鬼道は眉を下げ、頬を挟んでいた織乃の手をゆっくりと外す。そして俯いた織乃の前髪を指で軽く上げると、申し訳なさそうに微笑んだ。
「……ありがとう。あの時追いかけてきてくれて、……名前を呼んでくれて」
「……どういたしまして」
不満げだった顔を持ち上げ、織乃は少し気まずそうに笑う。
その拍子に頬に貼られた絆創膏がひきつって、鬼道は傷に触れないようそっと指先でそれに触れた。
「全く……お前にここまで心配させるなんて、情けない。格好悪いな……俺は」
「そんなことありませんよ。……それに、格好悪い鬼道さんも、私は好きです」
ぽろりと零れたのは嘘偽りない織乃の本音だった。目を瞬いた鬼道の目の前で、口を滑らしたらしい織乃の顔が見る見る内に赤くなっていく。
「──本当に?」
「ほっ、本当です……」
じり、と距離が詰められる。するりと頬から顎にかけてのラインをなぞられて、思わず目をきゅうっと瞑ると、小さく唾を飲む音が聞こえた。
これ以上何か言葉にしたら、頭が沸騰しそうだ。
──意を決し、織乃はそっと顎を上げる。
閉ざした視界の代わりに、鋭敏になった聴覚が密やかな深呼吸を拾い上げる。膝の上に置いた拳にそっと片手が重なり、唇に微かな呼気が伝わってきて──
「……ヴッ!?」
「ぐ、っ」
ごち、と瞼に少々重たい衝撃が走った。
軽く仰け反った織乃は思わずぱちっと目を開く。
隣に腰掛けていた鬼道もまた驚いたように米神の辺りを押さえて、──ゴーグルを着けたまま目をしばたいていた。
「…………」
「……御鏡」
「……は、はい……んふっ」
「笑うな……!!」
「すみませ……っ」謝りこそするものの、肩の震えは止まらない。
笑いを噛み殺し続ける織乃に、鬼道は何やらぶつぶつ言いながらやや乱暴な手付きでゴーグルを外す。
ばちん、と弾むバンドの音に織乃はハッと唇を真一文字に結んだ。それでも口端の痙攣は中々収まらなかったが。
「くふっ……ん゙んっ! ……鬼道さん」
「……何だ」
鬼道の顔は一転して不機嫌だ。先程までのあのしおらしい態度はどこへ行ったのだろう──そう思うとまた噴き出しそうになる織乃だったが、ここはグッと堪える。
そして崩れた髪を耳に掛け、組まれた鬼道の足にそっと手を添えると──今日一番の勇気を振り絞った。
「もう一度、……しましょう?」
「……良い提案だな」
むすっとしていた鬼道は、軽く溜め息を吐く。
大方、やっぱり格好が悪いとでも思ってるのだろう。そんなところも含めて彼のことが好きなのだ──小さくはにかんで、織乃は再び目を閉じた。
夕日が少しずつ傾いて、水平線の向こうに沈んでいく。
オレンジ色の光に包まれながら、2人はガラス細工に触れるような慎重さで、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
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