VS.Orpheus

水飛沫を上げ、波を掻き分け一艘の船がコンドル港に到着する。
船から降りた草臥れたコートの初老の男──鬼瓦は、強い日差しに一瞬顔をしかめながら後方を振り返り、そちらへ片手を差し出した。

「……さ、着きましたよお嬢さん」
「ええ。どうもありがとう」

その手を支えに、揺れる船から降り立つのは夏未である。
夏未は頭上から響く歓声に、スタジアムのあるコンドルタワーを真剣な表情で見上げた。






ハーフタイムも終わりに近付き、両チームが控え室から戻ってくる。
ふとオルフェウスの方を見た円堂は、キョトンと目を丸くした。先程ピッチに彗星の如く現れた中田が、ユニフォームを身に纏い腕にキャプテンマークを巻いていたのだ。

「フィディオ! キャプテンはお前じゃなかったのか?」
「ああ、彼さ。日本から来た天才プレイヤー、ヒデ・ナカタ──俺はずっと、彼の代理を務めていたんだ」

思わず尋ねた円堂に、フィディオは嬉しそうに中田を振り仰ぐ。
小さく笑んだ中田は円堂たちの元に駆け寄ってくると、「初めまして、円堂くん」と声を掛けた。

「君と戦える日を楽しみにしていたよ」
「……ああ、望むところだ!」

力強い返事に目を細めた中田は、フィディオと連れ立ちフィールドに入って行く。
それを見送った円堂は、頬をばちんと両手で挟んで気合いを入れてゴール前へと駈けて行った。

「ヒデ・ナカタ……一体どんな選手なんですか?」
「全てのステータスが高水準で、弱点の少ない人……かな」

聞き覚えもなく、データも少ない中田のことを唯一知る織乃は、立向居の問いに真剣な表情で答える。
中田はジャンルカに代わりMFとして参戦するらしい。前半の進化を経て更に中田の力が加わることで、オルフェウスがどんな変化を遂げるのか──それはきっと、とてつもないものになるだろう。

「(だけど、それでもみんなは勝たなきゃならない)」

ここで負ければ、イナズマイレブンの予選敗退は濃厚だ。何よりも、本気を出した影山に勝ち、彼を超えることを目標に据えた鬼道が納得しないだろう。

真剣な表情で正面を見据える鬼道の横顔に、織乃は緊張で逸る鼓動を押さえるようにぎゅっと膝に置いた手を握り締めた。

両チームが所定の位置に着いたのを確認した審判が高らかにホイッスルを吹き鳴らし、いよいよ後半が開始される。
キックオフはオルフェウスからだ。フィディオからのボールを受けた中田は素早く仲間たちに目線を送り、パスを出す。
そのまま短く繋がっていくダイレクトパスの連続に、イナズマジャパンの選手たちはたちまち動けなくなってしまった。

「(パスも正確だが、空いたスペースを見つけて走り込むポジショニングが良い。これが前半と同じチームなのか?)」

それでもボールを追い、懸命にパスカットする機会を窺いながら鬼道は瞠目する。
チームメイトが1人戻っただけで、オルフェウスはまた更に別のチームへと姿を変えてしまった。それほどまでに彼の力、そして彼が仲間から引き出す仲間たちの力が大きいと言うことだろう。

「オーディン──ソード!!」
「イジゲン・ザ・ハンド!!」

中田からのキラーパスを受けたフィディオのシュートが、イナズマジャパン陣内を真っ二つに切り裂き円堂の展開した障壁に激突する。

火花を散らした2つの必殺技だったが、僅かな差で軍配が上がったのはフィディオの方だった。
半球状の障壁に亀裂が入り、仰向けに吹き飛ばされた円堂の視界にシュートが横切っていくのがスローモーションのように映る。

──しかしゴールラインを超える直前、中盤から駆け戻っていた鬼道がマントを翻してボールの前へ飛び出した。
無理矢理軌道を変えられたボールはポストにぶつかり、我に返った円堂はすかさずそれに覆い被さる。

「っ助かったぜ鬼道!」
「負けるわけにはいかないからな……!」

鍔迫り合いを演じる両チームに、観客のテンションは前半に増して盛り上がり島中に歓声を響かせる。
その振動に髭を震わせながら、サングラスの奥で目を細めた響木は影山の方を見やった。

「流石だな、影山。この短期間でチームをここまでまとめ上げるとは。だが俺も──雷門イレブンの魂は、このイナズマジャパンにも引き継がれているぞ」

ボールを持ち込む鬼道を、オルフェウスたちがカテナチオカウンターの構えで取り囲んで行く。

「それはもう通用しない……!」

正面から向かってきたフィディオを抜き去る鬼道だったが、その直後、フィディオの影から中田が飛び出して来た。
反応の遅れた鬼道からボールを奪い去った中田は、そのまま前方のラファエレへパスを回す。

「(中田が加わったことで、カテナチオカウンターまで進化しているのか!)」

中田のパスを受けたラファエレが、ボールを高く打ち上げる。その落下地点に走り込むフィディオに、壁山たちDFはゴールを守るべくその進行方向へと立ちはだかった。

「──違う、フィディオさんじゃない!」

その背後に近付く影に、織乃が声を上げるが一歩遅い。
フィディオは落ちてきたボールをダイレクトでヒールパスすると、後方へ迫っていた中田へとパスが渡る。
今まで目立っていたフィディオを完全に囮に使われたイナズマジャパンのゴール前はがら空きだ。中田は蹴り上げたボールを追い宙へと跳び上がった。

「ブレイブ──ショット!!」
「っイジゲン・ザ・ハンド!!」

青い光の軌跡を残し、中田のシュートは虚を突かれながらも繰り出した円堂の障壁を打ち砕き、ゴールに突き刺さる。
再び2対3へと離された得点に、観客のボルテージが更に上がる。円堂は体を起こしながら、痺れの残る手を見つめ口角を持ち上げた。

「スゴいシュートだ……でも、次は止めて見せる!!」

唇を噛み、織乃は自陣へ戻る中田を見つめた。
精神的支柱である中田が戻ったことで、オルフェウスはより強固なチームへ進化した。イナズマジャパンも負けじと応戦するが、悉く攻撃を防がれてしまう。

「(やっぱり、あの人は強い……何か、打開策を見つけないと勝ち目はない)」

あと1歩、ほんの少し何かが足りないのだ。織乃は固く拳を握り締め、悔しげにスコアボードを見上げている鬼道を見やった。

「(あのカテナチオカウンターを破らなければ、ゴールチャンスは生まれない! 勝たなければ……俺があの人と決別した意味が、サッカーを続けていく意味がない!)」

焦燥に駆られながら、鬼道は無意識の内にテクニカルエリアの影山に視線を向ける。
サングラスに隠れたその目が、ならばお前の追い求めるサッカーとは何かと問いかけているような気がした。

「(俺の求めるサッカー……)」

そんなことを考えた鬼道の脳裏に、ふと今までの記憶が走馬灯のように蘇る。

──君は私の言う通りに動いていればいい。何も考えずに……。
──俺、ずっと思ってたんだ。こいつと一緒にプレー出来たら楽しいだろうなって! 初めてお前のボールを受けた時からさ……!
──雷門にいる方が、お前は自分を出せているのかもしれない。お前が存分に実力を発揮できる場所を見つけたことを、嬉しく思うよ。

──あの人に思い知らせてあげましょう、鬼道さん。私たちが、昔よりずっと強くなったんだってことを……!

「……!」

鬼道は弾かれたように、仲間たちを振り返った。
自分はまた、何を迷っていたのだろう。答えはすぐ傍にあったのだ。

ボールが再び中田へと渡り、二度目のブレイクショットが放たれる。

「必ず防ぐ……! そしてみんなに繋ぐんだ!! イジゲン・ザ・ハンド≪改≫!!」

咆哮を上げ、この土壇場で進化した円堂のイジゲン・ザ・ハンドに、中田のシュートは半球状の障壁の上を滑りゴールポストへ激突する。
跳ね返ったボールを咄嗟にヘディングで弾いた綱海がすかさず叫んだ。

「行けェ、壁山!!」
「このボールは渡さないッス!!」

ボールは壁山から飛鷹へ、そして吹雪へと繋がると、中盤の風丸に回り前線を少しづつ上げていく。

「(仲間との考え、生み出し、育てていくサッカー。誰かに決められたシステム的なサッカーを目指すのではなく──そう、この雷門サッカーこそ、俺の求めていたもの……!)」

ボールは最前線にいた豪炎寺から、ノールックパスで後方の鬼道へと繋がれた。
そのまま自らドリブルで持ち込む鬼道を、オルフェウスが取り囲む。

「(仲間の思いが籠ったこのボールこそ、その証!!)」

フィディオを抜き去った鬼道の目の前に中田が立ち塞がるも、鬼道の目はもう揺らがない。
次の瞬間、鬼道のマントの影から飛び出した不動と佐久間に、今度は中田が目を見開く番だった。

「鬼道!」
「ふん……!」
「行くぞッ!!」

短い声かけを合図に、3人はついに中田を抜き去って行く。

「行けーっ!!」

興奮を抑えきれなくなった織乃の叫びを聞きながら、鬼道たちは打ち上げたボールを追い一息に跳躍した。

「皇帝ペンギン──3号!!」

空中を旋回したペンギンたちが、ブラージの顕現させたコロッセオガードに食らいついていく。
やがて分厚い壁を穿ち、打ち破った皇帝ペンギン3号は、オルフェウスのゴールに勢い良く突き刺さった。

これで3対3の同点だ。興奮冷めやらぬまま、鳴り響くホイッスルに選手たちは再び走り出す。

「もう一度突き放す……ッ!」
「決勝点を取る!!」

残り時間が差し迫る中、両チームは激しいプレーの応酬を繰り広げる。息もつかせぬ展開に、テクニカルエリアのチームメイトたちの応援もより力が入った。

「く──!」

そして、鬼道とフィディオが奪い合っていたボールが弾みで天高く打ち上がった次の瞬間──つい先程鳴ったばかりのホイッスルが、再びけたたましく鳴り響く。

追い越すことの出来なかったスコアボードの点数を見上げ、選手たちは糸が切れたかのように脱力した。

「勝てなかったッス……」
「チームを離れていた人たちの思いを……僕たちは背負っていたのに……!」
「悔しい、です……ッ!!」

一気に襲いかかってきた疲れと落胆に、イナズマジャパンの選手たちはそれぞれぐったりと項垂れる。
テクニカルエリアもまた重たい沈黙に包まれる中、唇を引き結んだ目金が立ち上がった。

「皆さん……まだ予選通過出来ないって、決まったわけではありませんよ」
「ッ他のチームの負けを期待しろってのか!?」

即座に噛みついてきた染岡に、目金は引き締めたばかりの顔を引き攣らせて身を竦める。
だが、目金の言うことにも一理ある。この試合に勝てなかった以上、今の彼らに出来ることは何もないのだ。

「これで俺たちは終わってしまうのかもしれない……」

汚れたスパイクを見つめ、ぽつりと風丸が呟く。それまで痛いほどに響いていた歓声は今は遠く、一同は呆然とするしかない。

「胸を──張ろうぜ、みんなっ!」

そんな時、ゴールの前で仰向けに倒れていた円堂が、持ち上げた足で反動をつけて体を起こしながら言った。

「俺たち、やるべきことは一生懸命やったんだ」

力無い視線を受け、それでも尚いつも通りの笑顔を浮かべて言った円堂に、仲間たちは顔を見合わせ微かに笑みを浮かべて立ち上がる。
やるべきことは一生懸命やった──負けてしまっても、そこに後悔はない。

観客が選手たちを讃える歓声を上げる中、両チームがセンターサークルに整列する。

「良い試合だったな!」
「心から楽しめたよ」

円堂と中田が握手を交わすと、スタジアムは割れんばかりの拍手に包まれた。
それを横目に、鬼道は正面に立つフィディオに話し掛ける。

「フィディオ……感謝する。お前は本気のあの人を引き出してくれた」
「そうしなければならなかったんだ。チームの為にも、自分の為にも」

伏せ目がちに答えたフィディオに、鬼道は眉を上げる。

チーム同士の挨拶も終了すると、観客たちも少しずつ捌けていく。先程までとは打って変わって静かになりつつあるピッチからテクニカルエリアに戻ると、春奈と目金が揃って難しい顔でノートパソコンを覗き込んでいた。

「待つしかないなんて……」
「すべては明日……明日行われる、アメリカ代表ユニコーンの試合結果次第です」

スコアボードを見上げて溜息を吐く秋に、勝ち点を確認していたらしい春奈が顔を上げる。

この引き分けで、オルフェウスは勝ち点8でグループ1位が決定した。
イナズマジャパンは勝ち点が7、ユニコーンが勝てば同じく勝ち点7。その場合は2つのチームの得失点差で決まるが、イナズマジャパンは大量得点差で勝った試合が1つもない。
どうにも出来ない状況に、選手たちは表情を曇らせる。

「勝たなければいけない試合に、勝てなかった。それが今のお前たちの現実だ」

気まずい沈黙を容赦なく切り裂いた久遠に、選手たちは再び口を噤んだ。
しかし久遠は、そんな彼らを見回して言葉を続ける。

「……だが、誰に恥じることもない最良のプレーだったと言えるだろう。あとは結果を待て」
「……! はい!」

滅多にない久遠からの激励に、円堂たちは気持ちを切り替えて表情を引き締め頷いた。




イナズマジャパンが明日への気持ちを新たにする一方、オルフェウスは勝ち取った決勝戦へのチケットに喜び勇んでいた。

「──フィディオ」
「! はい」

仲間たちと健闘を讃え合う最中、背後から掛かった低い声にフィディオはハッと振り返る。そこに立っていたのはやはり影山だった。

「何故カテナチオカウンターに、父……影山東吾のプレーが必要だと思ったのだ?」

彼の声色は責めている様子はなく、ただ疑問を口にしただけのものに感じた。フィディオは穏やかな笑みを湛え、影山に向き直る。

「キャプテンが送ってきてくれたビデオのお陰です。そこに影山東吾のプレーが映っていました」
「ナカタが……」

ちらりとフィディオの後方にいる中田に視線を向けると、彼は話に関わる素振りも見せず素知らぬ顔で佇んでいた。

「俺はあなたのことを知りたかった。サッカーを憎みながらも、サッカーを知り尽くしているあなたを……」

古い映像の中、誰よりも抜きん出たプレーで輝く影山東吾の姿。彼のプレーを見て、全てはそこに関わりがあると確信したのだ。

「だから調べたんです、あなたの過去を……そして分かりました。あなたが抱える心の闇を。だからこそ、俺は影山東吾のプレーに拘ろうと思いました。チームの勝利の為にも、何より、あなたのためにカテナチオカウンターを完成させなければいけないと」

紺碧の瞳で真っ直ぐと見つめてくるフィディオに、影山は理解出来ないと言いたげに眉を顰める。

「……何故だ。何故そこまで……」
「俺が、あなたと同じだからです」

思わぬ返答に、影山はサングラスの奥で瞠目した。
フィディオはそんな影山の心境を知ってか知らずか、そのまま続ける。視界の端で、赤色が翻るのが見えた。

「俺の父も、自分の才能に限界を感じて苦しみ続けたサッカー選手でした。でもどんなに生活が荒れても、俺は父が──父のプレーが好きでした。だから俺は、サッカーを諦めなかった」

影山のことを調べたとき、フィディオが真っ先に思い出したのは自分の父が荒れていた頃の記憶だ。少年時代の影山も、その時のフィディオと同じ気持ちを味わったのだろう。
似た過去を持ちながら違う道を歩んだ2人の違いは、フィディオがサッカーを諦めなかったことに対し、影山はサッカーへ憎しみをぶつける以外に感情の捌け口を見つけられなかった──きっと、ただそれだけだ。

「あなたが憎んでも憎んでも……サッカーを続けてきた理由は、きっと俺と同じはずです。あなたは父である、影山東吾というプレイヤーが好きなんです……!」
「私が父を……」

──フィディオが再現した父のプレーを見たとき、様々な感情の奔流が心の奥底から溢れてきたのが分かった。それがフィディオの思惑通りとも知らず、ただ感情のままに声を荒らげたのは随分久しぶりだった。

「影山東吾のプレーを見れば、その頃の気持ちを思い出すかもしれない。そう考えたんです」
「そうか……ふふ、お前ごときに気付かされるとはな。いや──お前だから、か」

父の領域に到達した者。憧れた父を超えた者。その2人が、今このフィールドにいる。
影山は小さく口角を上げて、ゆっくりと振り返る。そこには、神妙な顔でこちらを見上げる鬼道が佇んでいた。

「……流石だな。お前たちは本物だ」
「っあなたこそ……!」

どこか諦めが見える笑みに、鬼道は咄嗟にそう言い返す。
いつも人を喰ったような笑みを浮かべてばかりだった影山の、そんな表情を見たのはこれが初めてだった。

「私もなりたかった。……お前たちのように」
「あなたなら、なれたはずです」

──ふいに遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
そちらに一瞬意識を向けた鬼道は、ハッと影山を見た。

「まさか、自分で……!」
「私にとって、これが最後の試合だ。……楽しかったよ」

そう答える影山は、本当にもう思い残すことがないのだろう。穏やかに緩まる眉間の皺を見上げ、しばし無言になった鬼道はふいに自身の着けたゴーグルに手を掛ける。

そして、先程よりもいくらか開けた彼の視界に、少しだけ驚いた様子の影山の姿が映った。

「──久しぶりだな。お前の素顔を見るのは」

露わになった赤い瞳を閉ざして、鬼道はかつての記憶を呼び起こす。
それは帝国学園に入学し、サッカー部に入って間もない頃の話だ。




──これを着けてみろ。試合の流れが良く見える。

ピッチ全体を見渡せる観客席の高台で、そう言った影山が渡してきたのは小さめのレンズが付いたゴーグルだった。
首を傾げつつも受け取ったそれを着けると、案の定眼下で行われているミニゲームの様子が見にくくなってしまう。

「……総帥、これでは視野が狭まってしまいます」
「果たしてそうかな? それは見るべきところをより深く見るためにある」

率直な感想を述べる教え子に、影山はそう答えた。
より深く、と彼の言葉を受け反芻した鬼道は、何かに気が付くと改めてフィールドを観察し、その意味を理解する。

「……分かったようだな」
「深く見るからこそ、ボールの回転を読み、落下地点を予測できるようになる……と言うことですね」

自分の望んだ答えを出した鬼道に、影山は満足げに笑う。
──まだ心の底から彼を信じ、尊敬していた頃の記憶だ。




「……お前には、もう必要ないか」

わざわざ目の前でそれを外すということは、そういうことだろう。けれど、鬼道は小さく首を振ってもう一度ゴーグルを装着する。

「いいえ。これからも使わせてもらいます。……これは俺のトレードマークですから」
「ふ……そうか」

薄い笑みを交わし合う2人を見て、織乃は胸の奥でつかえていた何かが取れたような気がした。散々遠回りを繰り返して、影山も、そして鬼道も、やっと自分の望んでいた場所に辿り着いたのだ。

「(本当に……良かった)」

それから数分の間も空けず、スタジアムに足音荒く続々と警官たちが突入してくる。

「ミスターK……いや、影山零治! 傷害罪及び、国外逃亡の容疑で逮捕する!」

自身を取り囲む数人の警官に、影山は何も言わずに従い歩き出した。
そして──ふと、思い出したように立ち止まる。

「……私がこの言葉を口にすることはないと思っていたが」

肩越しに影山が振り返る。サングラスに2人の少年を映し、彼は小さく微笑んだ。

「ありがとう。フィディオ……そして鬼道」
「監督……」
「影山、総帥……」

その言葉を最後に、影山は今度こそテクニカルエリアから去って行く。
そこへ、少し遅れてピッチに出てきたのは鬼瓦と夏未だった。2人を知る面々は思わぬ登場に目を丸くしたが、すぐに因縁の対決を見届けに来たのだろう、と察して口を噤む。
鬼瓦は出遅れたことに一瞬顔を顰めつつも、スタジアム構内の出入り口へと足を進める影山に声を荒らげた。

「待て、影山! お前を操っていたのは誰だ? お前が40年前バスに細工し、ここまでの全ての陰謀を企んできたとは思えん──お前に力を与え、闇に引き込んだ人物がいたはずだ!」
「……そこまで調べていたか」

返されたのは否定ではない。やはり、と呟いた鬼瓦が更に問い質そうとするより先に、頭上から幼い声が掛かった。

「どこ行くの?」

声の主は観客席の端からピッチを覗き込んだルシェだった。背伸びをして影山を見下ろしたルシェは、どこかへ姿を消そうとしている彼に不思議そうな顔をしている。

「ルシェ、話したいこといっぱいあるんだよ!」
「……また手紙出すよ」

短く答え、影山はスタジアム構内に続く階段を下って行く。暗闇に消えていく師の背中に、鬼道は──ただ深々と、頭を下げた。






コンドル島を離れ、ライオコット本島のメインエリアの外れに建つ拘置所の前に黒塗りの護送車が停まる。
降車した影山はふと頭上を見上げ、降り注ぐ陽光に目を細めた。

「空か……こんな気持ちで見上げるのはいつ以来だろう」

青々とした空を見上げ、小さく呟いた声は周りの警官たちには届かない。表情を緩めた影山は、誘導に従い入口へ続く階段に足を掛ける。
──徐に、背後から激しい衝突音が響く。けたたましいエンジン音が急速に近付き、振り向いた彼のサングラスにこちらへ直進してくるトラックの姿が映った。